中田昌宏 単語

ナカタヨシヒロ

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中田昌宏(なかた よしひろ)とは、元プロ野球選手である。故人

概要

1935年2月22日生まれ。兵庫県西宮市出身。小学校時代から投手として野球を始め、こちらも後にプロ野球選手として活躍する藤尾茂バッテリーを組んでいた。

鳴尾高等学校に進学。ともに進学した尾以外に、2学年上には鈴木武がいた。2年時には二本柱の投手ひとりとして春の甲子園大会に出場し、決勝戦まで勝ち進んだが敗退し、準優勝に終わった。3年時にも春の甲子園大会に出場したが、こちらは準決勝で敗退している。

卒業後、慶應義塾大学に進学。ここで内野手に転向し、4年リーグ優勝を経験し、長島茂雄を抑えて首位打者タイトルを獲得。この他4,3度ベストナインに選ばれ、3年時には大学日本代表メンバーにも選ばれている。

大学球界屈の強打者ということもあり引く手数多であったが、実の勧めもあり、1956年シーズンオフ阪急ブレーブスに入団。

1957年、当時の阪急にはファースト岡本健一郎がいたことから、外野手としてプレーすることになった。中田は新人ながら111試合に出場し、打率.231、6本塁打、33打点、11盗塁記録

1958年、ほとんどの試合で4番打者を任されると、パ・リーグワーストの108三振を喫したものの、12本塁打、55打点記録し、長打力が開

1959年打率.254、23本塁打、75打点記録し、オールスターゲームにも初出場。23本塁打本塁打王を獲得した山内和弘と2本差であった。

1960年打率.212、14本塁打、41打点と成績を落としたが、1961年打率.238、29本塁打、74打点記録して本塁打王タイトルを獲得。阪急球団にとっては、2リーグ分立後初めての本塁打王であった。

その後も二桁本塁打記録し続け、1966年まで9年連続で二桁本塁打記録1963年には22本塁打記録1964年には史上4人となる1イニング2本塁打記録している。

1967年頃から長池徳二の台頭もあり出場機会が減少。それでも控えの外野手代打の切り札として活躍し、キャリア最高の打率.282記録して、阪急球団初優勝に貢献。

1968年、現役引退

引退後も阪急に残り、コーチを務め、上田利治監督が休養した際には監督代行も務めた。

1989年フロント入りし、編成部長に就任。長谷川滋利田口壮イチロー平井正史らを獲得し、オリックス・ブルーウェーブ黄金時代の礎を築いた。

2001年オリックスを退団した後は解説者として活動。

2009年11月16日心不全のため死去。享年74歳。

人物・エピソード

三振ホームランかという快な打撃で相手投手を恐れさせた長距離。また、12本のサヨナラ安打記録するなど、ここ一番の場面で力を発揮した。

元々はアベレージヒッターであったが、チームに長距離が居なかったことから、半ば強引にパワーヒッターへの転向を強いられたという。

導者としては打撃コーチでありながら外野ノック名人でもあった。中田ノックを受け、福本豊をはじめ、山森雅文簑田浩二大熊忠義といった外野守備の名手が誕生している。

通算成績

打撃成績

通算:12年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1430 4634 4200 446 985 154 526 45 16 43 363 12 890 98 .235 .297

獲得タイトル・表彰・記録

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