万世一系とは、日本の皇室の血統が絶えることなく続いていくことである。
言ってみればそれだけの話なのだが、それをどう解釈するかとなると膨大な思想、研究が存在する。皇室の歴史は長いだけあって非常に多様で多面的である。「皇室の本質、本義、伝統」なるものを唱えても歴史を紐解くといくらでも例外があったりする。以下の解説も「万世一系」の一解釈にすぎない。
「万世一系」という言葉自体は近代的な言葉であり慶応三年(1868年)に岩倉具視が「王政復古議」で「皇家は連綿として万世一系」と記述したのが初出である。しかしそれに相当する思想は古代から存在しており、万世無窮(日本書紀)、一種姓(神皇正統記)、皇統一統(戒太子書)、万世一姓(水戸学派の藤田東湖)などの表記が存在する。また福沢諭吉は『文明論之概略』において一系万代と表記している。
豊かで瑞々しいあの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。わが孫よ、行って治めなさい。さあ出発しなさい。皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き窮まることがありません。
と勅した(天壌無窮の御神勅)。以降、日本は現代に至るまで天照皇大神の血統を受け継ぐ子孫、すなわち天皇が統治することとなる。現在の令和の天皇は126代目にあたり、史料で実在が確認できる代から始めても現存する王朝の中では世界最古の王家である。
明治時代に、邇邇芸の曾孫にあたる神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト、神武天皇)の即位を以て日本の建国としその日を紀元節に定めた[1]。また即位年を西暦に当てはめ「皇紀」という独自の暦を制定した。令和四年は皇紀2682年に当たる。
奈良時代には称徳天皇が弓削道鏡[2]に禅譲を企て[3]、皇統の危機が発生している。称徳は道鏡への譲位を盤石にするために宇佐八幡宮の「道鏡を皇位継承者にすれば社会が安定する」という神託を和気清麻呂に確認に行かせた。しかし、清麻呂はそれとは真逆の神託を持ち帰る。
我が国は始まって以来、君主と臣下との区別がはっきり定まっている。臣下の者を君主とすることは未だかつて無いことである。天皇は皇族の者が後を継ぎなさい。君主の地位をねらい、道にはずれる者は早く追放してしまいなさい。
天皇の期待に沿えなかった清麻呂は名前を「別部穢麻呂」に改名された上で大隈国に流罪にされたが、明治時代には皇室を守った英雄として国民から広く敬愛された。
785年、桓武天皇は日本で初めて郊祀を行った。天命を受けた宇宙で唯一無二の皇帝の存在を国家的に示す中国式の儀式であるが、ここで桓武は天照大神でも神武天皇でもなく、自らの父の光仁天皇を始祖として祀っている。光仁は政変の末に突如即位した天皇であり、近代的な万世一系思想とは違う桓武天皇の皇統観が垣間見える。
中国では王朝が頻繁に変わるので日本の王朝が不変であることに皇帝が驚いたという記録もある。『宋史』日本伝に奝然(ちょうねん)が携えた『王年代記』を読んだ太宗が、
日本など島国の夷人にすぎぬ。それなのに王位を代々世襲して遥かに長く(中略)島国の夷人とはいえバカにできぬぞ。これこそ古の道に叶うものだからだ。
と嘆息したことが書かれている。奝然は皇帝の前で自国の王朝の長さを自慢したとあるので、平安時代でも既に皇統を誇る観念が存在することが窺える。
しかし自慢の種というものは傲慢にも繋がる。天皇が有徳であり臣民から推戴され続けてきたからこそ皇室が続いてきたものが、やがて「皇室は続くべきなので臣民は推戴しなければいけない」であると因果が逆転した思想がはびこりはじめる。中世の花園天皇は『戒太子書』でこう述べている。
媚びへつらう愚か者たちは「我が国は皇胤一統(万世一系)であり、王朝が興亡する外国と違って徳がなくとも異姓簒奪の心配がない」というがそれは大きな間違いである。現実政治に現れていなくとも理屈は明らかだ。徳がないまま皇位を保とうとするのは岩の下に卵を置いたり、古い縄で谷を渡るようなものだ。中古以来、戦乱が続いており悲しいことだ。太子よ、過去の世の興廃をよく見定めてしっかり考えよ。
室町時代には皇統は北朝と南朝(吉野朝)に分離した。南北のどちらが正統な王朝かの議題を正閏論といい、戦前までは政治問題に発展するほど重要なテーマであった。現在の皇室は北朝の子孫であるが、宮内庁は南朝が正統王朝としている。
