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がんばれ がんばれ ドラゴンズー 燃ーえよ ドラゴンズー♪

中日ドラゴンズとは、セントラル・リーグセ・リーグ)に所属する日本プロ野球球団である。

本拠地はナゴヤドーム現在監督立浪和義2022年~)。

概要

セントラル・リーグ
中日ドラゴンズ
基本情報
創設 1936年
本拠地 ナゴヤドーム
一般略称 中日
アルファベット D
優勝回数
リーグ優勝 9回
日本一 2回
アジアチャンピオン 1回
セ・パ交流戦 0回
永久欠番
経歴
球団組織
運営 中日新聞社
オーナー 大島一郎
球団社長 加藤
GM --
プロ野球球団テンプレート

セ・リーグの伝統的な球団の一つであり、また東海地方に本拠地を置く一の球団となっているため、熱心なファンが多い。

あまり知らない人もいるようだが、昔は打撃を重視した攻撃的チームであった。現在でも”強打線”と呼ばれるのはその名残である。
のちには投手武器に、2000年代を中心に黄金期を形成した。

球団史

戦前1936年1月5日に発足した名古屋軍ルーツとする。現存する球団としては、読売ジャイアンツ阪神タイガースに次ぐ3番に長い歴史を持つ。

会社の新愛知新聞社は1942年新聞ライバル関係にあった名古屋新聞社と合併し、中部日本新聞社(現在中日新聞社)となった。名古屋新聞社はプロ野球でも名古屋金鯱軍を経営してたが、名古屋金鯱軍は軍と合併して大洋軍となり、1943年には西日本鉄道に譲渡されるが(西鉄軍)、その年限りで解散するに至った。

一方の名古屋軍であったが、戦時体制で新聞社の営利事業兼営が認められなくなったため、1943年シーズンは創業大島の個人経営で何とか乗り切った。それにも限界があり、名古屋軍理事の赤嶺志が1944年2月5日に球団を理研工業の下に入れ、球団名を産業軍称した。

戦後プロ野球が再開されるが、日本野球連盟は「連盟が活動を停止した1944年まで存続していなかった球団は復帰を認めない」として、西鉄軍などの復帰を突っぱねた。名古屋軍は産業軍として活動を続けていたため復帰が認められ中部日本新聞社が経営に復帰して球団名も中部日本中部められた。1947年の開幕前にニックネーム導入の申し合わせが行われ、中部日本ドラゴンズとなった。

ところがこの年のオフに、球団を大震が襲う。経営方針を巡って対立した赤嶺解雇されるや、これに憤った赤嶺を慕うチーム選手(選手26名の約半数近い12選手)が相次いで退団してしまうのである。1948年よりチーム名は中日ドラゴンズとなるが、戦が大幅に低下したチームは最下位に転落した。オフに本拠地となる木造の中日スタヂアム(中日球場完成し、翌年から本拠地となった。

1950年よりプロ野球は2リーグ制に移行し、中日ドラゴンズはセントラル・リーグに所属することとなった。

1951年より名古屋鉄道名鉄)も経営に参画することとなり、球団名も名古屋ドラゴンズめられた。しかし、1953年をもって撤退したため、1954年より再び中日ドラゴンズに戻されて、今に至っている。

1951年8月19日巨人戦で火災が発生し、球場が全焼してしまう。オフコンクリート造で再建工事が行われ、翌1952年4月5日巨人戦がこけら落としとなった。1973年運営会社が倒産し、そこから紆余曲折を経て、1976年より名称もナゴヤ球場められた(→中日スタヂアム事件)。

1954年に初のセ・リーグ優勝を果たす。日本シリーズでも西鉄ライオンズを下し、初の日本一となった。2022年現在に至るまで、実は「リーグ優勝した上で日本一」になったのはこの年以外にない(2度日本一となった2007年シーズン2位)。その後もAクラスを守り続けるが、1960年に初のBクラスとなる。

