中村光毅 単語

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ナカムラミツキ

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中村光毅(なかむら・みつきとは、日本アニメ美術監督メカデザイナーイラストレーターである。椋尾(むくお・たかむら)、小林七郎景山勇らとともに70~80年代アニメ世界観を作り上げ、その盛に貢献したアニメ美術界の重鎮である。

概要

1944年4月7日東京都上野生まれ。中学卒業後、1960年東映動画に入社。当時のアニメ関係者は、学生運動に参加したでまともな就職口がなくやむをえず、あるいは美術を志向したがうまくいかずに入社、という人物が多かったが、中村は「なんでもいいから絵が描きたかった」という絵筆であり、ディズニーアニメに感銘を受けたこともあって、アニメ業界に入ることに抵抗はなかったという。

中村デザインしたマッハ号1964年タツノコプロへ移籍すると、美術とともにメカニックデザインを任された。美術部にはメカを描ける人間がほとんどおらず、大河原邦男が入社するまで中村への負担は大きかったが、圧倒的な仕事量をこなしながら幅の広さを発揮し、「マッハGOGOGO(67年)」のマッハ号のデザインから、「みなしごハッチ(70年)」の昆虫世界まで描ききっている。それは単なる背景描きにとどまらぬ、作品全体のイメージ創出であった。「アニメンタリー/決断(71年」)では経験のなかった軍事兵器まで手掛けたが、これはのちのタツノコSFヒーローシリーズのいい布石になっている。

中村がゴッドフェニックスのデザインを担当科学忍者隊ガッチャマン72年)」はタツノコプロの存在のみならず、中村ポテンシャルを広く内外に知らしめた作品である。本作は脚本、演出、作画美術に至るまで総じてレベルが高く、同時期のアニメべて群を抜いた完成度を誇る。中村名(吉田健二の名説あり)により、世界初のメカ専門デザイナーとなった大河原名前クレジットされているが、戦闘機であるゴッドフェニックス中村デザインし、よく知られている「洗面器の裏に描いた地球」も彼の手によると言われる。ガッチャマン世界の統一において、大河原を含む美術部門をまとめあげた中村は大きい。

また同作において、中村を基調とする透明感ある(濁りのない)色あいを自らの個性として確立する。そのアメコミ調のキャラとも、大河原メカともよくマッチし、特に赤色との対を用いたゴッドフェニックスの質感と具合は「どうやって出したのか」と他社から問い合わせが来るほどだった。これにより中村は「中村」「透明感中村」「バタ臭い中村」といった異名をとることとなる。

1976年大河原と「有限会社(現・株式会社デザインオフィスメカマン」を設立して以降は美術に専念した。

富野由悠季との仕事

御大1978年以降は、富野由悠季監督の作品に関わるようになり「無敵超人ザンボット3(78年)」から「伝説巨神イデオン・発動篇(82年)」まで、富野の世界観を支え続けた(「無敵鋼人ダイターン3」ではメカマン名義)。特に大きな功績は「機動戦士ガンダム(79年)」である。74年に発表されて間もないオニールシリンダーコロニーをもとに、従来のロボットアニメにはなかったリアルSF世界観を富野とともに作り上げ、当時メジャーだった松本零士のそれとは一味違ったメカニカル間を視聴者提供した。コロニー、砂漠ジャングルまぐるしく変わる舞台を破綻なく見せ続けられたのも、中村量のおかげである。

伝説巨神イデオン」のテレビシリーズでは「四条也」名義で参加している。これは当時、「ニルスのふしぎな旅(80年)」「黄金戦士ゴールドライタン(81年)」「機動戦士ガンダム劇場版(81年)」「ブレーメン地獄の中の天使たち(81年)」「うる星やつら(81年)」「まいっちんぐマチコ先生(81年)」「太陽の牙ダグラム(81年)」と恐ろしい量の仕事を手掛けていたことが理由である。「あまりにもたくさんの作品に名前クレジットされるとヒンシュクを買う」ため、始終徹夜してばかりだったから「四条也」にしたという。別名を使ったのは富野のアドバイスである。

イデオンでは通常の背景のみならずバイラル・ジンガンド・ロワという一部巨大艦も担当。従来のアニメだとこの手の艦は(動く理由から)アニメーターの担当になることが多いが、数キロ~数キロという巨大感を出すために美術に回ったものと思われる。富野の狙いが功を奏してか、その巨大感は後年より巨大なメカを登場させるガイナックスの諸作品(「トップをねらえ!」など)にしても見劣りするものではない。

イデオン発動篇のラストシーン背景美術で表現する」と富野が発案した際は、負担が大きいとの理由から美術スタッフ援を背中に受けつつ富野へ抗議したが、気が付いたときには逆に(描く方へ)まされて帰ってきていた、というエピソードがある。

宮崎駿との仕事

ナウシカ優れた仕事ぶりを評価され、ついに中村宮崎駿にとまり、「風の谷のナウシカ(84)」の美術監督を任された。腐海腐海植物といった未知のものを要された中村は戸惑ったものの、やがて次々と美術ボードを仕上げていった。絵を描ける監督である宮崎の中にイメージがあったとはいえ、それをおぞましくも美しいものとして完成させたのは中村だった。

製作過程で諸事情により冒頭の腐海シーンが削られそうになった際には「ここはいいシーンになるので是非入れましょう」と宮崎へ直談判している。視聴者が「風の谷のナウシカ」の世界へすんなり入れるのは、幾説明文より明確で存在感のある中村美術のおかげである。

以降の仕事

ドンパッチ80年代後半にもなると、アニメの時代が到来したこともあって80~81年時のような狂気仕事数こそなくなったが、中村は常にアニメ美術の第一線を走り続け、「アニメ三銃士(87年)」のようなフランス舞台とした作品から「ボボボーボ・ボーボボ(03年)」といったわけのわからない作品の世界観にまで携わった。「プリキュアシリーズにも美術監督である行信三に代わって、美術を担当した回がいくつかある。そうした縁あってか「劇場版フレッシュプリキュア!おもちゃ秘密がいっぱい?」に参加したが、これが美術監督としては最後の作品となった。

2011年5月16日に口腔により死去。67歳だった。

※参加した作品に関してはWikipedia該当項目exit参照。

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