万暦帝(1563年-1620年・在位期間:1572年-1620年)名は朱翊鈞(しゅ・よくきん)とは、中国の歴史上の人物である。明朝14代の皇帝で廟号は神宗、数多い暗君の中でもぶっぢぎりの濃さを誇る暗君である。im@s的に解釈するとしたら配役は間違いなく双葉杏になるかと思われる。
隆慶帝の第3子として誕生。上の2人が夭折していた事から即位する。とはいってもまだ10歳だったので、宰相の張居正の補弼を受けることになる。この張居生は明末の名宰相として名高い人物であり、複雑な税制を一本化、無駄な歳費や公共事業の削減などを行う事により400万両の余剰金を作るなど財政を好転化させ、不穏な空気が漂っていた満州情勢も李成梁の起用で落ち着かせるなどして安定していた。しかし、政務をとるにあたって強引なやり口をとったため、周囲から憎まれていた。
小さい頃の万暦帝も聡明利発で将来を期待されていた。そんな万暦帝を張居正は厳しくしごいたのだが、それが裏目に出てしまう事になる。
1582年に張居正が亡くなり、親政を始めると一気に堕落してしまう。
………25年間も後宮に引きこもったまま、政務を執らなかった。
まさにニート皇帝である。
よくそんなのが国が保っていられると色々な意味で感心できてしまうのだが、相次ぐ反乱で国力は衰え、ヌルハチの登場で風雲急を告げていたのにも関わらず無策であった。
ちなみの朝鮮の役が起きたのも万暦帝の治世で、これなら勝てると判断したのも……無理もないのかな?
1620年に崩御、享年56歳。その前年にはサルフにおいて後金軍に大敗、遼東地域の大半を放棄する事になっていた。それから24年後の1644年に明が滅びることとなる。
明史は「万暦において明が滅びる」と酷評されている。
掲示板
54 ななしのよっしん
2023/11/19(日) 21:07:52 ID: jQJNoP5fVM
>>51
崇禎帝は猜疑心だけは何とかならんかったのか、とは思ってしまうな。
ただ、崇禎帝は即位した時点で明王朝は実質的にもう詰んでいた事や最後の遺言状で民や百姓の無事を願う事が書かれていたから気の毒な印象はやっぱり強い。
悲劇の人物というよりは悲運の人物だと思う。
55 ななしのよっしん
2024/01/27(土) 14:30:38 ID: CAWdMQ2C/1
「明は万暦に滅ぶ」っていう言葉は、「皇帝権力が天下全てを直接統治する」という明初体制の建前がこの時期に完全に崩れて郷紳階層による地方自治が既成事実化してたってことを指してるように思える。
なので、この「明は万暦に滅ぶ」という発想自体が、実は民衆生活よりも皇帝や朝廷の権威を優先するものだって言い換えることもできるんじゃないかな。
もちろん、万暦年間後半からの搾取と負担を軽んじる気もないけど。
56 ななしのよっしん
2024/04/22(月) 11:19:20 ID: h5V6xO9XMt
万暦帝は見事なまでに何もしてないから「万暦帝よりマシか否か」は一つの基準として便利だと思う。
万暦帝よりもひどい君主も結構いるんだよね。
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最終更新:2024/04/25(木) 08:00
最終更新:2024/04/25(木) 08:00
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