九条稙通単語

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九条稙通1507~1594)とは、戦国時代公家である。

概要

端的に言うと九条政基の孫。三好政権に与し、足利将軍とは敵対したが、最終的に三好義継らを引き連れ足利義昭に与同し、九条の復権につながった。

ここまでのあらすじ

藤原兼実に始まる九条藤原氏の嫡流こと九条九条鎌倉幕府と朝廷相手に大立ち回りしたことは置いておいても、宮騒動と建長政変で九条が失脚したことから九条二条一条の三が分かれた。

以後南北朝時代の傍ら当の死没が相次ぎ、九条経教の代、その三男・九条の代と二代続けて相続に問題が出る。九条の後、同時代史料を見る限りは孫・九条九条政忠)が継いだようであるが、故関白の遺命というふわふわした理由で九条政基がこれに代わる。この事態に対し九条政忠も巻き返しを図るが、歴代に数えられない一代限りの摂政ということで決着が継いだようだ。

かくして、応仁の乱後の混乱のさなか、うっかり在数を殺してしまった九条政基和泉日根野荘に居する。ここでかの有名な『政基引付』という九条政基の領地立て直し日記が書かれ、彼の内政に明け暮れた日々が明らかになる。

また一方で九条藤原氏日野藤原氏は本願寺と親しい仲にあった。九条経教の側室・正は存如の従姉妹であり、「寛政の法難」以後も本願寺如が公家社会に相応の立場にあったのは婚姻ネットワークかなめだったからでもある。長享年間に入ると本願寺と近衛との接点ができるなど、公家の中で本願寺の勢が増しつつあったが、三条西や勧修寺を通じて九条政基も引き続きこれと親しかったとも。

赦免され永正4年(1507年)に京都に戻ったとはいえ、九条は唐在数殺で大幅に勢を後退させてしまい、細川政元に養子入りさせた細川澄之の永正の錯乱中の殺で、幕府との回路も失った。また永正元年(1504年)に富小路資直の昇殿九条尚経が取り次いだ際、公家足利義澄までもが反対する事態となった。さらにいえば永正8年(1511年)には九条政基九条尚経子が対立し、同士の争いで死者も多数出る事態となったのである。さらに永正15年(1518年)には石井在利が九条領を勝手に掻っ捌いたため、大永元年(1521年)に九条尚経が彼を殺している。

このように、九条がどんどん問題を抱えていく一方で、勢を伸ばしたのが近衛流である。こうした流れから摂関をめぐって九条流と近衛流は対立していく。

この中で、本願寺如が九条尚経の猶子となる。これは滋野井応寺らの意向があったようで、後奈良天皇はこれに反対だったが、勧修寺子と三条西条の談合によって通ったようである。こうして、本願寺は摂関格に上ったが、この背景には地方一向宗寺院への格をアピールしたかったからとも。

かくして本願寺との回路を持った九条は、一方では加賀三か寺との回路が享錯乱で勧修寺正親町三条西らから失われたのに対し、引き続き一向宗の助を得ることに成功した。この享錯乱とは足利義維を敵とみなす前述の応寺足利義維細川晴元に接近した本願寺如・下間頼秀との政争に敗れて失脚してしまったという状況を経て、その後本願寺如・下間頼秀と本寺連悟との間に起きた抗争である。

一方で細川晴元細川高国を敗死させ、両の対立に終止符が打たれた。ここで足利義晴を推す木沢長政足利義維を推す三好元長の対立が起き、細川晴元木沢長政を選んだ。ここで本願寺如も足利義晴を選んでいく。

九条稙通の戦いの始まり

このさなかに起きたのが三好元長の殺文の錯乱、いわゆる文法である。九条稙通らの記録を追っていくと応寺は相変わらず失脚しており、本願寺如・下間頼秀が導して本願寺が軍事行動を展開し、それが奈良などにエスカレートした結果細川晴元と対立。ついに山科本願寺が炎上する。なお、応寺を九条稙通や滋野井が逃がす手伝いをしており、公家と本願寺との回路は機したままであった。

足利義晴は本願寺を方・足利義維に与する存在とみなし、細川晴元足利義晴が和すると本願寺は攻撃対とされる。本願寺と細川晴元三好長慶に和されるが、三好連盛が本願寺如を味方につけ、細川晴元と再度敵対する。

