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丸岡城とは、福井県坂井市にある城郭である。国重要文化財、日本100名城、日本さくら名所100選指定。別名「霞ヶ城」。
丸岡城 国重要文化財 日本100名城 36 日本さくら名所100選 |
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築城形式 | 平山城 |
石垣の形式 | 野面積み |
天守階層 | 二層三階 |
天守の高さ | 12m |
築城者 | 柴田勝豊 |
推定築城年 | 1576年 (天正2年) |
日本の城郭の中で現存12天守に数えられ、北陸地方に唯一天守が現存する福井県の名城である。推定建築年が1576年(天正4年)で、現存12天守の中では日本最古の天守であるとされていたが、2015年から進められていた坂井市教育委員会による学術調査の結果、使用されている木材が江戸時代(1620年代)であることが判明し、日本最古の現存天守ではなかったことが判明した。
現在は「霞ヶ城公園」として整備され、天守へは有料で拝観することができる。
丸岡城は標高27mの独立丘陵に建てられた。城は平山城形式で建てられ、天守は高さ12m、二層三階からなる独立式望楼型天守で建築された。
石垣は戦国時代の城郭によく見られる野面積み[1](のづらづみ)で組まれ、その高さは約6.2mまで達する。
屋根は笏谷石[2](しゃくだにいし)と呼ばれる県産の石を使用した石瓦で葺いている。この屋根に石瓦を葺くスタイルは、現存十二天守の中では唯一である。ちなみに、石瓦の使用枚数は約6000枚あり、一枚あたり約20kg~50kgの重量がある。このため、天守にかかっている石瓦の総重量は120トン以上あると推定されている。
また、鬼瓦にも笏谷石が使用されており、東側の鬼が「阿」の口、西側の鬼が「吽」の口で彫られ、東西で「阿吽」の形になっている。
120トン以上もの重量が天守にのしかかっているのにも関わらず、大黒柱となる通し柱[3]が一切ないのも石瓦と並んで丸岡城の特徴の1つとなっている。代わりに、1階の身舎[4](もや)と呼ばれる部分に6本の堀立柱が組まれ、これが天守全体を支える役目を果たしている。
1948年(昭和23年)6月28日に発生した福井地震では天守が倒壊してしまい、石垣も崩壊するという未曽有の被害が出てしまうが、元あった城の建材の70%を使用して復元、石垣も現在の熊本城のように資料や写真を参考にして組み直し、1955年(昭和30年)に完全修復に成功した。このことから、「不屈の名城」としても知られている。
現在では丸岡城を国宝にしようという運動が活発化しており、「丸岡城天守を国宝にする市民の会」という一般社団法人も設立されている。
また、天守周辺には400本ものソメイヨシノが植えられており、春は薄桃色のじゅうたんから顔を出した天守の景色を見ることができる。この景色が評価され、「日本さくら名所100選」に選定されている。ちなみに福井県ではこのほかに足羽川・足羽山公園の桜が選ばれている。
そして4月には丸岡城桜まつりが開催され、多くの花見客で賑わう。
丸岡城を再現したジオラマ。 五角形のお堀が特徴的である。 |
実際に使われていた丸岡城の石瓦 |
天守は二層三階構造となっており、階によってそれぞれ違った空間となっている。
天守一階は身舎(もや)と入側(いりがわ)を配した空間となっている。身舎は20坪ほどの長方形の部屋で武者走の内側にある。構造的には四部屋の形ではあるが、敷居、鴨居、引き戸が一切入っていない開放的な空間となっている。また、この身舎中央には天守の大黒柱となっている6本の掘立柱が並んでおり、これが天守の自重を支えている。
身舎の周りに配した空間が入側で、武者走(むしゃばしり)とも呼ばれる。幅は約1.8mあり、通路状の部屋となっている。この空間には戦に関わる設備が勢揃いしており、敵を鉄砲で狙い撃つ穴となる狭間(さま)、石を落として敵を妨害する石落としの出窓を搭載している。
天守入り口前には必ず縄をつたって登らないといけないほど急な階段があり、ここから天守二階へ行くことができる。
現在では丸岡城に関する歴史資料や実際に使用された石瓦のサンプル、国重要文化財指定証書が展示されている。
狭間 | 石落とし |
天守二階への階段。どれだけ急な階段であるか一目瞭然である。 |
縄をつたって急な階段を登りきると、一階よりやや狭い天守二階が現れる。
