「上杉景虎」(うえすぎ・かげとら 1554?~1579)とは、戦国時代の武将。
相模の虎・北条氏康の子息として生を受け、越後の龍・上杉謙信の養子となり、御館の乱に敗れて生涯を閉じた。
1569年、武田信玄の駿河国侵攻により北条・今川・武田家による三国同盟が破綻すると、北条家は上杉家と同盟を締結。景虎は同盟を保証する人質として越後に送られた。
人質とはいえ越後では厚遇され、上杉謙信の養子となり謙信の姪(華姫)を娶った。景虎の名は、この時期に謙信から与えられた。
実父・氏康が亡くなると供養のため故郷の相模へ帰ったが、またすぐに越後へ戻り、越相同盟が破綻した後も越後に留まった。
1578年、養父・謙信が亡くなると、同じく謙信の養子となっていた上杉景勝との間で家督争いが起きた。華姫は景勝の実姉妹なので、景虎と景勝は二重の意味で義兄弟だった。
上杉家を二分したこの内乱は一年余りに及び、最終的に追い詰められた景虎は自害した。
敗者として最期を遂げたこと、また実家の北条家も一度潰れたため、景虎に関する確かな資料は少ない。
特に北条家にいた頃の事跡は、研究者の調査により複数の人の事跡が景虎のものとして混同されていたことが指摘された。しかも景虎と混同された人の事跡が他の人物のそれと混同されていたりする。
それらの事跡を除くと当時の景虎の動向は全く不明であり本当に北条氏康の七男だったかも怪しく、研究の更なる進展が待たれる。
景虎が越後に送られたのは、景虎の兄で北条家当主の氏政が我が子を人質に送ることを渋ったため、景虎が選ばれたという経緯がある。
(上杉謙信が当時の北条家の苦境に付け込んで一方的な要求を突きつけたため、北条氏政は越相同盟の効果に疑問を抱いていた、と思われる)
この時代、重要な同盟相手から送られた人質は、人質といえども厚遇されるのが当時の習慣だった。
そして上杉謙信は越相同盟が消滅した後も、景虎を北条家へ送り返さなかった。
景虎も北条家へ戻る機会はあったが、上杉家の一員となることを選んだ。
ただし上杉家と北条家はその後も度々交渉を行なっており、景虎の存在は外交の重要な窓口だった。
1571年、華姫が嫡男・道満丸を出産。
ちなみに上杉景虎が越後に移り華姫を娶ったのは前年の4月である。
景虎は遠山康光の娘も妻に迎えて、二人の夫人との間にそれぞれ子供が生まれた。
同時期、上杉家は内政で成果を挙げる一方、長年の宿敵だった武田家・蘆名家・越中加賀一向一揆と相次いで和睦し、勢力伸長著しい織田家や北条家を攻撃して勝利するなど対外政策でも成功を収めた。
1578年3月、上杉謙信が急死すると状況は一変、国人間の抗争と上杉家の家督争いが結びついた御館の乱が勃発した。
景虎と景勝、どちらが上杉謙信の後継者と目されていたかは諸説紛糾している。
一門衆、重臣側近、旗本衆も一方にまとまらず二派に分かれた。
景虎派には謙信の出身である府中長尾家に近い一門衆が多く参加しているので、謙信の死により立場が危うくなった上田長尾家(景勝の実家)が直江家と組んで機先を制してクーデターを起こし、それに反発した他の一門衆と武将たちが景虎派に参加したのだろうか。
なお仙桃院(謙信の姉、華姫と景勝の母)は当初は景虎と行動を共にした。
3月24日に景勝派が春日山城本丸を占拠。上杉景勝の名で諸将に忠誠を求め、周辺の諸大名に使者を送った。
しかし景勝の指示に反発する武将は多く、上杉家の内情を探っていた諸勢力も景勝と景虎のどちらを上杉家の当主と見なすか決めかねていた。
5月に入ると事態を静観していた重臣たちも景虎派と景勝派に分かれて、抗争を始めた。
景虎派は春日山城本丸を囲んだが、同月13日に景虎は春日山城から退去して上杉憲政(前関東管領)の居城御館に移った。
春日山城下においてこの時点で景虎派が劣勢だったかも不明で、景虎が春日山城から出た理由は不明。
謙信が存命の頃はあまり活躍の記録がない景虎だが、御館の乱では精力的に働いたらしく、景勝派と戦う間にも景勝と競って統治と論功行賞を行った。