1958年オフに、球団史上初(にして、2022年時点で最後)の永久欠番が誕生する。服部受弘10と、西沢道夫15である。ただ、当時のことをよく知る杉下茂によると「30歳代以上の選手の一掃を決めたフロントが、“永久欠番にしてやるから引退しろ”と迫った」という、トホホな理由が相のようである。

1961年は新人の権藤博の奮闘で巨人に追いすがった。毎日のようにマウンドに上がり続けるそのあまりの酷使っぷりから「権藤権藤権藤」という流行まで生まれた。

1964年1968年と最下位になり、1968年からは3年連続でBクラスに沈む低迷期に入るが、1974年には巨人V10を阻み、ついに20年ぶり2度セ・リーグ優勝を果たした。だが、日本シリーズではロッテオリオンズに敗れた。

1976年オフ太平洋クラブライオンズとの間でトレードが成立するも、波行雄が移籍を拒否したことで大騒動が起きる。波は1974年の新人王であり、球団にはファンからの抗議電話が殺到し、トレード撤回の署名運動まで始まる始末であった。結局フロントが及びとなり、このトレードは不成立に終わった。

1982年に8年ぶり3度セ・リーグ優勝を果たす。勝ちが全試合(130試合)の半分にも満たず、しかも2位巨人を下回るという事であった。日本シリーズでは「石ころ事件」のもあって西武ライオンズに敗れ去った。

1986年オフに、ロッテオリオンズとの間でトレードが成立し、落合博満を獲得する。中日からは牛島和彦ら4人を放出する大流血トレードであった。

1988年に6年ぶり4度セ・リーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは再び西武ライオンズの前に敗れ去った。

1994年10月8日巨人と同率で最終戦を迎え、ナゴヤ球場で史上初の最終戦決戦が行われた(10.8決戦)。しかし及ばず、中日優勝を逃した。

1997年よりナゴヤドームが開業するが、広いドームに対応出来ず、前年の2位から最下位に転落する。

1999年に11年ぶり5度セ・リーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは福岡ダイエーホークスの前に敗れ去った。

特記事項

選手・首脳陣・関係者

首脳陣

一軍 二軍

所属選手

※トレード、自由契約などの異動については、NPB公示exitがあるまで編集しないでください。
ドラフト名を受けた新入団選手は入団発表後に追加してください。

支配下選手
投手 捕手 内野手 外野手
育成選手
投手 捕手 内野手 外野手
  • --

記事のある球団スタッフ

スカウト

記事のあるOB・関係者

あ行 か行
さ行 た行
な行 は行
ま行 や行
ら行 わ行

戦績

2000年代

詳細

2001年(62勝74敗4分、5位) 監督:星野仙一

山崎武司が前年オフフロントと対立から不振に陥り、また福留孝介も一向に成長の兆しを見せずチームは低迷、ついには前年引退したレオ・ゴメスを呼び戻すという異常事態となった。

投手2位だった昨年よりむしろ状態が良く、野口最優秀防御率くなど明るい話題はあったものの、結局打撃不振が最後までいて4年ぶりのBクラス(5位)に終わってしまった。1996年から采配を揮った星野仙一が勇退。オフには横浜の正捕手谷繁元信FAで獲得した。

2002年(69勝66敗5分、3位) 監督:山田久志

投手コーチだった山田久志監督に昇格した1年佐々木恭介(ヨッシャー)打撃コーチ導によりついに未完の大器福留孝介覚醒し、首位打者いた。立浪和義サードコンバートにより荒木雅博セカンドレギュラーとなり、昨年ショートレギュラーとなった井端弘和とのアライバコンビ確立した。

朝倉健太の急成長と川上憲伸の復調があったものの、前年の三本柱野口山本昌・バンチが結果を残せず、Aクラスには復帰したものの3位に終わった。

2003年(73勝66敗1分、2位) 監督:山田久志→佐々木恭介

一度中日契約していたケビンミラーが来日を拒否し、ボストン・レッドソックス契約。代わりにアレックスオチュアを獲得する。不満分子化していた山崎武司放出し、代わりにオリックスから獲得した平井正史再生に成功した。しかし、ギャラードシーズン途中に退団(横浜に移籍)するなどチーム内のギスギスは深刻なものとなり、ついにはシーズン終盤に山田監督が成績不振を理由に解任されるという事態にまで陥ってしまう。