天守二階は一階の約1/3にあたる12坪の広さしかない。また、周りに入側を擁さず、代わりに東西に破風部屋(はふべや)と呼ばれる破風[5]内を利用した狭い部屋と、南北に切妻屋根の出部屋が配されている。出部屋は戦が起きた際、ここにこもって一階から上がってきたところを襲撃する場所であったと推定されている。
また、一階にある6本の掘立柱で天守の自重を支えているため、本来あるはずの通し柱が一切が存在しない構造となっている。ちなみに四隅の柱と中央にある二本の柱は通し柱ではない。
二階にある出部屋 |
天守最上階にあたる三階は、二階と同じ広さの空間となっている。三階にも二本の柱が空間中央にあるが、二階とは繋がっていない。外壁は柱を外に見せる塗り、周りに欄干のある縁側をつけた古風な造りとなっている。長押[6](なげし)には飾り金具がついているが、天井板は張られておらず屋根の骨組みがむき出しになっている。
戦の際は物見の役割を果たしたとされ、四方の窓から越前丸岡の景色がよく見える。
北方向には丸岡藩校「平章館」を前身とする坂井市立平章小学校が見える。
西方向は三国方面となり、晴れていれば日本海が望める。またこの方面には泰澄が創建した称念寺や坂井市を代表する文人、中野重治の生家跡がある。
南方向には福井市街や永平寺方面が望め、眼下には本多家4代が祀られている本光院、有馬家が祀られている白道寺が位置する。また、応神天皇や有馬晴信を祭神とする国神神社もこの方向から見える。
東方向は勝山・白山方面となり、北陸自動車道や丸岡高等学校が見える。
北 |
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西 |
城天守 | 東 |
南 |
城主代数 | 藩主代数 | 城主名 (ふりがな) |
在任期間(在任年号) ※上段が就任年 下段が退任年 |
在任年数 | 備考及び施策 | 日本の情勢 及び出来事 |
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初代 | 柴田勝豊 (しばたかつとよ) |
1576年(天正4年) 1582年(天正10年) |
6年 | 丸岡城創建者 柴田勝家の甥 賤ヶ岳の戦い参戦 |
安土城築城(1576年) 本能寺の変(1582年) |
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2代 | 安井左近家清 (やすいさこんいえきよ) |
1582年(天正10年) 1583年(天正11年) |
1年 | 城代 賤ヶ岳の戦いののち解任 |
賤ヶ岳の戦い(1583年) | |
3代 | 青山修理亮 (あおやましゅうりのすけ) |
1583年(天正11年) 1587年(天正15年) |
4年 | 丹羽長秀支配下 | 小牧・長久手の戦い(1584年) 羽柴秀吉が関白となる(1585年) キリスト教禁教令(1587年) |
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4代 | 青山忠元 (あおやまただもと) |
1587年(天正15年) 1600年(慶長5年) |
13年 | 堀秀政支配下 関ヶ原の戦いののち解任 |
刀狩令(1588年) 小田原の戦い(1590年) 豊臣秀吉が太閤となる(1590年) 朝鮮出兵 慶長の役(1597年) 豊臣秀吉死去(1598年) 関ヶ原の戦い(1600年) |
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5代 | 今村盛次 (いまむらもりつぐ) |
1600年(慶長5年) 1612年(慶長17年) |
12年 | 北ノ庄藩支配下 久世騒動で解任ののち、陸奥平藩預けへ |
江戸幕府開府(1603年) 徳川秀忠が将軍となる(1606年) |
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6代 | 初代 | 本多成重 (ほんだなりしげ) |
1612年(慶長17年) 1647年(正保4年) |
35年 | 丸岡藩誕生 一筆啓上の手紙に登場する「仙千代」本人 大坂の陣参戦 新江用水を建設 |
大坂冬の陣(1614年) 大坂夏の陣(1615年) 一国一城令発布(1615年) 徳川家康死去(1616年) 徳川家光が将軍となる(1623年) 鎖国令発布(1633年) 島原・天草一揆(1637年) |
