文政4年(1821年)1月25日、浦賀奉行与力中島清司の三男として生まれる。諱は長胤。
武芸は砲術・槍術・剣術(天然理心流・北辰一刀流)を学ぶ。俳諧・詩にも造詣が深く、木鶏という俳名を持つ。
天保6年(1835年)、14歳で与力見習いになる。天保8年(1837年)モリソン号事件において打払いを実行し、奉行から褒賞を貰う。弘化2年年(1845年)、米国の捕鯨船マンハッタン号が江戸湾に入り込む事件が起こり、奉行から大砲製造を命じられる。弘化3年(1846年)、今度は米国東インド艦隊2隻が浦賀沖に現れ、不測の事態に備えて警備を務める。
このように当時頻繁に現れるようになった外国船との応対の最前線で活動していた中島は、嘉永2年(1849年)父清司の引退に伴い正式に与力になる。
嘉永6年(1853年)6月、米国東インド艦隊が再来し、中島は応接掛を務める。この時軍艦に乗船した中島は船の寸法や蒸気機関を念入りに調査して米国人を閉口させたことが米国側の記録に残っている。
同年、幕府が対応策について募集すると、、中島は軍艦建造等の意見書を提出し、これをきっかけに幕府は大型船建造禁止令を解除した。幕府から洋式帆船の建造を命じられた浦賀奉行所は、中島を中心に与力同心10名を御船製造掛に任命して建造に着手。翌嘉永7年(1854年)5月、日本最初の西洋帆船である鳳凰丸が竣工。中島は造船技術者として一躍名を高める。
安政2年(1855年)3月、中島のもとに長州藩士の桂小五郎が訪れ、造船技術を学ぶために弟子入りしている。前年中島は吉田松陰・宮部鼎蔵と対面しており、中島の技術者としての腕を見込んで桂に弟子入りを勧めたとされる。
同じ頃、幕府は長崎海軍伝習所の一期生を選考しており、中島が一期生として選抜されたため、桂が中島から享受を受けた期間はごく短いものだったが、桂はこの時の恩を生涯忘れず、箱館戦争で中島が戦死した事を聞いた桂こと木戸は救助できなかった事を深く嘆いた。
8月27日、中島は江戸城に登城し、伝習所総督の永井尚志の他、同期生となる勝海舟、矢田堀景蔵らと対面した。
10月20日、長崎に到着。伝習所において中島は軍艦製造技術を学ぶ他、航海運用術やオランダ語を学び、成績良好に付きもう一期伝習所にて学習継続を求められ、引き続き伝習所で学習する。
安政5年(1858年)5月、伝習所を修了した中島は浦賀に帰還し、6月には軍艦操練所の教授方に任命される。万延元年(1860年)には教授方頭取手伝に昇進したが、翌文久元年(1861年)9月には病気を理由に辞職し、浦賀奉行所に戻った。
文久3年(1863年)1月、中島は富士見御宝蔵番格御軍艦頭取手伝に任命され、再び海軍士官として活動を始める。この時期浦賀港の台場建設や大砲製造の監督を勤め、軍艦頭取出役に昇進。旗本同様の扱いになる。
慶応2年(1866年)、再び健康上の問題で退職し、12月には奉行所与力も辞任。
慶応3年(1867年)、長崎海軍伝習所の同期生だった矢田堀景蔵からの要請を受けて再び出仕。軍艦組出役から軍艦役並、更に小十人格軍艦役に昇進した。
慶応4年(1868年)1月3日、新政府軍と旧幕府軍が鳥羽街道・伏見街道で開戦。徳川慶喜は江戸に逃亡・恭順して江戸城明け渡しとなった。
8月19日、榎本武揚が率いる旧幕府艦隊が奥羽越列藩同盟と合流するため江戸湾を出航。中島と二人の息子、恒太郎・英治郎はこれに参加し、榎本らと仙台、次いで函館を目指し、10月北海道に上陸。函館を占拠した。榎本が政権樹立を宣言したが、新政府はこれを受け入れず開戦が必至となる。中島は箱館奉行並に任命され新政府軍迎撃の準備を進めた。
翌明治2年(1869年)4月、新政府軍が北海道に上陸し戦端が開かれた。中島親子は榎本軍の一員として戦うが徐々に追い込まれ、5月中旬には新政府軍は五稜郭に進撃を開始。中島は榎本に対して降伏を勧めたが、自らは戦って死ぬ事を告げ、16日に恒太郎・英治郎と共に戦死。享年49。
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最終更新:2024/04/24(水) 15:00
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