中東戦争 単語

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チュウトウセンソウ

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中東戦争とは、イスラエル/パレスチナを中心にして発生した戦争である。1948年から1973年までに計第四次まで行われた。

背景

ユダヤ民族は長らく世界各地に離散していたが、19世紀末欧州で反ユダヤ義が高まると当時オスマン帝国領だったパレスチナにおいてユダヤ国家の建設をすシオニズムがるようになった。

1914年に第一次世界大戦が勃発するとイギリスは各勢の協を取り付けるためにアラブ独立約束したフサイン=マクマホン協定を、フランスオスマン帝国領の中東地域の分割約束したサイクス・ピコ協定を、さらにユダヤ人戦争を得るためにパレスチナユダヤ人居住地の設立を認めるというバルフォア宣言を行った。

戦後、旧オスマン帝国領の中東地域はイラクイギリスの、シリアフランスの保護としてそれぞれ独立し、パレスチナはフサイン=マクマホン協定の適用外の地域としてイギリスの委任統治領となり、一応ユダヤ人の入植も認められた。

イギリスとしては矛盾のない取り決めだったがアラブは裏切られたと認識し、ユダヤ人はさらなる入植と独立めるようになった。

第一次中東戦争

第二次世界大戦期には欧州を占領したナチスドイツの反ユダヤ政策によりユダヤ人難民が増加し、多数の難民が入植者としてパレスチナに押し寄せた。

ユダヤ人アラブの武衝突が多発するようになるとイギリス国際連合パレスチナ問題を委ね、1947年11月パレスチナ分割アラブユダヤの二国家を建設する決議(パレスチナ分割決議)を採択したがアラブ側はこれに反発し、内戦が決定的になった。

1948年5月14日イスラエル独立宣言をすると分割に反対するアラブエジプトサウジアラビアイラクトランスヨルダンシリアレバノン、要は周辺全て)が侵攻し第一次中東戦争が勃発した。

形勢はアラブ連合軍15万人以上に対してユダヤ人ゲリラ3万人とアラブ側が圧倒的だったがアラブ側は頭多し状態で足並みがわないところへ世界各地から第二次世界大戦期の余剰兵器を買ったり盗んだりしてかき集めたユダヤ人が反攻に出て各地でアラブを撃破、逆にエジプト領内まで侵攻するなどの善戦を見せ、最終的にイスラエルはガザ地区とヨルダン川西を除いた全パレスチナを占領するが肝心のユダヤ教聖地であるエルサレムヨルダン軍(アラブ側でイスラエル軍と一まともに渡り合えた)が善戦したため確保できなかった。

第二次中東戦争

第一次中東戦争の結果に不満が募ったエジプトでは1952年にガメール・ナセルら若手の軍将官がクーデターを起こして国王を追放し共和制を宣言した。ナセル率いるエジプト共和イスラエルとの対決姿勢を強めた他、ソ連に接近し多額の援助や軍事支援を受けた。1956年には長らく借の肩代わりとしてイギリスフランスが管理していたスエズ運河有化を宣言した。

スエズ運河の権益を確保したい英は同じくエジプトへのを封鎖されていたイスラエルと共謀し、戦争計画を練った。

1956年10月29日イスラエルが航行の自由めてエジプト領のシナ半島へ侵攻。翌日英両国エジプトイスラエル両国スエズ運河ラインにして撤退し、兵引き離しのためにスエズ運河地帯に英連合軍の駐留を認めるように通告、エジプト拒否すると英連合軍が平和維持の名エジプトへの攻撃を開始した。

イスラエル軍と英連合軍の両方から攻撃を受けたエジプト軍は各地で敗北を重ねたが英以のあからさまな侵略戦争には当時イギリスフランスと対立していた東側営のソ連だけでなく西側の総本山たるアメリカですら呆れかえり反英以でソが結託、国連においてはソが英の拒否権行使を押しのけて即時停戦をめる決議を採択させるなどの圧を加えた。

論見が外れて両国を敵に回した英以は順次撤退、社会におけるアメリカソ連の発言の拡大とイギリスフランスの凋落を決定づけた。

軍事的には敗北続きだったとはいえ最終的に勝利スエズ運河有化を実現させたエジプト中東の地域大としてアラブの大同団結すようになる。

第三次中東戦争

二次中東戦争以降中東では小康状態が続いていたが1964年パレスチナ解放機構(PLO)が結成されイスラエルへのゲリラ闘争を開始すると周辺のアラブもそれに対して有形形の支援支持をするようになり、シナ半島チラン峡では上封鎖も行い始めた。

1967年6月5日イスラエル空軍機がエジプトシリアヨルダン空軍基地を奇襲攻撃し壊滅させ、時を同じくして陸軍部隊シナ半島ゴラン高原ヨルダン川西に侵攻し現地のアラブ軍を壊滅させた。数的にはアラブ側の三ヶの軍勢がはるかに優勢であったが奇襲と練度の差によりわずか6日で壊滅して停戦に至ったため六日戦争とも呼ばれる。 この戦争によりスエズ運河はそのまま停戦ラインとなったため1975年まで通行不能になった。ヨルダン川西ゴラン高原現在でもイスラエルの占領下にある。

消耗戦争

三次中東戦争で敗れ、シナ半島を占領されたエジプトはその後も諦めずに持久戦なら分があると抵抗を続け、イスラエルと散発的な撃戦や航空戦、特殊部隊によるゲリラ戦などの応酬を1970年まで繰り返したが練度で勝るイスラエル軍が最終的に制した。 1967年10月21日にはイスラエル軍の駆逐艦エジプト軍のミサイル艇に撃沈された(艦対艦ミサイルが実戦で使用された世界初の例)。

第四次中東戦争

1970年9月28日にナセルが急死すると後を継いだアンワル・サダトはシナ半島奪還のための策を練った。まず表向きにソ連との不和や軍の弱体化を演出・流布する一方で密かにソ連製の最新兵器の導入や軍の革、将兵の訓練強化を進めた。また同盟シリア石油輸出機構(OPEC)やアラブ石油輸出機構(OAPEC)と連絡を取り合い開戦の際には連携できるようにした。また後日アメリカに接近して西側営に替えする積もりを決めていた。 ヨム・キプールユダヤ教休日)とラマダンが重なった1973年10月6日エジプト軍とシリア軍がシナ半島ゴラン高原に侵攻すると油断していたイスラエル軍は全に虚を突かれた。おっとりで迎撃した戦車戦闘機ソ連製の新ミサイルにより壊滅的な打撃を受け、戦後しばらくの間各戦車不要論が流布されるほどだった。 またこの戦争に呼応してOAPEC とOPECがそれぞれイスラエル国への石油輸出の禁輸と石油価格値上げを行ったため日本西欧では大規模なインフレーションが発生し経済に悪を与えた(第一次オイルショック)。 その後練度で勝るイスラエル軍がなんとか押し戻すものの停戦交渉ではエジプト側がある程度有利に進め、1978年から1979年にかけてアメリカの仲介で平和条約を結んでイスラエル国家承認し引き換えとしてシナ半島の返還を実現した。 こうしたエジプトの抜け駆けに対して他のアラブは反発し、特にシリアイスラエルと講和せず現在でもゴラン高原の領有を巡って現在も対立関係にある。

その後

1980年代から90年代初頭にかけてのレバノン内戦を第五次中東戦争と呼ぶ場合がある。 内戦に介入してきたイスラエル軍とシリア軍がレバノン内で戦闘を繰り広げたためである。

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