近世において国学が発展すると「万世一系」思想はより強化されていき「王朝交代ばかりしている大陸と比べて金甌無欠の王朝が治める本邦こそが世界の中心であり『中華』の名に相応しい」という先鋭化した思想まで誕生した。山鹿素行の『中朝事実』もそのような内容の歴史書であるが、後の明治の軍人、乃木希典は明治天皇に殉死する数日前に、昭和天皇(当時は皇孫)にこの書を手渡したというエピソードもある。また林春勝、信篤父子の著した『華夷変態』では漢民族の明が女真族の清に倒され華は夷になってしまったとして日本の優越性を確認している。
国学の大家、本居宣長は先述の花園天皇とは真逆に、天皇が有徳でないことに価値があると考えた。「君主は有徳であるべき」とする儒学的思想は「もしより有徳の者が現れたら既存王朝に取って代わるべき」という易姓革命へと繋がる。そのような賢しらさを本居は「漢意(からごころ)」と呼び、徳とは無関係に「種」によって固定された皇室こそが大和心(日本の個性)であると述べる。このような国学は後期水戸学派などに受け継がれ、近代の「国体論」「万世一系」思想に繋がっていく。
明治には天照皇大神と共に神武天皇が皇祖として大きくフォーカスされた(幕末以前の神武天皇は他の天皇と比べて別段目立つ存在ではなかった)。神武天皇の即位日を紀元節(建国記念日)とし、国家神道が国全体に広く敷衍していった。万世一系の天皇を中心とする日本国家の基本的なあり方を国体(國體)と呼び、万世一系を前提とした歴史観を皇国史観という。「万邦無比の万世一系」思想は近代国家建設に貢献した一方で、やがて侵略イデオロギー、他民族蔑視に転化していく。「現御神(天皇)の治める日本は他の民族に優越する民族であり、世界を支配すべき運命を有す」という思想の下、日本軍は大陸、東南アジアに進出し原住民を「皇民」にしていった。
敗戦時には昭和天皇は戦争責任者として世界中から糾弾され、天皇制廃止が求められた。皇室の歴史で最も危機的な状況であったがアメリカ政府とGHQ(マッカーサー)は日本統治のために天皇制を存続させることを決定しており、天皇制と昭和天皇を守るために尽力している。GHQは天皇の政治権力を国会に移譲させ、皇族から財産を没収し、憲法草案から天皇主権を削除し国民主権を明記した。天皇の権力は大幅に制限されたが、同時に皇室の維持にも成功する。GHQが皇室を存続させてくれたことには時の首相の幣原喜重郎や吉田茂も感激しており、マッカーサーの元には日本国民からの大量のファンレターが届いた。
敗戦後は天皇は元首から日本の象徴となった。おおっぴらに「万世一系」が唱えられることはなくなったが、一方でこれを否定する公式見解もでていない。戦中は禁じられていた「万世一系」の科学的批評も開始され、天皇家の祖先は大陸から列島に渡ってきた騎馬民族であるとする説(騎馬民族征服王朝説)や、崇神天皇、応神天皇、継体天皇の代で王朝交代が起きたという説(三王朝交代説)が提唱された。現在では神武天皇を筆頭とした初期の天皇は実在しないというのが定説である。
歴史の中で皇位の継承はその時代に応じた方式が取られていた。飛鳥時代には正統の天皇は皇族と皇族の間の子に限られていた。そのため近親相姦が多くなり、家系図がこんがらがっている。正統とは「しょうとう」と読み、皇統を伝える天皇のことを指す。正統の天皇の子が次世代の天皇となり、正統でない天皇はいわゆる「中継ぎ」となる。奈良時代には藤原不比等の娘、光明子が史上初めて臣民出身の皇后となったことをきっかけに天皇と藤原氏(or皇族)の間の子が正統の条件となった。
中世正統思想では親→子の継承が本義であり分家は望ましくないものとされた。中世には「正統の天皇を決める権利」自体が一種の特権となり、その権利を奪い合う政争、紛争も起こっている。承久の乱後はその権利は武家に奪われてしまったが、鎌倉幕府も中盤以降は持明院統と大覚寺統に分裂した皇統の管理が上手くいかず幕府の権威は失墜した。元弘の乱の発起人である後醍醐天皇の目的は中継ぎの地位から正統を奪取することであるため、中世正統思想は鎌倉幕府滅亡を理解するには必須の観念であろう。