7代 | 2代 | 本多重能 (ほんだしげよし) |
1647年(正保4年) 1649年(慶安2年) |
2年 | 徳川家綱が将軍となる(1651年) | |
8代 | 3代 | 本多重昭 (ほんだしげあき) |
1649年(慶安4年) 1676年(延宝4年) |
27年 | ||
9代 | 4代 | 本多重益 (ほんだしげます) |
1676年(延宝4年) 1695年(元禄8年) |
19年 | 酒乱による愚政で改易 | 徳川綱吉が将軍となる(1680年) 生類憐みの令発布(1691年) |
10代 | 5代 | 有馬清純 (ありまきよすみ) |
1695年(元禄8年) 1702年(元禄15年) |
7年 | 糸魚川藩から移封 | |
11代 | 6代 | 有馬一準 (ありまかずのり) |
1702年(元禄15年) 1733年(享保18年) |
31年 | 富士山噴火(1707年) 徳川家宣が将軍となる(1709年) 徳川家継が将軍となる(1713年) 徳川吉宗が将軍となる(1716年) 享保の改革(1716年) |
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12代 | 7代 | 有馬孝純 (ありまたかすみ) |
1733年(享保18年) 1750年(寛延3年) |
7年 | 徳川家重が将軍となる(1745年) | |
13代 | 8代 | 有馬允純 (ありまますずみ) |
1750年(寛延3年) 1772年(安永元年) |
22年 | 徳川家治が将軍となる(1760年) | |
14代 | 9代 | 有馬誉純 (ありまなずみ) |
1772年(安永元年) 1830年(天保元年) |
58年 | 丸岡藩校開設 | 天明の大飢饉(1782年~1788年) 徳川家斉が将軍となる(1787年) 寛政の改革(1787年~1793年) |
15代 | 10代 | 有馬徳純 (ありまのりすみ) |
1830年(天保元年) 1837年(天保8年) |
7年 | 天保の大飢饉(1833年~1839年) 大塩平八郎の乱(1837年) |
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16代 | 11代 | 有馬温純 (ありまはるすみ) |
1837年(天保8年) 1855年(安政2年) |
18年 | 徳川家慶が将軍となる(1837年) 天保の改革(1841年~1843年) ペリー浦賀来航(1853年) 徳川家定が将軍となる(1853年) 日米和親条約調印(1854年) |
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17代 | 12代 | 有馬道純 (ありまみちずみ) |
1855年(安政2年) 1869年(明治2年) |
7年 | 丸岡城最後の城主及び丸岡藩最後の藩主 丸岡藩知事 子爵に叙爵 |
徳川家茂が将軍となる(1858年) 桜田門外の変(1860年) 池田屋事件(1864年) 徳川慶喜が将軍となる(1866年) 大政奉還(1867年) 戊辰戦争(1868年~1869年) 版籍奉還(1869年) |
丸岡城が築城されたのは1576年(天正2年)、ちょうど織田信長が越前の朝倉氏を滅ぼし、一向衆を平定した頃の時期である。築城者は、当時北ノ庄を治めていた柴田勝家の甥にあたる柴田勝豊(しばたかつとよ)である。
丸岡城には前身となる城が築かれており、その場所は丸岡町豊原の山にあったとされる。一口で城といっても一時しのぎの砦に近いものであった。その後、1576年に「まるこの岡」と呼ばれた現在の場所に本格的な城郭を築いたのである。これが、丸岡城である。
築城された背景には越前国の統一が進み、戦のための城というよりは、領内を掌握して治める城という目的があったとされる。
現在は天守しか現存しないが、築城時には広大な五角形のお堀と城郭が広がっていたとされる。
しかし1583年に柴田勝家と豊臣秀吉が対立し、賤ヶ岳の戦いが開戦する。丸岡城を築城した柴田勝豊は長浜城防衛を命じられて入城、城の防衛にあたった。代わって丸岡城には安井左近家清(やすいさこんいえきよ)が城代として命じられた。しかし戦では約2万人の大軍に城を囲まれ、戦況は悪化。最終的に勝豊は、敵武将の大谷吉継の調略によって秀吉方に寝返ったのである。
