三浦清弘 単語

ミウラキヨヒロ

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三浦清弘みうら きよひろ)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1938年9月2日生まれ。大分県別府市出身。

別府鶴見丘高学校に進学。同校ではエースとして活躍。3年時に夏の甲子園大会に出場し、2回戦で敗退したものの、多変化球で打者を打ち取る姿から『七色変化球』と話題になった。

1957年南海ホークスに入団。

入団からしばらくは一・二軍を行ったり来たりで5年間でわずか2勝止まりと成績はパッとしなかった。

ただこれは三浦の実力がかったというわけではなく、鶴岡一人監督が妻や子供のいる選手がクビにならないため、妻子のいる選手を優先して起用し若手の三浦をあえて一軍に固定しなかったというのが相であった。三浦は一・二軍を行き来する状態に不満を持っていたが、鶴岡監督から意図を聞かされ、安心したと同時に鶴岡監督の人柄を理解したという。また、1959年日本シリーズ第2戦では2番手として3イニングを失点に抑える好投を見せ、その後を継いだ初戦の勝利投手杉浦忠勝利投手になり、杉浦は続く3、4戦勝利して、日本シリーズ4連勝を達成。三浦はひっそりと大記録アシストをしていたことになる。

入団6年1962年先発投手の一に定着。年間通して先発投手として活躍し、初めて規定投球回に到達。17勝9敗、防御率2.63と好成績を残した。

1963年も13勝を挙げたが、1964年に肩を痛め6勝と低迷。しかし、1965年には復活し11勝を挙げオールスターゲームにも初出場、防御率1.57で初の個人タイトルとなる最優秀防御率を獲得。

1966年にも15勝を挙げ、2年連続でオールスターゲームに出場するなど、杉浦皆川睦雄らとともに南海黄金時代投手を支えた。

1971年黒い霧事件への関与を疑われ、八百長に勧誘されたにもかかわらず報告を怠ったとして告処分を下されたが、自身は13勝を挙げるなど好調なシーズンを送った。

1972年、9勝を挙げたが、オフに金銭トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍。太平洋ではキャプテンを任された。

太平洋でも先発として活躍し、初年度は8勝、翌1974年は5勝を挙げたが、1975年、未勝利に終わり、同年限りで現役引退

引退後、1977年チーム名の変わったクラウンライターライオンズ投手コーチを1シーズン務めた後、1978年に同球団のスカウトを1年務めた。

クラウン退団後は大阪市内でふぐ料理店を経営していたという

2016年3月27日炎のため死去。享年77歳。

人物・エピソード

変化球と、高い制球力を武器南海黄金時代を支えた技巧右腕。

持ち球の一つにナックルボールがあった。変化量が大きくどこに行くかわからず、捕手が取れないため練習以外ではめったに投げなかったが、一般的なナックルより速度がやや速かったようである。このナックルは小学生時代に既に習得していたという。

通算成績

投手成績

通算:19年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 553 70 15 132 104 --- --- .559 2280.0 697 1052 912 783 3.09

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