三浦清弘(みうら きよひろ)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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三浦清弘 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 大分県別府市 |
生年月日 | 1938年9月2日 |
没年月日 | 2016年3月27日 |
身長 体重 |
180cm 82kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1957年 |
引退 | 1975年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
別府鶴見丘高等学校に進学。同校ではエースとして活躍。3年時に夏の甲子園大会に出場し、2回戦で敗退したものの、多彩な変化球で打者を打ち取る姿から『七色の変化球』と話題になった。
入団からしばらくは一・二軍を行ったり来たりで5年間でわずか2勝止まりと成績はパッとしなかった。
ただこれは三浦の実力が無かったというわけではなく、鶴岡一人監督が妻や子供のいる選手がクビにならないため、妻子のいる選手を優先して起用し若手の三浦をあえて一軍に固定しなかったというのが真相であった。三浦は一・二軍を行き来する状態に不満を持っていたが、鶴岡監督から意図を聞かされ、安心したと同時に鶴岡監督の人柄を理解したという。また、1959年の日本シリーズ第2戦目では2番手として3イニングを無失点に抑える好投を見せ、その後を継いだ初戦の勝利投手杉浦忠が勝利投手になり、杉浦は続く3、4戦目も勝利して、日本シリーズ4連勝を達成。三浦はひっそりと大記録のアシストをしていたことになる。
入団6年目の1962年、先発投手陣の一角に定着。年間通して先発投手として活躍し、初めて規定投球回に到達。17勝9敗、防御率2.63と好成績を残した。
翌1963年も13勝を挙げたが、1964年に肩を痛め6勝と低迷。しかし、1965年には復活し11勝を挙げオールスターゲームにも初出場、防御率1.57で初の個人タイトルとなる最優秀防御率を獲得。
1966年にも15勝を挙げ、2年連続でオールスターゲームに出場するなど、杉浦や皆川睦雄らとともに南海黄金時代の投手陣を支えた。
1971年、黒い霧事件への関与を疑われ、八百長に勧誘されたにもかかわらず報告を怠ったとして戒告処分を下されたが、自身は13勝を挙げるなど好調なシーズンを送った。
1972年、9勝を挙げたが、オフに金銭トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍。太平洋ではキャプテンを任された。
太平洋でも先発として活躍し、初年度は8勝、翌1974年は5勝を挙げたが、1975年、未勝利に終わり、同年限りで現役引退。
引退後、1977年にチーム名の変わったクラウンライターライオンズの投手コーチを1シーズン務めた後、1978年に同球団のスカウトを1年務めた。
多彩な変化球と、高い制球力を武器に南海黄金時代を支えた技巧派右腕。
持ち球の一つにナックルボールがあった。変化量が大きくどこに行くかわからず、捕手が取れないため練習以外ではめったに投げなかったが、一般的なナックルより速度がやや速かったようである。このナックルは小学生時代に既に習得していたという。
通算:19年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 553 | 70 | 15 | 132 | 104 | --- | --- | .559 | 2280.0 | 697 | 1052 | 912 | 783 | 3.09 |
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最終更新:2025/04/08(火) 00:00
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