ところが、佐々木コーチが代行監督に就任してからは急チーム状態が上向き、解任時点で5位だった順位が終わってみれば2位にまで持ち直していた。

2004年(79勝56敗1分、優勝) 監督:落合博満

落合博満監督に就任。「補強しなくても勝てる」としつつ、横浜解雇されたドミンゴ・グスマンをこっそり獲得。就任1年リーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは西武ライオンズに3勝4敗で敗れた。

2005年(79勝66敗1分、2位) 監督:落合博満

横浜からタイロン・ウッズを獲得。この年から導入されたセ・パ交流戦で苦戦し、最終的に阪神とは14.5ゲーム差の2位に終わる。

2006年(87勝54敗5分、優勝) 監督:落合博満

セ・リーグ5球団に勝ち越しての優勝。しかし日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに1勝4敗で敗れた。

2007年(78勝64敗2分、2位、日本一) 監督:落合博満

育成選手中村紀洋を獲得。

シーズンを通して上位をキープし、巨人阪神との三つとなる。レギュラーシーズン2位に終わったが、クライマックスシリーズ阪神巨人敗で制し、2年連続で日本シリーズ出場を決めた。

前年同様、日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦し、4勝1敗で53年ぶりの日本一いた。「リーグ優勝をせずに日本シリーズを制した」初のチームとなった。

2008年(71勝68敗5分、3位) 監督:落合博満

前年度日本一となったドラゴンズは、MLBに移籍した福留孝介の代役としてFA宣言していた和田一浩西武ライオンズから獲得。2008年リーグ優勝日本一の二つを期したシーズンとなった。

シーズン当初は防御率1点代の投手を擁して順調に勝ちを重ねた。しかし野手・投手ともに故障者が続出。またタイロン・ウッズが不振に陥り、序盤に積み重ねた勝ち越し数を取り崩す厳しい戦いを強いられる。

それでも決して低迷せず順位も上位をキープし続けたのは、持ち前の投手に裏付けられた地の強さをドラゴンズが有していたからに他ならない。それでも、北京オリンピックによる選手の離脱及びそのはあまりに大きく、一時は四位転落、負け越しという事態に陥った。

だが終わってみれば順位は3位のAクラス。結局は阪神タイガースに大きく負け越したのが最後にいた形になっただけで、その他巨人広島横浜には五分以上の戦いをしていたドラゴンズは二年連続のクライマックスシリーズ進出を果たす。その後のクライマックスシリーズファーストステージでは苦手阪神を、タイロン・ウッズ藤川球児から2点本塁打を放つなどして撃破する。

しかし、三年連続の日本シリーズ進出をしたが、セカンドステージでは巨人相手に善戦するも敗退。中日ドラゴンズの2008年シーズンは課題を多く残して終結した。

シーズン終了後、エース川上憲伸MLBアトランタ・ブレーブスへ、中村紀洋東北楽天ゴールデンイーグルスFA移籍、タイロン・ウッズが退団。野球浪人中の河原純一日本ハムを戦外となった小山桂司、そして、“ウッズの後釜”としてドミニカからトニ・ブランコを獲得。これが、翌年予想だにしないことになる。

2009年(81勝62敗1分、2位) 監督:落合博満

シーズンオフには川上憲伸MLB移籍)、T・ウッズ(解雇)、中村紀洋FA移籍)と言った級の選手の離脱により、開幕前には”もしかしたら久しぶりのBクラス2001年が最近)も有り得るかも”とも言われていた。そして、追い討ちをかけるかのように繁の開幕直後の1ヶの離脱があった。
だが、投手ではチェン川井雄太吉見一起河原純一と言った選手の活躍、野手では藤井淳志が大ブレイクしたこともあり、5月の半ば頃までは勝率五割弱程度と頑っていたほうである。

