中山雅史(なかやま まさし Masashi Nakayama, 1967年9月23日 ‐ )とは、日本のサッカー選手、サッカー指導者である。愛称はゴン中山、中山隊長など。
J3リーグのアスルクラロ沼津監督。元サッカー日本代表。
静岡県志太郡岡部町(現藤枝市)出身。黎明期からJリーグを盛り上げ、日本代表としても数々の記録を残す「炎のストライカー」。
筑波大学卒業後、1990年にヤマハ発動機のサッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。フィールドを縦横無尽に駆け回る姿勢と、どんなボールにも諦めず喰らいつく闘争心で多くのファンを生み、テクニシャンである三浦知良とは対照的な日本人ストライカーとしてJリーグを大きく盛り上げた。
ジュビロ磐田の黄金時代のエースストライカーであり、クラブの象徴的存在。Jリーグ(J1)最優秀選手賞1度受賞、得点王2回、ベストイレブン4度受賞した経験を持ち、Jリーグシーズン最多得点、J1での最年長記録という輝かしい記録を樹立している。
日本代表としては、オフトJAPANの頃はスーパーサブとして活躍。1993年の「ドーハの悲劇」の中心選手の一人でもあり、交代後ベンチで倒れ込みながらうなだれるシーンは日本サッカーの象徴的な場面として何度も映し出されている。1997年ではイランとのアジア第三代表決定戦で先制ゴールを決め、「ジョホールバルの歓喜」の立役者となっている。日本が初出場となった1998 FIFAワールドカップでは日本のワールドカップ初ゴールを決めている。
プレー以外にも明るく元気な言動やメディア対応の良さも注目され、オフシーズンにはテレビ番組などのメディア出演も活発に行い、サッカーファン以外からも愛された。
そのプレースタイル、キャラクターから彼を尊敬するプレイヤーも多い。現日本代表の岡崎慎司も憧れの選手は中山雅史だと公言している。
藤枝高校時代からエースストライカーとして頭角を現し、高校2年次の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、当時台頭していた東海大学第一高等学校と決勝戦で対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し、第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にした。本大会では準決勝まで駒を進めたが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPKの末に敗れた。
卒業後、筑波大学へ進学。この頃はセンターバックとしてプレーしており、同期である井原正巳とコンビを組んでいた。後に先輩である長谷川健太からの助言もあってセンターフォワードに戻っている。
1990年、ジュビロ磐田の前身であるヤマハ発動機サッカー部に入団。当時はプロではなくアマチュアだったためサラリーマン生活も経験している。Jリーグ参入が決まっていた清水エスパルスから獲得オファーを受けるも、固辞。1993年の旧JFLでクラブをJリーグ昇格に導き、1年遅れてJリーガーとなる。
ジュビロ磐田がJリーグに参加した後もその能力を遺憾なく発揮する。Jリーグ1年目の1994年こそ怪我の影響もあって力を発揮できなかったが、1995年は元イタリア代表のサルヴァトーレ・スキラッチとJリーグ最強と言われた2トップを組み、18ゴールを挙げている。
1997年になると、チームメイトとなった現役ブラジル代表主将ドゥンガの助言もあってオフ・ザ・ボールの動きが大幅に向上し、ストライカーとして一皮剥ける。結果、クラブのリーグ初制覇に貢献し、チャンピオンシップMVPを獲得。初のJリーグベストイレブンに選出されている。
翌1998年には公式戦4試合連続ハットトリックのギネス記録(当時)を打ち立てる[1]など大爆発し、出場27試合で36得点を取り得点王やリーグMVPなどのタイトルを総なめにしている。本来ならキャリアのピークを過ぎる30歳にしてなお成長し、キャリアのピークを迎えている。2000年にも得点王を獲得、Jリーグで2度の得点王を取った選手は他に前田遼一、大久保嘉人しかいない。この年は前年に負った右眼窩底骨折の影響に苦しみながらも劇的に復活したシーズンでもあった。このときに「炎のストライカー」という言葉が生まれている。
2002年シーズンは、W杯からのリーグ再開後にはゴールを量産し、得点王となったチームメイトの高原直泰に次ぎ、日本人としては2位となる16ゴールを上げ、磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献、ベストイレブンにも選出された。
2003年になると、10年前の恥骨結合炎が再発し、戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰。この頃を境に爆発的な得点力は影を潜めるようになるが、それでも前線からボールを追い回すアグレッシブなファイトは健在で、2007年5月3日の清水エスパルス戦の前半22分にPKを決め、J1リーグ史上初となる14年連続ゴールを達成。
2008年5月25日にはナビスコカップでの清水エスパルス戦で、後半43分にコーナーキックをヘディングで決め、40歳7か月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコを抜き、ナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える。そして、このゴールが中山が公式戦で決めた最後のゴールとなった。