そして戦は柴田方が劣勢となり、勝家は北ノ庄(現在の福井市)まで撤退。北ノ庄城(福井城)で籠城するが、前田利家などの軍勢に包囲され、最終的には正室のお市の方とともに自害。城も焼き払われたのであった。
賤ヶ岳の戦い以降、秀吉の命によって越前国は丹羽長秀(にわながひで)が治めることとなった。丹羽長秀は青山修理亮(あおやましゅうりのすけ)を丸岡城主に置いた。そして1587年(天正15年)に子の青山忠元(ただもと)に城主の座を引き継いだのである。ここでしばし平和な世の中が続くかと思いきや、またしても日本を揺るがす大きな戦に巻き込まれるのである。
1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が争う関ヶ原の戦いが開戦。戦は東軍率いる徳川家康が勝利。1603年に家康の手によって江戸幕府が開かれたのであった。
一方で、越前国は丹羽氏に代わって結城秀康が治めることとなった。のちに北ノ庄藩が置かれ、初代藩主となった。丸岡城には家老の今村盛次(いまむらもりつぐ)が城主として置かれた。
江戸時代が到来していよいよ平静の世が訪れるかと思いきや、家臣同士の権力闘争に伴う騒動が勃発してしまうのであった。
1612年(天正12年)、秀康の死と久世領内(現在の福井市森田周辺)で起きた農民一家の殺人事件をきっかけとして久世騒動が勃発する。この騒動で今村氏は付家老の本多富正(ほんだとみまさ)と対立。事態は武力衝突や江戸へ直訴されるほど大きくなったのである。
江戸幕府も事態を重く見て裁定を実施。徳川家康や当時将軍の地位にいた徳川秀忠も立ち会うという異例の裁定となった。判決の結果、今村盛次は陸奥の磐城平藩預けとなり、本多富正は国中仕置を命じられ、今村側の全面敗北という結果となった。
1612年(慶長17年)、今村盛次に代わって本多成重(ほんだなりしげ)が4万石で丸岡城主となる。本多氏は徳川家から古くから使える家臣で、徳川配下の戦国武将で有名な本多忠勝と城主となった本多成重は家違いの親戚にあたる。
1614年(慶長19年)に大坂冬の陣、1615年(慶長20年)に大坂夏の陣が開戦すると成重も参戦し、武功をあげた。
内政では秀吉の太閤検地以来となる検地を実施し、年貢の是正を図った。また、加賀の浪士であった渡辺泉立(わたなべせんりゅう)から計画の提案を受け、「新江用水」と呼ばれる用水路の建設を1625年(寛永2年)から行った。用水は九頭竜川のある鳴鹿から約10kmもの用水路を開削するという大工事となり、4年の歳月を経てついに竣工。丸岡一帯の水田開拓に大きく貢献したのであった。成重はのちにこの功績を称えて渡辺泉立に「泉龍」の名を贈った。
また、この頃には上司である北ノ庄藩の本多忠直が幾度も幕府に歯向かう乱行策を打ち出していたため、自制役として手を焼いていた。しかし、これを無視してさらに乱行を重ねたため、見かねた幕府は1623年(元和9年)に忠直を改易ののち蟄居を命じた。
そして忠直配下であった成重は一度幕府直下の旗本を命じられるが、1624年(寛永元年)に改めて丸岡城主に任命された。また、一国一城令発布に伴って北ノ庄藩を分藩し、4万3000石で丸岡藩初代藩主に任命された。これ以降、成重は丸岡藩政に尽力し、丸岡藩は最盛期を迎えたのだった。
1645年(寛永21年)、成重は嫡男の本多重能(ほんだしげよし)に藩主の座を譲った。これ以降、本多氏藩政は成重含め4代続いた。
本多氏藩政は約90年間続いたが、4代藩主本多重益(ほんだしげます)の時に改易されてしまう。原因は酒乱による愚政を行ったことであり、これがきっかけとして家臣の間で権力内紛が起こってしまったのである。
代わりに糸魚川藩から有馬清純(ありまきよすみ)が移封され、5代藩主に任命された。
有馬氏はキリシタン大名である有馬晴信(ありまはるのぶ)から続く家系で九州の有力大名であったが、1690年に領内で発生した逃散一揆の責任を取って糸魚川藩に移封され、現在に至っている。有馬氏による丸岡藩政は8代約150年間にわたって続いたが、天明の飢饉が発生し財政状況が悪化するなど藩政は困難を極めた。
この中で、わずか4歳で藩主となった14代藩主の有馬誉純(ありまなずみ)は、学問を奨励し、博学な人材を育成することで藩政立て直そうと図った。その1つに丸岡城と隣接する地に丸岡藩校「平章館」を設立し、将来の人材育成を充実させた。これが現在の坂井市立平章小学校であり、創立年としては国内で3番目に古い小学校である。ちなみに2020年の時点で創立216年を迎えている。また、誉純自身も勉学に励んで藩政に臨んだ。これが評価されて幕府の奏者番や若年寄に抜擢されるなど大出世を遂げている。
