中田昌宏(なかた よしひろ)とは、元プロ野球選手である。故人。
| OB | |
|---|---|
| 中田昌宏 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 兵庫県西宮市 |
| 生年月日 | 1930年8月22日 |
| 没年月日 | 2009年11月16日 |
| 身長 体重 |
177cm 78kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手、内野手 |
| プロ入り | 1957年 |
| 引退 | 1968年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
1935年2月22日生まれ。兵庫県西宮市出身。小学校時代から投手として野球を始め、こちらも後にプロ野球選手として活躍する藤尾茂とバッテリーを組んでいた。
鳴尾高等学校に進学。ともに進学した藤尾以外に、2学年上には鈴木武がいた。2年時には二本柱の投手のひとりとして春の甲子園大会に出場し、決勝戦まで勝ち進んだが敗退し、準優勝に終わった。3年時にも春の甲子園大会に出場したが、こちらは準決勝で敗退している。
卒業後、慶應義塾大学に進学。ここで内野手に転向し、4年秋のリーグ優勝を経験し、長島茂雄を抑えて首位打者のタイトルを獲得。この他4,3度ベストナインに選ばれ、3年時には大学日本代表のメンバーにも選ばれている。
大学球界屈指の強打者ということもあり引く手数多であったが、実兄の勧めもあり、1956年シーズンオフに阪急ブレーブスに入団。
1957年、当時の阪急にはファーストに岡本健一郎がいたことから、外野手としてプレーすることになった。中田は新人ながら111試合に出場し、打率.231、6本塁打、33打点、11盗塁を記録。
1958年、ほとんどの試合で4番打者を任されると、パ・リーグワーストの108三振を喫したものの、12本塁打、55打点を記録し、長打力が開花。
1959年、打率.254、23本塁打、75打点を記録し、オールスターゲームにも初出場。23本塁打は本塁打王を獲得した山内和弘と2本差であった。
1960年は打率.212、14本塁打、41打点と成績を落としたが、1961年は打率.238、29本塁打、74打点を記録して本塁打王のタイトルを獲得。阪急球団にとっては、2リーグ分立後初めての本塁打王であった。
その後も二桁本塁打を記録し続け、1966年まで9年連続で二桁本塁打を記録。1963年には22本塁打を記録。1964年には史上4人目となる1イニング2本塁打も記録している。
1967年頃から長池徳二の台頭もあり出場機会が減少。それでも控えの外野手や代打の切り札として活躍し、キャリア最高の打率.282を記録して、阪急球団初優勝に貢献。
引退後も阪急に残り、コーチを務め、上田利治監督が休養した際には監督代行も務めた。
1989年にフロント入りし、編成部長に就任。長谷川滋利・田口壮・イチロー・平井正史らを獲得し、オリックス・ブルーウェーブの黄金時代の礎を築いた。
三振かホームランかという豪快な打撃で相手投手を恐れさせた長距離砲。また、12本のサヨナラ安打を記録するなど、ここ一番の場面で力を発揮した。
元々はアベレージヒッターであったが、チームに長距離砲が居なかったことから、半ば強引にパワーヒッターへの転向を強いられたという。
指導者としては打撃コーチでありながら外野ノックの名人でもあった。中田のノックを受け、福本豊をはじめ、山森雅文・簑田浩二、大熊忠義といった外野守備の名手が誕生している。
| 通算:12年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1430 | 4634 | 4200 | 446 | 985 | 154 | 526 | 45 | 16 | 43 | 363 | 12 | 890 | 98 | .235 | .297 |
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最終更新:2025/12/09(火) 14:00
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