九五式軽戦車 単語

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九五式軽戦車とは、大日本帝国陸軍が保有し日中戦争WW2で使用された戦車である。

概要

大日本帝国陸軍の最多量産戦車として知られる軽戦車である。例によって開発当初の世界的趨勢には追随し、かつ機動性の高い戦車として実戦部隊からは高く評価されたがWW2における戦車恐竜進化によって旧式化を余儀なくされた車輌でもあった。

開発の経緯

八九式中戦車の配備(1929)によってひと通りの戦車開発にめどがついたと思われた大日本帝国陸軍であったが、1930年代大陸での運用実績において八九式中戦車は重大な問題を抱えていることが認識された。すなわち機動の不足である。日本陸軍戦車部隊の創立当初から他に倣って軽戦車・中戦車・重戦車の3種類を保有することを想定していたが、1930年代日本軍が戦った実際の戦場、すなわち中国大陸においては機動に長けた軽戦車の果たすべき役割が大きかったのだ。八九式中戦車も当初は諸外戦車開発の趨勢と自の使用的を鑑みつつ軽戦車として開発されたが結局軽戦車に収まりきらなかったという経緯があり、また設計も古く地形追従性はともかくとして最高速を出すには向いていない足回りであった。八九式中戦車開発当時はそれでもよかったのだが、1930年代に入り日本陸軍も物資・兵員輸送用にトラックを使うケースが増えてきて「戦車トラック装甲車についていけずおいてけぼりにされる」「戦車が足手まといになる」事例が多発してきたのである。そもそも10トン越えの重である八九式中戦車100ちょいのエンジンでは非力が否めず、不整地での速は徒歩の人間と大差ない域にまで落ち込んでしまうこともあり、「軽戦車」の本領である突破・追撃戦に用いるにはやはり理があったと言わざるを得ない状況が発生していた。

そこで八九式中戦車の後継戦車として、八九式では達成できなかった機動を最重視する追撃用戦車がまず整備され、後に直接的な八九式の後継となる機動も備えた歩兵支援戦車開発・配備するという流れが生まれている。前者が九五式軽戦車、後者が後に九七式中戦車として結実することとなり、この両者が神武以来最大の外戦における日本軍戦車としてWW2に臨むこととなったのであった。余談ながらこのコンセプトは時期的にちょうどドイツⅢ号戦車Ⅳ号戦車の立ち位置に非常に似通っていると言えなくもないが、通信機の備による間・内の連携と五人乗による戦闘フル発揮といういっちゃん重要な部分は重量制限の問題でどーにもならんかったりする。残念

装備と能力

に選定されたのは九四式三十七mm戦車。37mmという口径自体はこの時代の戦車として一般的なものだったが、同じ制式年度の九四式三十七mm、通称「速射」とは発射される弾体こそ共通でもサイズがまるで違い(=発射の量が違う)、口初速も2割ほど差が出てしまった。運動エネルギー速度の自乗に例するため、貫でみると1.5倍ほどの差になってしまうため後に速射と同じ弾を使えるように室を拡大した九八式三十七mm戦車開発され、本の後期生産に搭載されている。日本軍の使用した徹甲弾は、諸外同様基本的に炸を中に詰めた甲榴弾であったため、弾芯まで金属が詰まってる純徹甲弾AP)と較すると厚い装甲に当たった際に表面で砕けてしまいやすく、後に米軍戦車と戦う際に威不足を叫ばれることとなってしまった(そのぶん、貫できた後の内部破壊は通常のAP弾をはるかに上回る)。

因みに、通常徹甲弾甲榴弾じゃないのは、イギリスの2ポンくらいのもので日独ソの戦車に使われる徹甲弾は全て甲榴弾であった。加えて、甲榴弾は貫しきれなかった場合、装甲に侵して起爆するため撃ち抜けなかった場合でも内部に被害を与えやすいという特徴がある。量の非常に少ない37ミリ弾に一体どれほどの侵起爆効果があるのか甚だ疑問だが・・・

副武装としては後部と体前面に一丁ずつ機関銃が装備されているが、この装備方法は車載機関銃を一種の狙撃銃のように使うのには向いていても標地域を照準におさめ続けるのには向いておらず、射撃が中断しやすい弾倉式装填であることも重なって歩兵の制圧が不得手な性格をもってしまい、後年バズーカなどの強な対戦車火器を運用するようになった歩兵相手に対して次々と損を重ねてしまった。