春日山城下の戦いは当初は景虎派が優勢で地方では互角、さらに北条氏政と蘆名盛氏が景虎支持を表明して軍勢を越後へ派遣した。
その後、甲斐の武田勝頼が越後に進軍して両派を仲裁したが、背後を徳川家康に脅かされて撤退。越後の内戦は激化した。
内戦が続いている間に、北陸では宿敵織田家が勢力を拡大し、越後には伊達輝宗の軍勢も侵攻。
この情勢に危機感を抱いたのか、それまで越中から内乱を傍観していた重臣の河田長親が景勝支持を表明し、越中・能登の軍勢を率いて越後へ向かった。
1579年に入ると河田の参戦表明により景虎派は窮地に追い込まれた。
景虎は御館を守り景勝派の軍勢を撃退し続けたが、この頃すでに地方でも景虎派は劣勢となっていて、援軍の到来や食料の補給が期待できなくなっていた。
景虎は景勝派への降伏を決めて息子の道満丸を人質に出し、上杉憲政が使者を引き受けた。
しかし道満丸と上杉憲政は景勝派に殺害された。
降伏も拒否された景虎は敗走して景虎派の堀江宗親を頼り、堀江の居城である鮫ヶ尾城に拠って抗戦を続けた。
しかし堀江が投降し、景勝派は鮫ヶ尾城に対して総攻撃を行った。
追い詰められた景虎は妻子や側近と共に自害した。享年26歳。
華姫は御館で景勝に抗議して自害したとも、鮫ケ尾城で夫と最期を共にしたとも伝わる。
道満丸は前述の通り非業の死を遂げ、他の子供たちも自害あるいは景勝派に殺害されたと考えられている。
御館の乱は上杉景虎の死後も続いた。
その事実は、この内乱が単なる御家騒動ではなく越後が長年抱える宿痾であったことを窺わせる。
また景勝の正統性を認めない国人衆が少なくなかったことも示している。
なお景勝派は降伏した景虎派に対して厳しい処罰で臨む場合が多かったため、景虎派の残党は周辺の諸大名を頼り、これが内乱を長引かせる一因となった。
敗者である景虎の墓は現存しない。
やがて上杉家が越後から会津、米沢へ移り、現在では上杉景虎の詳しい事跡を調べるのは困難になっている。
戦国無双4において、姉である早川殿や上杉謙信の後継を争った上杉景勝がプレイアブル化された影響からか、他の武将とは異なる特殊な外見で登場した(前作までの特殊NPCと違い今作は特定武将と呼ばれるよりモブに近い区分となっており、その証拠に身に着けている衣装などはエディットの流用である)。
その物語的位置づけからか、他の特定武将に比べるとムービーなどにたびたび登場し、非常に強い存在感となっている。
関東の章では北条三郎として登場し、強い家族愛を自分の家に抱いていたが父親である北条氏康は不本意ながら上杉謙信との交渉に彼を使いその養子となることに。そのため上杉の章では上杉景虎と名を改め鬱屈した日々を送っていたが、やがて上杉家の人々との交流を通じて新しい環境にも愛着を抱いていく。しかし・・・
4‐Ⅱでは逆に北条の家の役に立つため自分から養子に行くことを申し出る。
掲示板
22 ななしのよっしん
2022/02/03(木) 14:37:54 ID: 33Ckicp3LM
最近の研究では御館の乱は後継者争いよりも中継ぎの当主争いの側面が強い。本来の当主は道満丸で景勝が中継ぎになるところを景虎と争うことになった。
23 ななしのよっしん
2023/11/13(月) 05:52:46 ID: tFiHiSVkUU
この人なんかコーエーに持ち上げられてるけど、イマイチ根拠が解らん…
24 ななしのよっしん
2024/11/27(水) 23:13:36 ID: Z9HGgfQyaU
新発田重家を省かれた上杉氏にゲームとしてのネタが乏しいので景虎は必要なのよ
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最終更新:2025/03/29(土) 17:00
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