そして、5月半ば頃から丁度トニ・ブランコが絶好調となったこともあって、6月は13勝4敗、7月は17勝7敗と、すさまじい勝率をたたき出し、リーグ順位2位大躍進

8月9月も大苦戦していたイメージは強かったものの(実際、ブランコなどは不調であった)結局は8月:15勝10敗、9月:12勝14敗とそれほど悪い成績ではなかったりする。

だが、結果的には首位巨人相手に8勝16敗と負け越したのが大きくき、12ゲーム差の2位に終わり、CSでも第2ステージで1勝4敗と、巨人相手に苦戦した形であった。

また2009年シーズン終了をもって、ドラゴンズの一時代を築いた井上一樹立浪和義の2選手がファンから惜しまれつつ引退した。

2010年代

詳細

2010年(79勝62敗3分、優勝) 監督:落合博満

昨年のトニ・ブランコに続き、助っ人外国人ディオニス・セサルを獲得。しかしネルソンが実弾所持により逮捕され出場停止処分、更に開幕直前に荒木雅博が故障で離脱、昨年ブレイクした藤井の出遅れなど、2年連続となる不安な幕開けとなった。  

序盤は先発が不振だったが、和田一浩,森野将彦中継ぎでは浅尾拓也,高橋聡文らが奮起し、そこそこ好調を維持していた。しかし5月以降は先発投手外国人助っ人の不振、井端弘和の離脱が大きくき、6月終了の時点で3位と苦戦を強いられたが、7月から向きが変わった。

野手では若手の堂上直倫をはじめ、堂上剛裕大島洋平野本圭岩崎達郎らが台頭。更に前半崩れかかっていた先発投手がついに復調し、7月16日から20日にかけてプロ野球記録となる5試合連続完封勝利記録中継ぎも前半同様に好調を維持し、お得意の「守り勝つ野球」を前面に出せる試合が増えていった。

8月に入ると、今度は中堅ベテラン勢である荒木小田幸平谷繁元信山本昌らが大奮起。上位2チーム夏バテで失速する中、中日のみ好調をキープ9月初旬には総力戦の末、遂に首位奪還に成功。 以降はそのまま首位を譲らず、一時期首位巨人につけられていた8ゲーム差をひっくり返す大逆転優勝を成し遂げた。

CSは初戦を勝ち抜いた巨人を相手に順調に勝ちを重ね、4勝1敗(内、首位アドバンテージによる1勝)という安定した成績で勝利CS制覇。

かしこの勢いは日本シリーズまでは続かず、千葉ロッテには闘の末2勝4敗1分で破れ、悲願である優勝(ペナント-日本シリーズ制覇)はと終わった。

チーム防御率は12球団トップの3.29、ホーム勝率7割5分という鉄壁な「守り」を誇った反面、チーム打率が11位の.259、アウェー戦の借18、という貧弱な「攻め」が立つ、非常に両極端なシーズンであった。

シーズン終了後、セサル,二軍監督川相昌弘が退団。後任に井上一樹が就任した。

2011年(75勝59敗10分、優勝) 監督:落合博満

外国人としてジョエル・グスマンエンジェルベルト・ソトを獲得。また横浜ベイスターズを戦外になった佐伯貴弘代打の切り札として獲得。しかし、高橋聡文が開幕前に故障、吉見一起チェン・ウェインの両エースが開幕に間に合わず、マキシモ・ネルソン開幕投手を務めたが、いきなり浅尾拓也が打たれてサヨナラ負けというまたしても不安な幕開けでスタートした。

この年は、前年貧打のチームを牽引した森野将彦和田一浩統一球か、って開幕から大不振に陥り、類を見ないほどの圧倒的貧打に苦しめられることになった。ただ点が取れないとかそういうレベルではなく、そもそも相手投手であろうともヒットすらまともに出ないという有様で、実に得点試合が22試合、1得点の試合が30試合という惨憺たる状態であった。チーム打率(.228)、総得点419)ともに12球団最下位チーム首位打者荒木雅博.263チーム打点王和田一浩54打点と笑うに笑えない数字ばかりが並ぶ。