中世では戦争が続き皇室も衰退したことで大嘗祭が断絶してしまった(復活は江戸時代中期)。大嘗祭は皇室祭祀の中でも最上位に位置づけられ古代以来天皇即位に必須といわれていたため大嘗祭を経ずに即位した天皇は「半天皇」と呼ばれたこともある。また南北朝の動乱で、同じく登極に必須と言われていた三種の神器がないまま即位する天皇が続出し、神器の代わりに上皇の詔を得るという手続きを取っていたのだが、上皇すら存在しない時に西園寺寧子という非皇族の治天の君(皇室の家主)が誕生するという珍事も起きている。
近世に万世一系思想が中世正統思想に取って代わり始めると、皇統であれば誰しもが継承権を持つと考えられるようになった。その転換期を象徴するのが光格天皇の尊号事件である。これは傍系で即位した光格天皇が父親に太上天皇(上皇)の尊号を送ろうとして徳川幕府と対立した事件である。親から子への継承を基本とする中世正統思想では親が天皇でなければ子が天皇になる資格がなくなる。そのため光格天皇は親に上皇の称号を送ろうとしたのである。しかし幕府は「光格天皇は皇統なのだから即位に全く問題がない(万世一系思想)」としてこれを拒否したのである。
明治維新期に天皇は男系男子に限ると皇室典範に記載された。典範の草案では女系継承も可とされていたが反対多数で削除。前例の多い女帝を容認する声は官民共に強かったが典範作成に携わった井上毅が却下している。また典範では皇位継承順が明文化され、天皇本人や権力者による恣意的な皇太子指名は出来なくなった。更に西洋の王室から同等性の原理が導入され天皇の母親に高い家格が求められるようになった。光格天皇の母親は町医者と商家の間の娘という異例の出自の低さであったが、近代以降はそのようなことはありえなくなった。また皇族が養子をとることが禁じられた。光格天皇は養子であったため二重に禁じられたこととなる。
戦後には庶子、すなわち側室の子は天皇になれなくなった。大正天皇が側室の子であるように、側室は皇位の安定継承に必須の存在であったが大正天皇が既に「人倫に悖る」として妾を持つことを忌避しており、戦後法で完全に廃止される。また同等性の原理が廃止され史上はじめて平民出身の皇后(正田美智子)が誕生した。美智子妃との結婚に関して「伝統に反する」として皇族や保守層から非常に強い反対があったが世間ではミッチーブームが起き社会現象となった。一方で男系男子の縛りは保持された。この時も女系女子の天皇を可とする声は小さくなかったが典範作成に携わった金森徳次郎が却下している。
令和4年現在、若い皇族の男子が悠仁親王しかいないため、いざという時のために女性・女系天皇を容認するか、戦後に皇籍離脱した旧宮家の子孫を皇族にするかの2択で議論が紛糾している。
「万世一系はウソである」という言説があるがこれは万世一系の定義次第と言える。冒頭で記した定義である
1.皇室が永く続いている
であればこれは正しい。少なくとも6世紀の継体天皇から今上天皇までその断絶を示す史料はない。約1500年は現存する王室で最古であり、十分に永く続いていると言える。「南北朝時代に二系になっているではないか」という意見は正しくない。一系とは天照大神の子孫であるという意味であり、北朝も南朝も天照の血統であるのだから万世一系は続いているのである。
しかし「南北朝時代に二系になっている」という主張は分かりやすいために根強い。だが戦前の日本は「万世一系の天皇が統治する」国であったため、もし二系になっているとすれば国家の基幹に関わる大問題であった。そのために単なる史学的な議論であるはずの南北朝正閏論が政治問題に発展し、「謀反人」である足利尊氏を擁護したということで大臣の中島久万吉が辞職するという大騒動も起きている。
と定義するとこれは「ウソ」である。神話・信仰に対して「ウソ」というのも何だが、科学的には事実ではない。初期の天皇は景行天皇147歳、仁徳天皇143歳などと不自然な享年が目立つ。先述した三王朝交代説に加え、倭の五王の時期に『宋書』などの中国史料では血統的断絶が見られる。ただしどこまでが虚像でどこまでが実像かという話になると記紀の膨大な研究を紐解く必要がある。記紀の突飛な神話も歴史的事実をモデルにしていることもあり、全部が完全な創作というわけでもない。
3.2600年続く皇室が統治する日本は世界で最も優れた民族である
明治以降のイデオロギーとしての「万世一系」となるとこれもまた「ウソ」である。2600年続こうが2600万年続こうが天皇は神でなく人間であるし、永く続いているからといって周りの国より偉いというわけでもない。
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