三好三人衆とは、戦国時代の畿内で活躍したトリオユニットである。(活動期間:1564 ~ 1573)
三好長慶(1522~1564)亡き後、跡を継いだ三好義継が若年だったため、彼をプロデュース後見する形で三好家中の実権を握った黒い三連星。
剣豪将軍を暗殺したり、ボンバーマンと対立して東大寺大仏殿を炎上させたり、14代将軍を擁立したはいいが早々に病死されたり、とゴタゴタやっているうちに第六天魔王・織田信長が登場。その圧倒的軍事力の前に一度は駆逐される。
信長包囲網の一角としてカムバックするも長くは保たず、メンバーは次々と退場させられ、解散した。
1564年:
幕府に大きな影響力を及ぼしていた三好家当主・三好長慶が死去。養子の三好義継が16歳で跡を継いだ。まだ若年の義継では戦国の荒波を乗り切るのは難しいと、彼を支えるという名目で家中の実権を握ったのが重臣のボンバーマン松永久秀、そして三好三人衆だった。
1565年:
13代将軍・足利義輝を暗殺するという大事件を起こす(永禄の変)。だがこの後、三人衆と松永派は音楽性の違いから決裂し、畿内を舞台に内紛が始まった。初めは義継を擁する三人衆が優勢に進めていた。阿波の篠原長房、河内の三好康長も三人衆に味方した。
1566年:
阿波で匿っていた将軍家の一族・足利義栄を次代の将軍とするべく、摂津に迎え入れる。
1567年:
三人衆が義栄のプロデュースに熱心になっている一方で、放置された義継の不満が急上昇。遂には松永久秀の下へと逃げられてしまう。松永派との戦いは激しさを増し、遂に危険な領域へと突入する。東大寺にて両軍が陣を張って激突した結果、奈良の大仏様は炎に包まれ、首なしの姿になってしまった(東大寺大仏殿の戦い)。
1568年:
金策に手間取ったものの、ようやく根回しが済んで足利義栄が14代将軍に就任した。相変わらず松永派との抗争が続いていたが、そこに織田信長が足利義昭を奉じて圧倒的兵力で上洛してきた。サクッと降伏した松永派に対し、三人衆サイドは徹底抗戦を表明するも惨敗。しかも義栄が早々に病死してしまい、義昭が15代将軍に就任した。
1569年:
一発逆転を狙い、義昭を襲撃するが失敗に終わる(本圀寺の変)。四国まで撤退。
1570年:
それでもまだ諦めない三人衆は畿内へカムバック(第一次信長包囲網)。野田城・福島城の戦いで織田軍を撃退してみせた。その後信長と和睦を結び、一時的に勢力を回復させることが出来た。この辺りから政康の消息が途絶える。
1573年:
足利義昭がドリームユニット信長包囲網の結成を宣言(第二次)。三人衆も久秀・義継もこれに加わり、一致団結して織田信長に立ち向かうことになる。しかし友通は淀古城で討死。長逸も中嶋城の戦いを最後に消息不明となり、三好三人衆の歴史はここで幕を下ろす。
詳細は各個別記事も参照のこと。
三人衆のリーダー的存在。長慶の父・三好元長の従兄弟にあたる。生年は不明だが1520年以前か? 長慶死去の時点で既に三好一族の長老格にあったらしく、松永久秀と並ぶ実力者だった。
1573年以降、消息不明。
細川晴元の側近として権勢を誇った三好政長の息子。父が長慶の前に敗死すると、しばらくは晴元と共に抵抗していたが、やがて降伏し重臣の座をゲットした。
1569年に病死したとする説があり、この場合は野田城・福島城の戦いの前には既に故人だった事になる。また広く伝わる説話として、のち三好清海と名乗って豊臣家に仕え、大坂夏の陣で討死したとも。清海は当時88歳だったというので、1528年生ということになる。
ひとりだけ三好一族では無い。松永久秀同様、召し抱えられて出世した人物と推測されている。こちらも生年は不明だが、1550年から活動の記録が見られる。
1573年、第二次淀古城の戦いで木下藤吉郎・細川藤孝に攻め滅ぼされた。三人衆で唯一最期が明確な人物。
三人衆壊滅と同年に義継・長房も死んでしまい、三好家は坂道を転げ落ちるように弱体化していく。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/10/05(土) 16:00
最終更新:2024/10/05(土) 16:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。