こんなまぐるしい時代に文2年(1533年)に九条稙通が関白となった…のだが、翌年に摂津に出奔する。表向きの理由は困窮のために関白拝賀のためのもろもろがえられなかったのであるが、『お湯殿の上の日記』などによると近衛足利義晴が肩入れしていたようである。なお、九条側の意識がわかる資料に『福智院文書』の「御出之子細条々」があり、以下の五箇条が書かれている。

  1. 氏嫡流の九条流と近衛流の代々の争い
  2. 近衛の後に九条稙通が関白となったが、それに不だった近衛足利義晴にロビー活動を行っていたこと
  3. 春日社の「御神楽神主」をめぐって九条近衛が争ったこと
  4. 将軍足利義晴の上の際に圧をかけられ在したところ領地がことごとく奪われたこと
  5. 今は近衛の権勢で九条自重しているので、大乗院近衛を注意すること

つまり、九条としては足利義晴近衛が結託したことによって反撃に出ようとしたが、政争に敗れてしまったという認識であったようだ。ちなみにあれほど頑って立て直した日根野荘なども当然解体されている。なお、ここで頼ったのが義理の兄弟にあたる本願寺如である。

かくして、本願寺と細川晴元が敵対すると、九条稙通は幕府敵対勢関白になろうという思惑があったのか、足利義晴近衛細川晴元 対 足利義維-九条稙通-三好連盛-本願寺如といった構図が出来上がる。幕府はこのような九条に非常に厳しい態度を突き付けていく。

しかし、文4年(1535年)に本願寺が敗れる。本願寺は文の錯乱全に孤立しており、ながらく導的立場にあった下間頼秀は文7年(1538年)に殺されている。そして加賀門徒も本願寺に詫言を述べ、応寺が九条稙通・二条尹房の助けを借りて帰参した。

本願寺はこうした流れを受けて、協調路線に転換した。後奈良天皇足利義晴側であり、本願寺は彼等に接近することで京都に地位を回復させた。本願寺如が妻・如従や庭田重保を頼りに公家社会との関係を再構築していく一方で、時の関白二条尹房を通じて九条稙通は未だに京都と密かに交流を持っており、三条西の援助も受けていた。

三好政権の中で

文5年(1536年)に九条稙通が但に移った一方で、二条尹房は関白から降りた。以後尼子経久のもとに行ったりした後、文8年(1539年)にに行ったようで、『日記』によれば四国足利義維と対面して領の回復を試みたようである。足利義晴近衛政権が盤石なので、敵対勢に相変わらず与していたのである。文10年(1541年)には播磨にいたとされ、『卿補任』の因幡々も播磨の誤りとされる。

加えて、ひきつづき本願寺如は九条稙通に経済的援助をもっていた。一方で中央では近衛の退いた後、一条房通と鷹司が争い、結局鷹司関白に、一条房通が内覧に任じられるなど、相変わらす摂関をめぐる抗争が続いていた。この際二条尹房は九条稙通にも相談したらしいことを山科言継が記録している。また、徳大寺の跡一条房通の子が入ることを阻止された事件もあったのである。

かくして足利義輝期になると、足利義輝二条晴良一条房通・一条らは参仕していない。さらににいた九条稙通は相変わらず足利義維・本願寺と結んでいたようであり、足利義維の上未遂の際にもこれに協している。この頃までに自分の養女を十河一存がせたようである。

本願寺如は四国にまで行こうとする九条稙通に京都に帰る方を優先すべきだと説得したが、近衛との敵対心がなおも彼にはあったようである。

文19年(1550年)の江口の戦いで細川晴元政権が敗れると、翌年についに九条稙通が復権した。ところがこの年、大永寺の変で大内義隆に巻き込まれて二条尹房が殺されてしまう。反足利義輝を糾合しようとしたともいえる論見にが開いたのである。

とはいえ京都三好長慶が制圧しており、二条晴良などのもとで断続的に在していたようだ。さらに三好長慶足利義輝が対立するのも好都合であり、本願寺顕如もまた引き続き自分の猶子となったのである。

とはいえ、足利義維将軍に任命されず、三好長慶の護る朝廷でも関白になれないままであった。こうした流れから、九条稙通は訴位記の申請を行った後、文24年(1555年)に出した。子供はおらず、二条晴良の年長の子・九条兼孝を養子とした。

