中嶋一貴 単語

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ナカジマカズキ

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中嶋一貴Kazuki Nakajima, 1985-)とは、トヨタ所属の日本人レーシングドライバーである。

日本人初のフルタイムF1ドライバー中嶋悟息子の大もレーシングドライバーとして活躍した。

概要

2007年終戦ブラジルGPにF1デビュー。以降2009年までF1フル参戦していた。

F1を去った後の2012年フォーミュラ・ニッポン2014年スーパーフォーミュラで王者となった。WECでもシリーズ王者1回、ル・マン24時間レース3連覇を成し遂げた。

2021年限りで現役を引退した。翌22年以降はトヨタガズーレーシングヨーロッパ副会長に就任する。

「まぁ」が口2chニコニコなどでは「カズキ」「かじゅき」「カジキ」「ひき逃げ王子」「まぁまぁ王子」「中嶋Jr.」などのあだ名しまれていたり馬鹿にされていたりで、彼が話している時は「まぁ」というコメントがよく流れる。

略歴

初期

愛知県出身だが、幼少期はイギリス生活していた。カートを始めたのは10歳から。カート時代導していた正樹氏によると、第一印は「速くも遅くもなく、にふつうにいるだけ」だったが、レースで群を抜いた速さを見せ、譲りの才を感じたとのこと。

16歳の時、フォーミュラトヨタ・レーシングスクールの入校試験を受ける。の七」と呼ばれることを嫌って、あえてホンダではなくトヨタを選んだ。しかし一年は不合格。これが一のレーシングドライバーとしての精に火をつけたという。翌年は再受講して合格。トヨタ支援を受けることとなった。その翌年にはフォーミュラトヨタ王者を勝ち取る。

2004年2005年全日F3に参戦。それぞれシリーズ5位と2位

なお2005年SUPER GT300クラスにもフル参戦。第4戦生でクラス優勝を果たす。この年スポット参戦したスーパー耐久の第5戦富士でも優勝マカオGPでも6位の成績を残した。さらに、この年放送された木村拓哉ドラマエンジン」ではF3レース中の代役としてドライブするなど、充実の一年となった。

欧州へ

2006年に渡欧。TDP(トヨタヤングドライバーズ・プログラム)の支援ユーロF3参戦。第4戦で優勝を果たし総合7位。マカオGPにも参戦しているが、予選7位、決勝リタイアで終わる。

2007年にはくもGP2DAMsから参戦。GP2に参戦。デビューイヤーにして5戦連続、計6回の表台と一度のPPで、勝利こそなかったものの総合5位でルーキーオブ・ザ・イヤーを獲得した。

F1

GP2デビュー2007年よりウィリアムズテストドライバーを務めている。堪英語と、F1マシン100周しても乱れない尽蔵の体力が評価された。その年の最終戦ブラジルGPにて、引退を表明したヴルツの代わりにスポット参戦してF1デビュー。予選19位、決勝は10位。

2008年フル参戦。チームメイトは同じく2世ドライバーニコ・ロズベルグ立ったバトルなどはかったが、最高6位で9ポイントを獲得、ドライバーズラキング15位とまぁまぁの成績だった。モナコGPでは日本人ポイントを獲得。またシンガポールGPでは日本人で初めてF1のナイトレースにも出走、Q3に進出して8位入賞も果たした。

2009年ウィリアムズからフル参戦。昨シーズンべ予選での速さは少し善されたものの、決勝では下位グリッドからのスタートが多かった。何度か入賞圏内を走行するが、そういうときに限ってピットでのトラブルクラッシュに見舞われる。シーズン終盤では々しいデビューを飾った後輩小林可夢偉全に抑え込まれ、自身にとって辛いシーズンとなった。結局0ポイントで.ドライバーズラキング20位(最下位)に終わり、2010年シートを失った。

人気のあった中嶋悟息子ということで、期待も大きかっただけに日本ファンの失望も大きかった。彼はそれまでの日本人ドライバーより特別酷い成績だったわけではないが、特別いい成績を残したわけでもなかった。F1ファンには、一は「トヨタのおかげで2年もF1に乗れているペイドライバー」と映った。2008年イギリスの『タイムズ』が行った人気投票で最下位(1票)だったことや、外ファンが「ナメクジ」と呼んでいたこと、デビュー戦でピットクルーを轢いたことも拍をかけて、2ちゃんねるニコニコでのイジりや叩きが横行した。さらに小林可夢偉F1デビュー名門ウィリアムズ史上2人の0ポイントドライバーという不名誉な事実によって、大筋のF1ファンの評価は決定的なものになってしまった。初期のニコニコでイジられた扱いを受けているのはそのためである。

