三村家親(みむら・いえちか 1517? ~ 1566)とは、備中の戦国大名である。
混乱する備中国で、毛利元就に接近することで勢力の拡大に成功した人物。
鶴首城主、のち備中松山城主。
備中国は備中細川家が支配していたが、1490年ごろの庄元資の反乱に始まり細川家の内輪揉めにと守護勢力は脆く弱体化、そこに目をつけた尼子経久が手を伸ばしたりとgdgdとなっており、守護である細川通薫、守護代の庄氏、石川氏、上野氏、そして三村氏などが勢力を争っていた。
なお備中三村氏は鎌倉時代にまでルーツを遡る小笠原氏の一族とされる。
家親は三村宗親の子。初めは庄氏同様尼子氏についていたが、やがて離反。
庄氏と激しく争うも、そのバックにいる尼子氏の勢力が強く、備中の国人衆の中では初めて毛利元就を頼った。元就からも高く評価され、毛利氏の後援を受けた三村氏は以降勢力を着実に拡大する。
上野隆徳や石川久式には娘を送り込んで婚姻関係となり、上田氏には四男・上田実親を養子入りさせる。庄氏は激しく抵抗したが毛利氏の仲介で遂に和睦、庄為資(あるいは穂田実近)の養子として長男・元祐を送り込むことに成功した。しかし庄氏には後に謀反を起こされるなど完全には取り込めなかった。
備中一の勢力となった家親は、庄氏から奪った備中松山城に本拠を移し、備前国や美作国にも勢力を伸ばした。美作の三浦貞勝を攻め滅ぼし、後藤勝元と争い、その救援に来た宇喜多直家とも争う。
家親の存在を脅威と感じた直家は得意の搦め手に出た。鉄砲の名手と名高い遠藤秀清・俊通兄弟を送り込み、暗殺を試みたのである。そして1566年2月5日、寺に滞在して評議を行っていたところ、凶弾に斃れた。その場は弟・三村親成が上手く隠し通し、混乱を最小限に抑えることに成功。直家も初めは暗殺に成功したことを信じなかったほどであった。
次男・三村元親が跡を継いだ。これにより宇喜多直家は三村氏にとって不倶戴天の仇となり、毛利氏が直家との同盟を選ぶと元親は毛利との決別を決意、備中兵乱と呼ばれる戦へと繋がっていく。
個人の戦闘能力はそこそこ高く、まあ頑張れる。だが家臣が少ない小勢力とあって中級者向けか。毛利家との同盟を上手く活かしたい。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 73 | 戦闘 | 66 | 智謀 | 39 | 政治 | 47 | 野望 | 41 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 138(A) | 智才 | 68(C) | 政才 | 114(B) | 魅力 | 73 | 野望 | 71 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 66 | 智謀 | 54 | 政治 | 56 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 59 | 戦闘 | 63 | 智謀 | 53 | 政治 | 55 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 51 | 智謀 | 41 | 政治 | 40 | 野望 | 76 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 64 | 知略 | 41 | 政治 | 43 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 66 | 知略 | 41 | 政治 | 43 | 教養 | 48 | ||||||||
革新 | 統率 | 74 | 武勇 | 69 | 知略 | 46 | 政治 | 48 | ||||||||
天道 | 統率 | 74 | 武勇 | 69 | 知略 | 46 | 政治 | 53 | ||||||||
創造 | 統率 | 71 | 武勇 | 66 | 知略 | 50 | 政治 | 53 | ||||||||
大志 | 統率 | 71 | 武勇 | 67 | 知略 | 52 | 内政 | 53 | 外政 | 50 |
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最終更新:2024/04/19(金) 23:00
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