エンジン八九式中戦車と同じディーゼルエンジンを用いており出も変わらない。路上最高速度40km/hは制式化当時の日本軍にとっては画期的な快速戦車であり、かつ運用性も高かった。後のWW2序盤の南方侵攻作戦においてその戦術・戦略機動性の高さは遺憾なく発揮され、マレー戦で1100kmを実戦で走破してわずか1週間の軽整備のみでスマト攻略戦に投入されさらに1000kmを走行する酷使をうけても中隊全が落せずに行動し抜いたケースなどもみられる。

これらの結果は設計時の想定通りのものであったが、それは現場からの「重量6トン前後に抑えるべし」という要をまあなんとか実現できたからにほかならない。八九式中戦車の12トンという重量は正直なところインフラ整備の遅れた極東と工兵限界のある日本軍(まあ、無限工兵持ってるのはアイツらくらいだしさ、そうアイツらだよアイツら!)では実戦で負担が重く、使いやすい戦車が何よりめられたのである。で、そのしわ寄せは装甲重量の削減で対応するしかく、本の装甲は基本的に最も厚い部分でも12mmしかない。この厚みはもちろん対戦車を防ぐなど不可能であり、7.62mm口径の小銃機関銃徹甲弾に耐えることを的とした装甲厚である。ほぼ全周にこの厚みをり巡らせてはいるが、部分的により薄くなっている所もありそうした場所を中華民国軍が多用した7.92mm口径の銃器に貫される事例も多かった。そのため量産が進む中、側面に増加装甲としてり出し部を設けるようになっている。この装甲厚で充分かといわれると現場でも疑問のはあり、歩兵科系列の戦車部隊においては「せめて前面30mmはないと対戦車で即死やん、作る価値ないでぇ」とツッコミもあったが、騎兵科系列では「それで速度落ちて足手まといになったら作る意味ないやろ、撃たれんとこに移動する速カバーすればええんや」という結論になっており結局後者が通ったカタチになっている。

生産と戦歴

皇紀2595年(1935年)に制式化された本は、八九式中戦車こと「イ号」、九五式重戦車こと「ロ号」[1]に続く「ハ号」と通称される。制式の翌年から本格生産がスタートするが、生産ペースは意外と日中戦争戦後もなかなか上がっておらず、本格的に生産ペースがあがるのは1940年に入ってからである。1943年には戦局の推移から軽戦車の生産が手控えられるようになったため生産は1943年いっぱいで終了したが、総生産数2375両は日本戦車生産史上最多となっており、このうち2000両以上が1939年WW2勃発以降の生産である。後継となったのは九八式軽戦車……と言いたいところだが数的に本を後継する軽戦車は現れずじまいであった。九八式軽戦車から二式軽戦車へと続く「軽戦車」としての進化が実質意味と認定されてほとんど生産されなかったのもやむなしかもしれない。「軽戦車」のの中でのショボい進化のために生産量落とすよりも「一両でも多く九五式軽戦車作れよ」っていうほうが現場のホンネだったし。

その一方で九五式軽戦車のバリエーションはなかなか豊富であり、強引に九七式中戦車を載せてみたらに入った人が動けなくなった「三式軽戦車」、体切り開いてリングを拡大し九七式中戦車をそのまんま載せた「四式軽戦車」、満州の畝対策として小転輪を追加した「九五式軽戦車北満」、だけ九八式軽戦車二式軽戦車のものを積んでみようという計画、上部構造ぶった切って日露戦争時の旧式である三八式十二榴弾オープントップで搭載した「試製四式十二自走砲」、とっぱらって体前面に一式中戦車の備である一式四十七戦車を装備した「試製五式四十七自走砲」等々様々なバリエーションが考えられていた。また海軍戦隊の「特二式内火艇」も本ベースとして開発された車輌の中に含まれる。