将軍暗殺後の争乱

三好長慶足利義輝と和すると、近衛も復権した。三条西条による源氏物語の講釈も中断され、おそらく多くは和泉にいたようだ。とはいえ、永3年(1560年)にこの講釈に喜んで参加し、これまでできなかったような文化の外護者的役割を果たそうと努めていた。

こうして九条稙通が和泉から九条兼孝を三好に任せる一方で、近衛前久上杉謙信と意気投合して越後に向かう。関東管領の彼を関白として支援することで、室町幕府の復権を論んだとされる。しかし、この両者の動きはどちらも実らないまま、永禄の政変を迎える。

近衛近衛前久は結果として足利義輝の殺を容認してしまい、結果的に足利義昭に味方することはなかった。ところが一方で、九条稙通は三好義継松浦八郎を引き連れ畿内のキープレイヤーと化しており、最終的に三好義継すらも引き連れ足利義昭に身を投じたのである。足利義栄を奉じた三好三人衆篠原長房とは構想が異なっており、ポスト三好長慶をめぐるもろもろの暗闘があったのかもしれない。

結局この争いには足利義昭が勝ち上がった。後世書かれた『戴恩記』によると、九条稙通は織田信長に立ったまま「めでたし」といって不を買ったといわれる。これは、虚構かもしれないが、彼の経緯からあり得たとも。一方で京都を追われたのが近衛前久で、これまでと逆の立場になったのである。永12年(1569年)には正親町天皇を通じて織田信長九条が申しだされており、このバックには二条晴良がいたとも。

晩年

ところが足利義昭の追放で、織田信長としては特にどうも思っていなかったので近衛前久が復権する。一方正年間にはもう九条稙通はほぼ京都に下り、文化面でのリーダーシップを発揮することで、九条流のソフトパワーを高めようとしていたようだ。とはいえ、かつて支援した三好義継は悲惨な末路を遂げ、松浦八郎もとるに足らない扱いとなったこともあってか、こんなこともぼやいている。

正二年五仲一」

門領行、数十ヶ年雖励微一家之紹時未到哉、及七旬、其功事、頗以失面、老驥状櫪、尚志在千里、所詮遺跡之儀録在別、全与奪申上者、不及加愚意、以御智略再栄之段、可為、至当之秘説、不残伝授申畢、弥政扶之御志可為簡要也、恐々謹言、

五月十一日     行(九条稙通)

九条右大臣殿九条兼孝)

九条右大臣殿     行

ーー『九条文書』九条稙通書状
字は水野智之による補足

織田信長と良好な関係を結びつつも、敵対勢とも手を結びかねない九条稙通は、九条が摂の頂点にあるように引き続き典拠を整備していた。またあの三条西から故実を学んだことで九条稙通は崇敬を集めていたようで、本願寺顕如の妻・如尼にも故実を伝授している。

本能寺の変が起きると、讒言で近衛前久が没落する羽になった。このことは九条流摂関にとって都合のいい出来事であった。二条晴良一門である九条兼孝・二条昭実・鷹司信房がそろって参礼する他、羽柴秀吉にそろって交流をもっていった。また、小牧・長久手の戦いに際しても近衛前久は疑心を解くために身を隠していった。

さらに関白相論が起きる。二条昭実・近衛信尹が争い、これに九条稙通・近衛前久も噛み、最終的に近衛前久羽柴秀吉関白に着ける奇策に出たのである。これに九条稙通が先に言ったか言われて反論したかバリエーションがあるのだが、近衛流と九条流の庶嫡の争いをぶちまけたようである。

前田玄以らは近衛前久の肩を持ち、羽柴秀吉の前まで持ち出された結果、すらすらと根拠を述べていった九条稙通を見て、羽柴秀吉がどのような決着を下したかは最終的にはわからなくなる。とはいえただひとつわかるのは、豊臣姓創設はこの流れを受けてのことである。

近衛信尹の出奔も九条々とまで言われるようになったが、九条稙通は豊臣秀次らの死を罰が当たった、それ見たことかとったとまで言われ、強い自意識のまま87年の生涯を終えた。

その後

九条流は以後養子入りが多数行われた特徴があり、最終的に皇室の血が混じった。幕末に佐幕卿として活躍したのが、九条尚忠である。

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