そして、地元の豪商である加島屋の協力を取り付けて、藩の負債返済に尽力。見事完済し、丸岡藩の財政はみるみる息を吹き返していったのである。
そして8代藩主有馬道純の時に明治維新を迎え、道純は藩知事となった。廃藩置県後は藩知事を免じられ、子爵を叙爵した。
一方で丸岡城は廃城となってしまい、特徴的だった五角形のお堀は埋め立てられ、再利用できそうな城の建材は民間に売却されて解体されてしまうが、天守だけは再利用できる部材が少なかったため、破格の価値で売り出された。ここで、地元有志の人々が丸岡城について調べると、現存する城郭で最古の天守であることが判明し、価値が再評価された。そして地元有志達が天守を買い戻し、丸岡城保存に乗り出したのであった。
そして、1901年(明治34年)8月に丸岡町によって町有化された。
そして、大正・昭和期に入ると明治の丸岡城保存運動の甲斐も実り、1934年(昭和9年)1月30日に旧文化財保護法の下で悲願の国宝に指定され、丸岡町を代表する文化財となったのである。ちなみに現在でもこの時に授与された国宝認定証が天守内に掲示されている。また、1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)にかけて第二次世界大戦が勃発したが、空襲被害も受けず運よく被災も免れたのであった。
しかし、ここで福井県全域を揺るがす大災害が発生する。
1948年(昭和23年)6月28日、マグニチュード7.1、当時の震度階級で最大震度6の福井地震が発生。福井県や石川県に大災害をもたらした。この地震で死者は3000人以上、負傷者は2万2000人以上にのぼり、3万6000戸が全壊する当時としては未曽有の大災害となった。
また、この地震で丸岡城天守が倒壊。石垣も一部崩壊するという前代未聞の被害を出した。
もはや丸岡城は元通りに復元できないのか…当時の人々が意気消沈する中、1人の男が立ち上がった。
友影顕世(ともかげけんせい)、当時の丸岡町長である。顕世は町長としての責任と使命を強く認識し、丸岡城完全修復に乗り出した。この時、79歳であった。
具体的に取った策は、まず上京して国の文化財保護委員会に復元再興を陳情。また、北海道や関東など全国をまわって再建費用の調達に尽力した。また修復にあたっては、1942年(昭和17年)の修復の際に修復工の竹原吉助によって作成された調査報告書が参考にされた。
また、再建活動中の1950年(昭和25年)に、現在の文化財保護法の施行に基づいて国重要文化財に指定されたのであった。
そして1955年(昭和30年)3月、丸岡城天守と石垣は、元あった城の部材70%を再利用して完全復活を遂げたのであった。のちに顕世は名誉町民賞が贈呈された。また、丸岡城天守そばには、友影顕世の銅像が建てられた。
ちなみにしゃちほこはこの時に取り替えられ、現在の木彫銅板張りのしゃちほこになった。そして、震災前の笏谷石のしゃちほこは現在の場所に降ろされ、文化財として展示されている。
こうして奇跡の復活を遂げた丸岡城は、1990年(平成2年)に日本さくら名所100選、2006年(平成18年)に日本100名城に指定され、町の一大観光スポットとして成長を遂げる。
また、2006年(平成18年)に丸岡町は三国町、坂井町、春江町と合併し坂井市が誕生。丸岡城は坂井市管理となった。
そして、2015年(平成27年)に同じ現存十二天守の松江城が国宝指定を受けると、丸岡城でも2016年から国宝指定を獲得するための運動が展開され、市民の会が設立された。2017年には法人化され、一般社団法人「丸岡城天守を国宝にする市民の会」が設置された。市民の会では丸岡城に関する資料の捜索や調査を行い、丸岡城のデータベース強化に尽力。国宝指定を受けるための根回しを進めている。
丸岡城は「日本最古の現存天守」がある城として全国的に有名だが、実は最新の研究で本当は日本最古の現存天守ではなかったという事実が明らかになってきている。
これは坂井市教育委員会が実施した約4年に及ぶ学術調査で明らかになったもので、2019年(令和1年)に公表された。
ここで従来の説を振り返ると、織田信長が越前の一向一揆平定後、柴田勝家の甥である柴田勝豊が周辺の防衛の要として1575年(天正2年)に丸岡城を築城したとなっている。
