上杉朝昌(うえすぎ・ともまさ 生没年不詳)とは、武蔵国の戦国武将である。扇谷上杉家4・6代当主・上杉持朝の五男。(四男とも)兄に扇谷上杉家5代当主・上杉顕房、三浦高救、扇谷上杉家8代当主・上杉定正。子に宇田川親定、上杉朝寧、扇谷上杉家9代当主・上杉朝良がいる。一説には上杉憲勝も子という。
ここでは次男・朝寧についても記述する。
当初は京都の相国寺において本東と名乗って僧侶をしていた。1458年に父の名代として室町8代将軍・足利義政に拝謁したという。のちに還俗し、相模七沢城に拠って扇谷上杉一門として政治力強さを発揮し、時には独立色を高めながら主家を支えた。
長尾景春の乱が勃発すると、1477年には太田道灌らと共に豊島泰経攻めに参加し、これを滅ぼした。山内上杉氏と抗争が勃発して長享の乱が始まると、1488年には上杉顕定の攻撃を受けて七沢城が陥落し、大庭城に逃れた。
兄・上杉定正の死後、家督を継いだ子・上杉朝良の後見役を務めた。
享年は71であるが、生没年は不明であり、永正年間(1504-1520)まで生きていたのは確かのようである。定正の生年が1443年ないし1446年のため、遅くても1447年以降は確実である。没年に関しても1520年までは保障されているので、1447-1450年の間に出生したのではないのかと見ることができる。
上杉朝寧(うえすぎ・ともやす 生没年不詳)とは、武蔵国の戦国武将である。上杉朝昌の次男。兄に永明軒東永こと宇田川親定。弟に扇谷上杉家9代当主・上杉朝良。子に扇谷上杉家10代当主・上杉朝興がいる。
別名に朝憲。官位は民部少輔。事跡については全く伝わっていないが、子・上杉朝興が家督を継いでいる。弟・上杉朝良が兄に代わって扇谷上杉氏の家督を継いでいるということで、朝興が誕生する1488年から伯父・上杉定正が亡くなる1494年の間に夭逝したのでないのかと見られる。
但し、1488年の時点で既に朝良は定正の養子となっており、須賀谷原の合戦に出陣していることもあり、そこらへんのことはよくわからないのが実情である。
ただ、生年に関しては庶兄・宇田川親定の存在もあり、また朝良の生年もほぼ1473年と固定され、父の生年も遅く見ても1447年以降と確定しているので応仁・文明4年(1467-1472)の6年間ではないかと推測できる。
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最終更新:2025/12/10(水) 07:00
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