国内レース復帰

2010年は新チームステファンGPと契約したものの、残念ながらこのチームF1のエントリーリストに載らず、そのままF1参戦を断念せざるを得ず、浪人として過ごすことに終始した。

2011年トムスの縁でフォーミュラ・ニッポンSUPERGT500クラスに参戦。フォーミュラ・ニッポンでは全戦表台に乗るという活躍を見せ、チームメイトアンドレロッテラーに次ぐ総合2位ルーキーオブ・ザ・イヤーを獲得した。

2012年以降も両シリーズに参戦。フォーミュラ・ニッポン最後の王者となる。この年、イギリスAUTOSPORT誌が選ぶ世界トップドライバー50人の一人に、小林可夢偉とともに選ばれている。(一28位、可偉37位)

2013年GT500クラス優勝を果たし、最終戦まで王者を争った(総合3位)。フォーミュラ・ニッポンから称されたスーパーフォーミュラでは、ピットトラブルが多発。2度もロッテラーの後ろで待たされるなどして総合4位に留まった。

2014年WECを優先するために、SUPER GTは何戦か休場した。一方でスーパーフォーミュラには全戦参戦をした。その結果、スーパーフォーミュラでは2勝を含め、全戦でポイントを積み重ね、チャンピオンを獲得した。 

WEC&ル・マン24時間レース参戦

2012年トヨタWECに参戦とともに一は再び世界に挑戦することになった。ただしSUPER GTを優先するために、半分の4戦のみの出場であった。この年のル・マンでは賞典外の日産デルタウィングに気づかず接触、クラッシュ追い込み、自身もリタイアしてしまう。その結果ミハエル・クルムにTwitterバカジマ(Bakajima)と罵られてしまったexit。例のごとく2ちゃんではかれ、普段は過疎っている一スレの半分がルマン批判で埋め尽くされた。しかし同年の富士では、自慢の体力アウディ勢との3.5スティント2時間以上に渡る接近戦を戦い抜き、見事トップチェッカーを受けた。FIA世界選手権での日本人ドライバー勝利は小河等以来20年ぶりである。

2013年も4戦のみ参戦。WEC富士では旗中断で決勝は16周のみだったため、出走せずホーム2連覇となった。

2014年WECフル参戦。開幕戦のシルバートンでは一タイムによりPPを獲得、決勝でも2位台。さらにルマンでは日本人ポールポジションを一自身の手で決める。これは日本人日本の組み合わせと言う意味でも初の快挙。決勝でもトップを走行していたが、が明ける前に突然マシンメインが落ち、回復不可能となりそのままリタイアした。
一方で選手権においては、初めてのマニュファクチャラーチャンピオン獲得に貢献した(ドライバータイトルは、僚友のセバスチャン・ブエミ、アンソニーデビッドソンの元F1ドライバーコンビが獲得)。 

2016年ル・マン24時間でトップを快走。2位ポルシェに50の差をつけていたが、ラストラップに入る直前に駆動系のトラブルが発生。23時間57分ファイナルラップホームストレート上に尽き、荒治に次ぐ日本人ル・マン制覇、そしてトヨタ悲願のル・マン初制覇はの泡となって消えた。

そのリベンジが果たされたのは2年後、2018年ル・マン24時間。ライバルのノンハイブリッドLMP-1クラスマシンたちはトラブルなどで遅れ、事実上のトヨタ2台のマッチレースとなった。彼の乗る8号は途中でペナルティの60ピットストップを喰らい、一度はチームメイトの7号に先行された。しかし、やがて逆転するとその後は順調に差を広げ、24時間の栄チェッカーを迎えた。ル・マン24時間レースでの日本人による日本チームでの日本の組み合わせでの総合優勝の達成である。以降、2019年2020年にかけてル・マン24時間レースを3連覇した。WEC2018-2019シーズンシリーズチャンピオンを獲得し、FIA殿堂に入った。

2021年シーズン限りでTGRチームレギュラードライバーから勇退し(TGRの発表exit)、同時に同年限りでレーシングドライバー引退した。

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