さて、本の初の本格実戦となったのは1939年ノモンハン事件。両軍ともに火力が相手方の装甲を上回る戦いであり、質において圧倒的に勝る日本側は猛訓練によって会得した以心伝心の三両一組のフォーメーション戦術で格上の戦車であるBT戦車T-26を撃破している。通信機も五人乗無敵皇軍には不要なのだ!ワハハハ!だが、物量においてさらに圧倒的に勝るソ連軍の前に損も大きく、虎の子である戦車部隊期に撤収されてしまったのであった。後に残された「速射部隊の獅子奮の戦いぶりは両軍から高く評価されたのだが、まあそれは別の話。

次の本格実戦は意外なことに日本ではなく、タイに輸出された九五式軽戦車のものである。タイは以前にフランスによる恫で割譲せざるを得なかったメコン川西地域を、日本軍の北部印進駐を期に奪還すべく(あと、南部まで日本軍が進駐したら奪還のチャンスなくなるし……)進撃を開始、ここに始まったタイ印紛争で九五式軽戦車が実戦に投入されたという。しかしこの件は活躍よりも、気のために部装甲にひび割れが生じてクレームがつけられたという挿話のほうが日本では有名だったりするのがなんともかんとも。ちなみにこのタイ印紛争はタイ側の海軍旗艦「トンブリ」が失われる等かなりしいものになったのだが、そもそもこの時期の世界情勢においてタイフランス(そう、既にヴィシー・フランスである)がドンパチやらかすのは枢軸三大日本にとってデメリットしかなかったため日本が仲介に乗り出す形で講和が結ばれている。まあタイ側の要丸呑みさせただけなんだけど。

WW2においての九五式軽戦車の最大の宿敵となったのは英軍装備のM3軽戦車であった。前身となるM2戦車が九五式軽戦車と同世代(とはいえ、重量は11トン越えるけど……)であり、ドイツフランス侵攻からの戦訓も踏まえて作られた一世代新しい戦車は九五式軽戦車にとっては分の悪い相手としか言いようがない。正面装甲は40mmから50mmと九五式軽戦車のみならず当時の日本戦車の武装での貫困難で、口初速900m/secに迫る高初速の37mm日本戦車の装甲を遠距離からでもやすやすと貫してくる威。鍛えに鍛えぬいた中の人の実差をもってしても対抗は困難で、現場では体当たり戦術まで駆使しての対応を迫られた。しかし南方作戦そのものは日本の圧勝に終わったのは、の戦いにおいて日本側が圧倒していたこと、そして陸軍が育ててきた戦略機動に長けた軍編成がうまく機したことで戦術的規模での戦優越を実現させていたからにほかならない。英側が充分な守備体制をとる間も与えずに長駆し敵を討つ、その戦いはまさに中国大陸における快進撃の再演であり、持ち前の機動の高さを存分に発揮した九五式軽戦車はかつてその快進撃についていけずに足手まとい扱いされた八九式中戦車念を見事にらしたといえようか。

大戦中盤以降、側はM3中戦車M4中戦車といった75ミリ戦車を次々と戦場に送り込み、歩兵にすら強な対戦車火器・M1戦車ロケット発射器、通称「バズーカ」をもたせるに至った。空海での圧も加わって守勢を強いられる日本側にとって、機動だけが売りの九五式軽戦車が大きな働きをできるという期待もできず、かといって現地部隊にとって使える一のAFVが九五式軽戦車だけというケースも多発。敵わぬと知りつつも敵を迎え撃つために出撃していった九五式軽戦車のほとんどはなすすべもく撃破されていった。

余談

敗戦時に外地にあった九五式軽戦車はそれぞれの統治機構に引き渡され、中国大陸では共内戦の両軍に用いられたことが確認されている。また印では増加装甲を施されて現地の独立運動への武鎮圧に投入されたことが知られている。

日本国内においては敗戦時に400両を越える数の九五式軽戦車が残存しており、その大部分は解体された。しかし一部の車両は武装を撤去された後に重な汎用動車両として余生を送ることとなり、あるものは寒を巡るとして、あるものは工場内で資材を運ぶ牽引、またあるものは土地を均し人間活動の基盤に変えるブルドーザーとして戦後の第一歩を支える大切な役割を果たしたのである。

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関連項目

脚注

  1. *日本戦車記事 ロ号車は九五式重戦車exit. 九二式重装甲車をロ号とする説もある。
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