投手こそ吉見チェンが復帰、小林正人が左殺しとして活躍、浅尾が無敵セットアッパーとして君臨し、岩瀬も前半戦不調ながらセーブ日本記録を達成するなど、リーグトップチーム防御率で貫の安定感を誇ったものの、打線がこんな状態ではそうそう勝てるはずもなく、6月にはトニ・ブランコ谷繁元信が戦線離脱。慢して使い続けたジョエル・グスマンは振るわず、平田良介小池正晃堂上剛裕らがアピールを見せたもののチーム状態を劇的に善させるほどのく、7月終わり頃には借生活に突入。ヤクルトが独走する中、8月には5位まで沈み、ファンですらもうほぼ全に諦めムードに入っていた。

8月半ばに繁が、8月終わりにブランコが復帰すると、チームはじわじわと上昇を始める。ブランコ繁の2人が4番・5番に座って、ここぞの場面で勝負強さを発揮。接戦に持ち込んで競り勝つといういつもの勝ちパターンが戻り、失速し始めたヤクルトを少しずつ追い上げはじめる。

だが、この追い上げムードを快く思わない者たちがいた。その正体はあろうことか、球団のフロントであった。もともと様々な事情から地元経済界での評判が良くない落合監督を辞めさせる機を伺っていたフロントは、首位ヤクルトに3.5ゲーム差と迫り、全勝すれば逆転首位という直接対決4連戦という天王山の直前、9月22日落合監督の今季限りでの退任を突如発表する。
表向きの理由は3年契約の満了と観客動員の伸び悩みだが、球場に客を呼ぶのは営業の仕事であって、監督仕事ではない。加えて外様コーチたちも軒並みシーズン限りで解任されることになり、さらに坂井球団社長が敗戦時にガッツポーズをしていたという言まで現れる。

このチーム優勝させたくないとしか思えないフロントの妨の数々に、選手たちが発憤する。直接対決ヤクルト叩きのめし、10月6日についに単独首位に立つと、そのまま首位を譲らず、10月18日球団史上初のリーグ連覇を達成した。最大10ゲーム差をつけられながら、慢して慢してシーズン終盤に照準を合わせての大逆転優勝は、まさしく8年間の落合野球の集大成とも言うべきシーズンだった。ちなみにチーム打率・総得点が12球団ワーストでの優勝は史上初である。

劇的なシーズン制覇ののち、巨人1stステージで制した東京ヤクルトスワローズを迎えたクライマックスシリーズファイナルステージ、両チーム得点中日が2.2、ヤクルトが1.6と投手戦となる。中日が初戦をエース吉見で取り、アドバンテージを含む2勝とするも、2戦チェン、3戦を山井で落として2勝2敗のタイに持ち込まれる。ヤクルトエース館山が1stステージ1戦先発から中4日ファイナル2戦に抑えとして登板セーブを挙げたその後中2日で先発するなど、まさに捨て身の特攻を仕掛ける。それに対し4戦川井の好投で勝利日本シリーズ進出に王手をかけた中日は、5戦吉見が中3日で先発し、館山と熱戦を繰り広げる。最後は井端の2ランホームランで試合を決め、4勝2敗で因縁のライバルとの闘を制し突破する。

日本シリーズ

遂に迎えた日本シリーズ、圧倒的な強さで11球団に勝ち越す優勝を果たし、秋の風物詩も払拭した福岡ソフトバンクホークス突する。両者共にそれぞれのリーグを制したチームとして、周囲の期待も高まっていた。だがどうしても下評は「中日は1勝できれば御の字」というが多く、ソフトバンクの圧倒的勝利かと思われた。

福岡で開幕した第1戦、中日吉見でもネルソンでもなく、チェンをマウンドに送る。この奇襲とも思える戦法にソフトバンク営は困惑。チェンは先取点こそ許すが、その後はって11奪三振の快投を見せる。打線和田毅に対して7回途中までヒットすら打てない状況であったが、和田一浩ホームランを打ち1-1の同点に持ち込み、試合は延長戦へ。10回、馬原孝浩から小池正晃HRを打ち勝ち越し、2-1で初戦をものにする。中日の1勝。