J1で通算157得点を挙げており大久保嘉人、佐藤寿人に次ぐ歴代3位の記録を持つ。
筑波大学時代にはユース代表(U-20日本代表)に選出されており、1988年のAFCアジアカップ予選には大学選抜のB代表として出場している。
1990年に初めてA代表に選出され、ダイナスティカップの北朝鮮戦でフル代表デビューを果たしている。その後、しばらくの間代表からは遠ざかっていたが、1992年にハンス・オフトが日本代表監督に招集される形で復帰。この年の第2回ダイナスティカップでは決勝の韓国戦で途中出場から代表初ゴールとなる決勝ゴールを決め、日本の優勝に貢献。さらに同年10月に広島で開催されたAFCアジアカップ1992でも準決勝の中国戦で決勝ゴールを決め、日本の初のアジア制覇に貢献。オフト監督は中山のキャラクターも考えて、途中出場から流れを変える役割を与え、その期待に見事に応えて活躍を見せたことから日本で「スーパーサブ」という言葉を定着させる。
1993年10月にカタール・ドーハで開催された1994 FIFAワールドカップアジア最終予選にも参加。第2戦のイラン戦で0-2で敗れている場面で投入されると、一矢を報いる執念のゴールを決める。第3戦の北朝鮮戦では出場停止となった高木琢也に代わってスタメンに抜擢され、ゴールを決める。一度沈みかけていた日本が勢いを取り戻す起爆剤となっていたことから高木の復帰後も三浦知良の相棒としてスタメンで起用され、最終戦のイラク戦ではラモス瑠偉のスルーパスから勝ち越しゴールを決める。しかし、日本はロスタイムに同点ゴールを許して悲願のワールドカップ出場を目前で逃し、「ドーハの悲劇」時の交代後ベンチでうなだれる姿は多くの涙を呼んだ。
一方、この最終予選での活躍から一躍時の人となり、国民的スターとして扱われる(なぜか父親までが有名人となってしまう)。
その後は怪我もあり代表から遠ざかっていたが、1998 FIFAワールドカップアジア最終予選の最終節カザフスタン戦で代表に2年ぶりに復帰しゴールを決めている。ちなみにこの数週間前のホームの韓国戦ではテレビのピッチリポーターとして日本代表を応援していた。「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる、イランとの第3代表決定戦では先制ゴールを決め、日本の初めてのワールドカップ出場に貢献した。ワールドカップ後は岡田武史監督から城彰二と共にFWのファーストチョイスとされる。
1998年6月にフランスで開催された1998 FIFAワールドカップでは全3試合にスタメンとして出場。第2戦のクロアチア戦では中田英寿からのスルーパスに抜け出し絶好機を迎えるが、シュートはGKに阻まれる。第3戦のジャマイカ戦では2点ビハインドの場面から日本の歴史的なワールドカップ初ゴールを決めている。その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了までプレーし続けたことで、その闘志が称賛されている。
AFCアジアカップ2000予選のブルネイ戦では試合開始から3分15秒でハットトリックを達成し、「国際試合における最短ハットトリック」のギネス記録を打ち立てる。
2002 FIFAワールドカップでは若手が多く選ばれる中「精神的な支柱」として代表に復帰。ロシア戦において途中出場し、日本のワールドカップ初勝利に貢献している。ちなみにこの大会では中村俊輔の落選もあって背番号10を背負うことになり、中田英寿からは「ゴンちゃん、10番似合わないね」と弄られている。
ジーコ監督就任以降も代表に選出され4試合でプレー、2003年のキリンカップ、アルゼンチン戦で先発出場。この試合が代表最後の試合となった。
2009年になり出場機会が減ったこともあり、現役を続けるため出場機会を求めてコンサドーレ札幌に移籍。しかし2012年、膝の調子が思わしくないこともあり第一線から退く事を発表。会見では”引退”という言葉を一切使わず、調子が戻ればカムバックと宣言するなど、どこまでも走り続けるストライカーにふさわしい内容であった。
引退後はスポーツ番組にとどまらずニュースからバラエティなど様々なテレビ番組にゲスト出演する。
東日本大震災の際には支援プロジェクト「みんなの遊び場プロジェクト」に参加。JPFAチャリティーマッチ2013でも選手として急きょ出場し、ゴールを決める。
2013年にはサカつく2013のCMに出演。ゲーム内でも選手として登場し、専用イベントも用意されている。この年のJリーグアウォーズにて功労選手賞を受賞した。
2015年9月にJFLのアスルクラロ沼津に入団し現役復帰することが発表された。
2017年シーズンからアスルクラロ沼津がJ3に昇格したため、5年ぶりにJリーグの舞台に返り咲いた。2019年から選手兼チームのU-18チームのコーチとなった。この間にJリーグの監督となるために必要なS級ライセンスを取得。
2021年に沼津を退団し古巣であるジュビロ磐田にコーチとして復帰することが発表された。この時も「引退」は口にせず、あくまでも選手としての活動の休止であることを強調した。
2022年はチームが最下位と低迷し1年であえなくJ2へ降格。同時にコーチとしての契約満了が発表された。
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と思いきや、その5時間後にアスルクラロ沼津の監督就任が発表された(せめて写真を別のにしようや)。