しかし市教育委員会が発表した説によると、江戸時代の寛永年間にあたる1624年~1644年頃に築城したのではないかとされている。この説の決定的証拠として、市教育委員会が委嘱した福井工業大学客員教授の吉田純一会長からなる「丸岡城調査研究委員会」が天守の部材を採取して年輪や放射性炭素濃度、酸素同位体比から年代調査した結果が公表され、ほとんどが1620年以降に伐採された木から造られた部材であると推定されたのである。
ちなみに市教育委員会が発表した寛永年間に築城した説を上記の歴史と照らし合わせるとちょうど本多成重の代であることが分かり、現在残っている天守も柴田勝豊ではなく本多成重が築城したのではないかと推定できる。
ただ吉田会長によると、あくまで天守側の建造年が寛永年間で、その基礎となる石垣は戦国時代に多用された野面積み形式になっていることから「前身となる天守が存在した可能性が高い」と指摘している。しかし構造的に重要な役割を果たす通し柱は、上記年代調査で1626年以降に伐採された木材であるという判定が出たため、前身の天守を改修したのではなく寛永年間に新たに築城された可能性が高いという見解を出している。
2016年から国宝指定を目指している丸岡城にとってこれは大きすぎる衝撃事実となってしまったものの、吉田会長は戦国時代の城郭に多く採用された望楼型天守が江戸時代初期に造られたという事実に触れ、「建築様式が移り変わる時期に、(当時としては古い様式の)望楼型で建てられたことは逆に意義がある」と述べている。
丸岡城には、愛称として「霞ヶ城」(かすみがじょう)の名前が知られている。この名前には由来となった場所があり、それが丸岡城天守そばにある井戸で、この井戸にまつわる伝説がその由来の根拠となっている。
そもそも丸岡城は、1575年(天正3年)に織田信長が越前の一向一揆を平定後に防衛のために柴田勝豊が築城した城で、築城後もたびたび一向一揆の残党が丸岡城に攻撃を仕掛けることが多かった。
しかし、この井戸の中から大蛇が現れて、城に「かすみ」をかけて城の姿を敵から見えなくし、城の危機を救ったという言い伝えがある。この「かすみ」から「霞ヶ城」と名付けられ、現在では「かすみ」の対象が桜へと昇華され、全景を霞ませるように満開の桜に包まれた丸岡城天守の景色が「霞ヶ城」の愛称とリンクしている。
日本のお城の中には郡上八幡城や彦根城、吉田郡山城のように人柱を擁したという言い伝えが残る。丸岡城もその一角とされ、「人柱お静」という伝説が残っている。
これは丸岡城築城の際、天守閣石垣が何度積んでも崩壊する事態が起きたため、人柱を擁して建てようと進言するものがあった。この進言は受け入れられ、人柱にお静という女性が選ばれた。お静は片目姿のいで立ちで、二人の子供を抱えて貧しい生活をしていた。
お静は一人の子を侍にしてもらえるよう取りはからうことを条件に人柱になることを決意。天守閣の中柱の下に埋められたのであった。それから丸岡城は完成したが、ほどなくして城主の柴田勝豊が移封されてしまい、お静の子は侍になれなかった。
お静の霊はこれを恨み、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀は水があふれた。人々は「お静の涙雨」と呼んで、丸岡城にかけられたお静の呪いとして恐れた。そして丸岡城天守そばに小さな墓を建て、お静を慰霊したのである。
現在では天守そばにお静の慰霊碑が建てられて、人柱お静伝説を伝える碑文とともに祀られている。
また、俗謡に
という一文が伝わっている。
丸岡城の現在のしゃちほこは三代目にあたり、木彫銅板張りで造られたものを屋根に掲げている。福井地震で天守が倒壊する以前は、石瓦と同じ笏谷石から切り出して造られたしゃちほこ掲げていたが、地震発生後に屋根から落下し破損。現在は、修復されて貴重な文化財として天守入り口前に安置されている。
また初代にあたるしゃちほこは現在と同じ木彫銅板張り製で、三代目はこのしゃちほこを踏襲して造られている。1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)に行った天守大修理の際に二代目の笏谷石製のしゃちほこに替えられた。ではなぜ笏谷石のしゃちほこに替えたのか。その理由は、第二次世界大戦の影響が関係しており、当時は銅板の入手が困難であったため、やむなく笏谷石のしゃちほこを屋根に掲げたわけである。
丸岡城城主の1人で初代丸岡藩主の本多成重といえば、「一筆啓上」で知られる本多重次(ほんだしげつぐ)の日本一短い手紙の文中に登場する人物として知られている。