第2戦も吉見内の息詰まる投手戦となる。試合が動いたのは7回、中日平田良介のあわやホームランタイムリーで先制、ソフトバンクはその裏、川崎宗則タイムリーで同点、またもや延長へ。中日は10回、原から森野タイムリーで勝ち越し、最後は岩瀬が抑え、2-1で勝利福岡で連勝し、2勝


名古屋に戻って摂津ネルソンで迎えた第3戦、ソフトバンクは初回、松田タイムリーで1点、4回に多村の2ランホームランで加点、8回には細川ソロホームラン中日は6回井端のセカンドゴロの間に1点、8回荒木犠牲フライでもう1点返すも反撃及ばず、2-4敗北、2勝1敗。


第4戦はホールトン川井ソフトバンクは初回、小久保タイムリーで先制、松田セカンドゴロの間に2点を挙げる。中日は5回、荒木タイムリーで1点返すが、6回、満塁の絶好期に福から1点も取れず、そのまま2-1で敗戦、2勝2敗のタイとなる。


第5戦は山田チェンで始まるが、初回に小久保タイムリーで1点、7・8回に加点され、0-5でまさかの名古屋3連敗、王手をかけられる。


福岡に戻った第6戦、吉見和田毅先発。初回、中日和田一浩の2点タイムリー三塁打で先制、吉見は4回に内川タイムリーで1点を返されるが、エースりを見せ、7回途中8奪三振の好投。その後は岩瀬、浅尾と繋ぐリレー勝利、逆王手をかける。


運命の第7戦、先発は山井対内、ソフトバンクは3回、満塁から押し出し四球で先制、4回には川崎、7回は内川タイムリーで加点する。内は7回失点に抑え、その後ファルケンボーグ福、摂津リレーの前に中日打線は遂に尽き、敗戦、日本一わなかった。なお、シリーズ史上ワーストの7試合9得点チーム打率.155と、最後まで貧打であった。


就任8年で全てAクラス入り、リーグ優勝4回、日本シリーズ進出5回、日本一1回と紛れもなく黄金時代を築いた名将・落合博満は、悲願の「リーグ優勝からの日本一」だけは成し遂げられないまま、中日ユニフォームを脱ぐことになった。

浅尾拓也中継ぎ投手として史上初のMVPゴールデングラブを受賞。吉見一起最優秀防御率最多勝最高勝率ベストナインを獲得。谷繁元信大島洋平ゴールデングラブを受賞した。

オフ落合監督以下首がほぼ刷新され、高木守道監督以下、中日OBだけで固めた営となった。楽天を戦外になった山崎武司ブレーブスから川上憲伸のOB2人を獲得。佐伯貴弘河原純一らが戦外となり、チェン・ウェインメジャー挑戦のため自由契約となりオリオールズへ移籍。小池正晃FAで古巣の横浜へ移籍し、小山桂司楽天銭トレードとなった。

2012年(75勝53敗16分、2位) 監督:高木守道

補強は山崎川上に加え、ビクトル・ディアスサミー・ソーサ族を自称するホルヘ・ソーサ立つものではなく、チェン・ウェイン放出ベテランの衰えへの懸念から戦ダウンはやむなしと思われた。

それでもチェンの抜けた先発は若手の山内壮馬岩田慎二が、浅尾の故障と岩瀬の不調があった中継ぎルーキー田島慎二山井大介、ソーサが見事に埋め、序盤から相変わらずの投手背景に連勝、連敗を繰り返すやや不安定な内容ながらも首位をキープする。また野手でも大島洋平が上位打線に定着し、堂上剛裕が一定の活躍を見せるなど、落合政権時からの課題だった若手野手も台頭を見せた。