2023年シーズンより古巣であるJ3リーグのアスルクラロ沼津の監督に就任し、監督としてのキャリアをスタートさせる。ハードワークを徹底させ、ポゼッションにこだわったスタイルに着手すると、シーズン中盤あたりから白星が先行するようになり、J2昇格争いに加わるまでに躍進。終盤戦まで昇格の可能性を残していたが、最後の5試合で1勝4敗と失速したことで最終的に13位にまで転落。それでも得点数が前年よりも倍近くに増え、手ごたえを掴めた中山体制1年目となった。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1990ー91 | ヤマハ | JSL1部 | 13 | 4 | |
1991ー92 | ヤマハ | JSL1部 | 18 | 15 | |
1992 | ヤマハ | JFL | 16 | 13 | |
1993 | ジュビロ磐田 | JFL | 18 | 18 | |
1994 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 12 | 3 | |
1995 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 45 | 18 | |
1996 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 27 | 9 | |
1997 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 27 | 18 | |
1998 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 27 | 36 | |
1999 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 23 | 6 | |
2000 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 29 | 20 | |
2001 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 30 | 16 | |
2002 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 29 | 16 | |
2003 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 12 | 3 | |
2004 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 19 | 3 | |
2005 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 29 | 6 | |
2006 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 13 | 1 | |
2007 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 15 | 1 | |
2008 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 16 | 1 | |
2009 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 1 | 0 | |
2010 | コンサドーレ札幌 | J2リーグ | 12 | 0 | |
2011 | コンサドーレ札幌 | J2リーグ | 0 | 0 | |
2012 | コンサドーレ札幌 | J2リーグ | 1 | 0 | |
2015 | アスルクラロ沼津 | JFL | 0 | 0 | |
2016 | アスルクラロ沼津 | JFL | 0 | 0 | |
2017 | アスルクラロ沼津 | J3リーグ | 0 | 0 | |
2018 | アスルクラロ沼津 | J3リーグ | 0 | 0 | |
2019 | アスルクラロ沼津 | J3リーグ | 0 | 0 | |
2020 | アスルクラロ沼津 | J3リーグ | 0 | 0 |
センターフォワードとして高木琢也のように恵まれた体格を持つわけではなく、三浦知良のようなうまさもあるほうではなく、スピードも特段にあるわけではない。それでも、どんなパスにも反応し、ボールにがむしゃらに喰らいつくことでゴールを量産してきた泥臭いストライカーである。
本人も「絶えずゴールに向かって走り続けられるかどうかのフィジカルと精神力の勝負をしていた」と語る通り、スマートではなくても常に全力でゴールを追い求めることで日本の歴史に残るストライカーとなった。まさに全身全霊で体ごとゴールに飛び込むプレーはファンから愛され、岡崎慎司ら後の日本を代表するストライカーに大きな影響を与えている。
30歳を過ぎてから当時ジュビロ磐田に在籍していたドゥンガやコーチだった山本昌邦の助言もあってオフ・ザ・ボールの動きにこだわるようになり、ワンタッチゴーラーとして開眼。DFとの駆け引きやゴール前でのポジショニングも向上した結果、黄金期ジュビロでの爆発的な得点力が生まれている。
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最終更新:2024/04/24(水) 16:00
最終更新:2024/04/24(水) 16:00
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