三方原 単語

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三方原とは、

  1. 静岡県浜松市にある台地の名称。三方原台地。
  2. 三方原台地の一部を区域とする地域名称。
    1. 三方原地区。
    2. 三方原町。三方原地区内にある。

のいずれかをす。当記事では順に説明する。

この場所で戦国時代に行われた戦いについては「三方ヶ原の戦い」の記事を参照。

概要

かつては「三方ヶ原」や「味方ヶ原」とも書き、「みかたがはら」や「みかたばら」、「みかたっぱら」とも読んだが、現在の地域をす場合は「三方原」と書き「みかたはら」と読むのが一般的になりつつある。東名高速道路の三方原PAもかつては「みかたがはら」と呼んだが、2017年SICの併設に伴って「みかたはら」と読みが変えられた。

台地

地形的な台地としては東西10km、南北15kmに及ぶ。北端が都田、西端が山寺、南端が雄踏街道静岡県62号)、東端が飛龍街道国道152号)の少し西辺り。

台地の南東端がちょうど浜松浜松中心地の辺りになる。そのため、東海道新幹線からも浜松駅から名古屋駅方面に向かっているときに、北側に小高い丘として見ることができる。

南側の雄踏・久呂・佐鳴台・江の辺りは起に富んだが多い地形となっているが、ある程度北に進んでいくと標高30m~90mほどの、北に行くにつれてほんの少しずつ高くなっていく坦な地形が広がっている。かつての扇状地が起したものとされるため、このような地形になったと思われる。東側には河段丘が見られ、そこには四ツ池公園や三方原PA浜松医科大学などが位置している。

養分に乏しい強性の土が広がり、も得にくかったため、江戸時代までは台地の上に人はほとんどく、木材や肥料用の落ち葉を得る入会地として利用されていた。「和地」「祝田村」「都田村」の3入会地だったため「三方原」という名前になったとされている。戦国時代にはここで三方ヶ原の戦いが行われた。

明治時代に入ってから士族授産の一環で台地上に「里園」が開かれ、戦後には満州開拓者を中心に三方原の開拓が進んだ。そのため三方原の中心を南北に貫く道路は「満州道路」と呼ばれるようになり、現在では「住吉バイパス」や「都田テクノロード」と呼ばれることも多い。また、戦前には陸軍航空学校爆撃演習場としても使われており、現在ではその敷地の一部が残る形で航空自衛隊浜松基地が置かれている。

都市化に伴い、南部の富塚・住吉・高丘・小豆などで宅地化が進み、現在南部を中心に住宅地・商業地・工業地域、北部を中心にが広がっている。特にや「三方原馬鈴薯」と呼ばれるじゃがいもの生産が多い。

主な施設

三方原地区・三方原町

かつての三方原す地域。1954年浜松市に合併してからは「三方原地区」となっており、単にここのみして「三方原」と呼ぶ場合もある。

三方原地区の中には

  • 三方原町
  • 初生町
  • 三方
  • 大原
  • 三幸町
  • 根洗町

が属する。三方原町には先に述べた里園が位置しており、三方原開拓の始まりの地となった。

南側の街道静岡県261号)であり、そこに面した初生町・三方原町には商業施設や住宅が多いが、北に行くにつれてが多くなっていく。一方で令和以降には、特に都田テクノロード沿いの東三方町・豊町・大原町に企業工場研究所が移転してきており、さらに今後の変化が見込まれる地域となっている。

なお、2007年から三方原地区は浜松市政令指定都市の移行に伴い「北区」に属していたが、2024年からは区の再編に伴い「中央区」になった。他の北区の地域は浜北区と一緒になって「名区」になるのに対し、三方原地区だけが中央区に移動する形となった。

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最終更新:2024/04/16(火) 17:00

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