しかし場になると序盤苦しみながらも、セ・パ交流戦で勢い付いた読売ジャイアンツ一気に差を詰められ、6月29日7月1日の直接対決で3タテを喰らい首位陥落。その後はオールスター直前にブランコが離脱したことも痛手となってなかなか差を詰められなかった。結局シーズン通して大きな失速もく、3位のヤクルトも大きく引き離し、前年を上回る勝率.586を叩き出しながら巨人の独走を許したままセ・リーグ3連覇を逃した。

吉見一起エンジェルベルト・ソト先発の柱がシーズン終盤に相次いで離脱し、クライマックスシリーズ先発が手薄なまま迎えることに。ファーストステージは2勝1敗でヤクルトを退けるも、ここで更に中田賢一が離脱。ファイナルステージ大野雄大伊藤準規といった実績の少ない若手、2010年日本シリーズからポストシーズン安打が続いていた谷繁元信シーズン通して不振だった森野将彦がようやく打ち出して3連勝、下評を覆しこのまま突破かと思われたが、後半からは先発の駒不足のためにファーストステージから登板過多になっていた中継ぎに疲れが見えはじめ、そこを調子を取り戻してきた巨人打線に捉えられはじめる。1敗した後、よりによって肝心要となった第5戦で投手起用法を巡って高木監督権藤コーチおじいちゃん2人が喧嘩を始め(なお、この2人の喧嘩レギュラーシーズン中にも度々見られた)みすみサヨナラを許し、続く最終戦も勢い付いた巨人に及ばず、3勝4敗(うち1敗は巨人アドバンテージ)とあと一歩のところで日本シリーズ出場を逃した。

オフトニ・ブランコエンジェルベルト・ソトホルヘ・ソーサ外国人が3人って横浜DeNAベイスターズへ移籍した。英智小笠原孝が現役を引退平井正史マキシモ・ネルソンらが戦外となった。

2013年(64勝77敗3分、4位) 監督:高木守道

井端弘和ワールドベースボールクラシックで活躍し、指名打者部門でベストナインを受賞したが、チームオープン戦で4勝14敗2分で最下位と暗が立ち込めた状態でシーズンを迎えた。

レギュラーシーズンに入ると、11年ぶりの開幕2連敗。前述の通りWBCでは大活躍だった井端も絶不調で、4月は最下位に転落。しかし、新外国人エクトル・ルナ5月末まで打率3割後半~4割前半の高打率を維持。投手では大野雄大、新外国人ダニエル・カブレラローテーションを守り、岡田俊哉武藤祐太田島慎二中継ぎを牽引、DeNA広島との3位争いとなる。しかし、カブレラ骨折ルナが膝を痛め2軍落ち→帰するなど、思うように勢いづかず。不調の荒木に代わり、森野セカンドでスタメン起用するなどテコ入れを図ったが、8月中旬に4位に転落する。そして、9月25日広島戦で2001年以来のBクラスが確定。最下位は免れたがセ・リーグ全球団に負け越した。

契約満了により高木守道が辞任。前監督落合博満が球団新設のGMに就任。新監督には現役捕手谷繁元信が就いた。

山崎武司が現役を引退マット・クラーク、井端が自由契約となった。

2014年(67勝73敗4分、4位) 監督:谷繁元信

詳細はプロ野球2014を参照

2015年(62勝77敗4分、5位) 監督:谷繁元信

詳細はプロ野球2015を参照

2016年(58勝82敗3分、6位) 監督:谷繁元信→森繁和

詳細はプロ野球2016を参照

2017年(59勝79敗5分、5位) 監督:森繁和

詳細はプロ野球2017を参照

2018年(63勝78敗2分、5位) 監督:森繁和

詳細はプロ野球2018を参照

2019年(68勝73敗2分、5位) 監督:与田剛

詳細はプロ野球2019を参照

2020年(60勝55敗5分、3位) 監督:与田剛

詳細はプロ野球2020を参照

2021年(55勝71敗17分、5位) 監督:与田剛

詳細はプロ野球2021を参照

2022年(66勝76敗2分、6位) 監督:立浪和義

詳細はプロ野球2022を参照

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