九五式軽戦車 ハ号の後継として開発された軽戦車で、九五式軽戦車と比べて砲性能、防御力、機動性など全体的に性能が向上しているのが特徴。日本軍初の主砲同軸機銃を採用した戦車でもある。
九五式軽戦車を全てにおいて上回る性能の軽戦車を目的として、1938年に「ケニ車」の秘匿名称で開発を開始。日野自動車(当時は東京自動車工業)と三菱重工の2社に試作車が発注され、翌年には試作車が完成。日野自動車の試作車は「ケニA」、三菱重工の試作車は「ケニB」と呼称された。
両車の外見上の大きな違いは足回りで、ケニAが従来のシーソー式の小型転輪を片側下部に6輪、上部に3輪配置した前輪駆動だったのに対し、ケニBは新型のクリスティー式の大型輪転を片側に4輪配置した後輪駆動となっており、最高速度は55km/hであった。
試験の結果、日野自動車の「ケニA」が採用され、九八式軽戦車として制式化された。
武装は従来よりも初速が速く、攻撃力が若干向上した一〇〇式37mm戦車砲を主砲に採用。
副武装として7.7mmの九七式車載重機関銃を1丁、日本戦車初となる主砲同軸に装備し、敵歩兵への即応性が向上した。
エンジンは新設計された130馬力の統制型一〇〇式直列6気筒空冷ディーゼルエンジンを搭載。最高速度は50km/hに向上した。
車体は従来よりも小型かつ軽量となった。これはエンジンを横置きとすることで全長を短縮、プロペラシャフトを車体左方に通すことで戦闘室を低床にし、全高を抑えることができたおかげもある。
装甲板は九五式よりも若干厚い最大16mmとなり、組み合わせには溶接を多用、避弾経始の為に砲塔を円錐型のものに変え、車体上部も傾斜をつけたデザインとすることで防御力が向上した。また、足回りのコイルスプリングも損傷を防ぐ為、車内に納める形の内装式となっている。
乗員は車長、操縦手、機関銃手の3名。主砲同軸機銃の採用に伴い、機関銃手が車長と共に砲塔内に配置され、ただでさえ狭い円錐形の砲塔内に2名が収まる形となり、居住性は悪化した。
なお1941年頃、軽戦車にも対戦車能力の向上が希望されたため、九七式中戦車にも搭載された一式47粍戦車砲の搭載試験が行われている(試験の為に専用の小型砲塔が用いられた)。試験結果は砲塔が狭く砲操作が困難であるとされたことと、軽戦車自体の戦術的価値の低下、更に中戦車への搭載が優先されたため、その時点で採用されなかった。
(その後、第二次世界大戦末期にあたる1945年頃に火力強化案として復活することとなる。)
九五式より基本性能の優れた九八式であったが、時に支那事変の真っ最中であり、需要が多く、生産性も高く、生産ラインの整っていた九五式の増産が優先された結果、生産開始は1942年にずれこんでしまう。
そもそも陸軍の優先順位は戦車より航空機であり、同年、改良型の二式軽戦車が登場したことや、対戦車戦闘能力のある中戦車の需要増もあり、1942年に24両、1943年に89両の計113両が生産されるに留まった。
生産された車両は内地に配備され、本土決戦に備えて温存されたまま終戦を迎えることとなる。なお、現存車両は存在が確認されていない。
掲示板
22 ななしのよっしん
2018/08/14(火) 07:21:05 ID: MV3cue+zcJ
>>21
ロケ車もケニも作ったのは同じ東京自動車工業(いすゞと日野に分かれるのは1942年)なんですが・・・
23 ななしのよっしん
2018/12/13(木) 00:59:03 ID: VkJlKEzQEO
>>18
その燃料噴射装置のライセンス生産の結果が、合格率10%なんだよ
もともと日本では手に余る代物だったから改めて工作機械を取り寄せる予定だったんだが、独ソ戦開始でパーになったとさ
http://s
んで、しゃーなく急遽国産機械での生産方針をに切り替わったものの、製品の検査合格率が5〜10%の状態が長らく続くような有様だったといすゞディーゼル技術50年史にある
24 ななしのよっしん
2018/12/23(日) 06:39:47 ID: MV3cue+zcJ
>>23
その不合格の部品をヤスリかけて修正して合格品とあわせて使ってなかったっけ?
修正した部品でも作ってた事は確かなんだし「量産が不可能」とは言えないんじゃね?
「量産性が低い」って言うならわかるけど
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最終更新:2025/12/09(火) 16:00
最終更新:2025/12/09(火) 16:00
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