九条兼実(くじょう かねざね、1149~1207)とは、平安時代後期~鎌倉時代前期の貴族・歌人である。
藤原忠通の六男。九条良経の父で、慈円の同母兄。九条家の祖。日記「玉葉」の作者としても知られる。
幼少期から学問に長じ、有職故実の才能に優れた。父・忠通からも期待を寄せられ、一時は嫡男・近衛基実ではなく、兼実を後継者にも考えていた。しかし、忠通自身がかつて父の藤原忠実に疎まれ、寵愛を受けた異母弟の藤原頼長に氏長者を奪われたことが保元の乱の一因となり、藤原摂関家の衰退に繫がったことから、兼実に氏長者を譲ることを諦めたと言われる。忠通の死後間もなく内大臣に任じられ、翌々年には18歳の若さで右大臣となった。
兼実は20年にわたり右大臣を務めたが、この間はあまり表舞台に現れず、ひたすら日記「玉葉」の執筆に勤しんだ印象を受ける。大河ドラマ「平清盛」では、清盛率いる平氏を敵視する異母兄・松殿基房の文字通り弟分のような役割だが、実際には基房とは一定の距離を置き、中立の立場を貫いていた。「玉葉」では、平氏一門や彼らを追い払った木曾義仲の専横を苦々しく思って批判しているが、それらを直接政治的発言にすることは無かった。基房が清盛と正面から対立して左遷され、義仲が京を占拠するとこれに接近するが、義仲が敗死するとその巻き添えを食って没落したことを考えると、むやみに朝廷内部の権力争いに加わるのを避けたと思われる。当時兼実は、しばしば病と称して引き籠もっていたが、これは基房のように害が及ばないために仮病を装った可能性が高い。また、兼実は清盛だけでなく、後白河法皇の院政にも批判的であり、法皇やその院政の中心となる左大臣の藤原経宗からとは対立関係にあった。こうした背景もあり、兼実は雌伏の時を過ごしていた。
1186年、兼実は近衛基通(近衛基実の嫡男)の失脚に伴い、遂に後鳥羽天皇の摂政、そして氏長者となる。前年には源頼朝の政治的圧力により全国に守護・地頭が設置されて、鎌倉幕府が事実上成立。その分、後白河法皇の権威が弱体化し、藤原経宗も前年から辞職願を出すなど一線を退いたこともあり、兼実が朝廷内の発言力を急速に高めた。兼実は、かねてから源頼朝と親睦を深め、頼朝の朝廷工作を影で支援し、後白河法皇の亡くなった直後に頼朝の征夷大将軍宣下が行われたのも、兼実の働きによるところが大きい。
ところが、次第に頼朝との関係に軋みが生じてくる。頼朝は娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させようと、後白河法皇の寵姫だった丹後局に接近。しかし丹後局は、兼実の政敵である土御門通親と手を組んでおり、兼実は娘の任子を後鳥羽天皇の中宮として既に入内させていたことから、頼朝にとって兼実は邪魔な存在となっていた。頼朝が大姫入内の工作を始めるため京に上洛した際、彼は手のひらを返すように兼実を冷遇している。一方兼実も、有職故実に基づき厳しい裁断を行っていたことから、次第に朝廷で孤立していく。そして、任子が後鳥羽天皇の皇子を産めなかったという弱みを通親につけ込まれた兼実は、遂に関白の座を追われて失脚。この事件は、建久七年の政変と呼ばれる。彼の急速な没落は、その経緯も含めて約40年前に政治の中枢を追われた叔父・頼長の追放劇とよく似ており、彼がその後政治の表舞台に立つことは無かった。結局その後、頼朝は幼い頃に許嫁を殺されてヤンデレと化していた大姫が衰弱死、直後には頼朝の協力者ながら兼実とは仲が悪かった公卿の一条能保も病没、そして頼朝も間もなく落馬事後が原因で急死し、頼朝の大姫入内計画は大失敗に終わった。兼実を見捨てた代償はあまりにも大きかったのである。もしかしたら、裏切られた兼実の生き霊にでも取り憑かれたのかもしれない。
晩年の兼実は、失脚の追い打ちをかけるように相次ぐ不運に見舞われた。妻の死で世を儚んだ彼は、法然に帰依して出家。長男の九条良通が早くに亡くなったため、宿敵・通親の死によって政界に返り咲いて摂政となった次男の九条良経に望みを託した。しかし、良経は突然急死、何者かに暗殺されたと噂された。このショックで気落ちしたのか、彼は良経の忘れ形見・九条道家の行く末を案じながら、良経の急死した翌年、その後を追うようにして失意の中で病没した。
平氏や源氏そして自分自身の興亡を身を以て体験した兼実だが、単に政治家としてだけでなく、その一部始終を記した日記「玉葉」を書き残した功績も非常に大きい。当時の代表的な歴史史料には他にも「吾妻鏡」が有名だが、後世、北条氏に都合良く編纂された書物でもあるため、記録の全てが信頼できるとは限らない(頼朝の死などは曖昧にされている)。歴史書や軍記物語に比べて日記は今ひとつ地味な印象を受けるが、長期間リアルタイムにわたって書かれているため、信憑性という点では歴史史料の中でもトップクラスの価値を持つ。「玉葉」は兼実が16歳の時から、失脚後の52歳になるまで30年以上にわたって書かれたものであり、平家の衰亡や鎌倉幕府の黎明期を知るには欠かせない史料である。若い頃は目立った政治的発言を行わなかった彼は、日記に平氏や木曽源氏の横行の鬱憤を晴らすかのように批判している。ある意味、日々の出来事や不満をブログにぶちまける現代人と、考えていることは同じなのかもしれない。そして、土御門通親に敗れて失脚した時は気力を失ったのか、日記の更新をほとんどしなかった点も興味深い。
父・忠通、子・良経、弟・慈円がいずれも百人一首に名を残す中、百人一首の選考にこそ漏れてはいるものの、兼実自身も優れた歌人であった。勅撰和歌集にも60近くの和歌が入選しており、たびたび歌合わせの主催者ともなった。若い頃は藤原清輔に師事したが、清輔の死後はそのライバルである藤原俊成と親睦を深め、俊成とその子・藤原定家のスポンサーになってこれを支援した。さらには、子の良経を俊成・定家の元で和歌を学ばせている。この関係で、定家は兼実の宿敵である土御門通親と対立関係にあったと言われている。
掲示板
7 ななしのよっしん
2022/04/10(日) 17:31:17 ID: iWGcTS4ilA
デデーン❗️九条、タイキック❗️
https://
8 ななしのよっしん
2022/07/14(木) 09:53:53 ID: JIzq9+QWxq
功罪毀誉褒貶あるが、やはり玉葉を後世に残したのは偉大だと思う。
ただ、ごっしーと清盛に対しての再三のネガキャンはどうも頂けない。
ま、人間的に反りが合わない者たちを同じ職場に置くとこうなる。といういい見本か…。
9 ななしのよっしん
2022/08/07(日) 11:37:37 ID: Ry/as3gSvf
ネガキャンの意味も知らずにこういう180度的外れな事を書く奴最近増えたよね
古くからの日本語だけじゃなく、カタカナ語も正しく理解して正しく使おうな
急上昇ワード改
最終更新:2024/09/18(水) 20:00
最終更新:2024/09/18(水) 20:00
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