父親にあたる本多重次は、戦国・安土桃山時代に活躍した徳川家家臣の武将で、「鬼作左」の異名で知られる猛将である。この手紙は1575年に開戦した長篠の戦いの陣中から幼少期の成重を子守していた妻に宛てられたもので、このように書かれた。
一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ
この文中に登場する「お仙」[8]こそが、のちの本多成重のことであり、重次からどれだけ寵愛されていたかうかがい知ることができる。
ただ、この手紙は残念ながら現物が発見されておらず、その手紙が書かれたことを示す資料が現存するのみである。
なお、丸岡城には天守そばにこの一筆文が書かれた句碑が安置されており、「一筆啓上碑」と呼ばれている。また、お城付近には2015年(平成27年)に開館した「一筆啓上 日本一短い手紙の館」があり、この手紙に関する資料が常設されている。
また、1995年から公益財団法人「丸岡文化財団」が主催する「一筆啓上賞」というコンテストが毎年開催されている。
このコンテストは、発表されるテーマを元に1字から40字以内で誰かに宛てた手紙を作成して応募するという内容のイベントで、厳正な審査ののちに優秀作品に選ばれると、大賞にあたる「日本郵便株式会社 社長賞」、次点賞にあたる「日本郵便株式会社 北陸支社長賞」、ほか「住友賞」と「坂井青年会議所賞」、「佳作賞」のいずれかが贈呈される。
丸岡城は明治から昭和にかけての近代文化人にも愛され、俳句や著書などにも登場している。この中で三国町出身で高浜虚子の写生分「虹」のヒロインとして有名な俳人の森田愛子は丸岡城を見てこのような俳句を残している。
この俳句は春の丸岡城の様子を見て詠ったもので、「花曇」は3月下旬~4月上旬頃の春の曇り空を表す季語となっている。この俳句は天守の中の暗さや雰囲気をその曇り空の風景に例えて表現している。また、「花曇」は丸岡城の愛称である「霞ヶ城」と意味がかけられており、春の丸岡城を表現した素晴らしい俳句となっている。
他にも中野重治の著書「無骨なやさしさ」や司馬遼太郎の著書「街道をゆく 越前の諸道」にも丸岡城にまつわる談話が登場し、数多くの文化人が丸岡城の天守を訪れて著書に城の印象を書き残している。
丸岡城では、御城印の販売を行っている。御城印とは日本全国の城郭で販売されるいわば「お城の御朱印」のようなもので、お城ごとに違ったデザインが楽しめ、お城マニアの間で収集対象の1つとなっている。
丸岡城では御城印が2種類あり、1つは城主となった柴田氏、本多氏、有馬氏の家紋の御朱印を背景にあしらい、筆字で「国重要文化財 丸岡城」で書かれたタイプ、もう1つは、筆字で本多重次の一筆啓上の手紙文が書かれた御城印を販売している。また、右写真のように期間限定で限定デザインをあしらった御城印を販売している。写真の御城印は2020年9月限定で販売されたデザインで、菊や赤とんぼ、満月の夜空など秋を思わせるようなデザインとなっている。
期間限定版御城印の販売期間の告知は、公益財団法人の「丸岡文化財団」が公式サイト上で告知している。
坂井市丸岡観光協会主催で、毎年4月上旬から中旬にかけて開催されるイベントで、福井県屈指の春のまつりとして人気を呼んでいる。
祭り名の通り、開催時期は丸岡城のソメイヨシノが開花する時期にあたり、満開になると愛称の「霞ヶ城」の通りに桜で霞んで見えなくなるほど包まれた丸岡城の全景が楽しめる。
そして桜まつりではお城と桜のライトアップが行われ、夜空に映える白壁と薄ピンク色の景色が訪れた人々を魅了する。
10月第2週に開催される祭りが丸岡古城まつりである。この祭りはお城のみならず丸岡の街一帯を封鎖して行われる一大祭りで、メインとなる「時代行列」(五万石パレード)を中心に、「総踊り」や「丸岡藩鉄砲隊演武」、「おじゃれ餅まき」などさまざまなイベントが開催される。
大人 | 個人 | 450円 |
---|---|---|
団体 (30名以上) |
360円 | |
小人 (小・中学生) |
個人 | 150円 |
団体 (30名以上) |
120円 |
※「・・・〇〇」の付記は各見出し名に対応する。
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最終更新:2025/02/07(金) 12:00
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