九鬼嘉隆(くき・よしたか 1542~1600)とは、日本の戦国武将・大名である。志摩の水軍衆だったが織田信長に取り立てられ、鉄甲船で毛利家を破るなど各地で活躍し、海賊大名の異名をとったことで有名。
志摩国人・九鬼氏の第8代当主。様々ないざこざの末に志摩から逃れ、織田信長に仕える。
織田家臣となった後は水軍衆として伊勢北畠氏や長島一向一揆との戦いで活躍し、志摩の所領も取り戻した。第一次木津川口の戦いでは毛利水軍の火攻で惨敗するが、鉄甲船を建造して2年後の第二次木津川口の戦いでリベンジを果たす。
関ヶ原の戦いでは西軍につく。息子・九鬼守隆は東軍についており、戦後に父の助命を嘆願した。徳川家康からも許可が下りたが、その報が到着する前に切腹。波乱の生涯を終えた。
嘉隆以前の九鬼氏は色々不明瞭な点が多い。元々は紀伊熊野の住民だったらしく、九鬼の名はそこの地名に由来するという。だが熊野では勢力が拡大出来ず、室町時代初期(南北朝時代)ごろに新天地を求めて志摩へと移住したらしい。
嘉隆の祖父・九鬼泰隆(4代当主)は九鬼氏の勢力を拡大させたが、そのために他の志摩国人たちから強く警戒されるようになる。泰隆の子が5代・九鬼定隆で、その息子が6代・九鬼浄隆(きよたか)と九鬼嘉隆の兄弟である。
志摩に移った当初の本拠地は波切城。泰隆が新たに田城城を建て、浄隆の代には本拠の田城を浄隆が、支城の波切を嘉隆が守っていた。海の城として有名な鳥羽城が建てられるのはもう少し後の話である。
九鬼氏が勢力拡大したのは伊勢北畠氏が後ろ盾となっていたおかげだったが、急成長を危険視され、北畠氏は他の国衆の支援に乗り換えてしまう。こうして1560年(桶狭間の戦いと同じ年)、九鬼氏は周囲から一斉に攻撃され、その最中に田城城の兄・九鬼浄隆は病死してしまった。
浄隆の子・九鬼澄隆が7代当主となり嘉隆が補佐したが、状況は芳しくなく、遂に九鬼一族は田城城を捨ててゲリラ戦に移る羽目に陥った。こうした状況下で嘉隆は尾張に移って織田信長の家臣になる。澄隆を見捨てたのか、織田家の助力に期待したのかは定かではない。仲介したのは伊勢出身(といわれる)の滝川一益らしい。
織田信長はちょうど桶狭間で今川義元を破ったところで、飛躍の時を迎えていた。9年後の1569年に信長は北畠具教を攻め、息子(のちの織田信雄)を北畠の養子とする条件で伊勢を影響下に置いた。北畠の没落で志摩国衆も後ろ盾を失い、嘉隆の反撃で志摩一帯は九鬼氏の治めるところとして織田家からも認められた。
だが甥の九鬼澄隆は生き残っており、あくまで当主は澄隆だった。とはいえ力関係は完全に逆転しており、嘉隆が事実上の当主として甥を傀儡にしていたと考えられている。のちのち1584年に澄隆は病死するが、これも嘉隆による毒殺ではないかと言われている。色々と怪しい部分が見えるが、こうした紆余曲折の末に嘉隆は8代当主となり鳥羽城を築城した。
余談だが澄隆には初音姫という大変美しい娘がいたとされ、父の命じた婚姻を断り恋人と自害したという伝承がある。
時代が前後してしまったが、1573年に室町幕府が滅んで天正年間に入ると一向一揆との戦いがますます激化した。長島一向一揆殲滅戦では海上封鎖に活躍している。
石山合戦では毛利家の村上水軍による海上補給を断つべく木津川口の戦いが勃発するが、1576年の第一次合戦では毛利家の炮烙玉が文字通り炸裂し、多くの船と配下を炎で失う大敗を喫してしまった。信長はこれに激怒したが、同時に挽回のチャンスを与えた。
嘉隆は試行錯誤の末、鉄板を貼って装甲とする鉄甲船を完成させた(実像は諸説ある)。1578年の第二次合戦では6隻の鉄甲船が投入され、炮烙玉や火矢をものともせず、村上水軍を逆に壊滅させた。失敗に対策を命じるのは信長の行動としてよく見られるが、嘉隆もこの機会を逃さなかった人物と言えるだろう。この戦いで石山合戦の趨勢は織田へと傾き、大幅加増された嘉隆は志摩の豪族から海賊大名へと出世を遂げた。
1582年に本能寺の変で織田信長が横死する。九鬼家は領地的にも歴史的にも近い北畠…改め織田信雄に近い関係をもっていたが、柴田勝家の自害後は羽柴秀吉と織田信雄の対立が先鋭化していき、1584年に小牧・長久手の戦いが勃発する(秀吉包囲網の項も参照)。
嘉隆は当初信雄・徳川家康の陣営で参戦していたが、当時没落していた旧知の滝川一益が秀吉方に登用され、その滝川からの調略を受けて秀吉方に寝返った。美濃・尾張で秀吉と信雄・家康の睨みあいが続く中、信雄の本拠地である伊勢方面を侵略しようという秀吉サイドの考えに応じたのである。
滝川による蟹江城上陸を九鬼水軍が援護し、これが成功すれば伊勢と尾張方面を分断できる……という計画だったのだが、結局この戦いは後詰が間に合わず蟹江城の滝川が孤立してしまい、失敗に終わった。
一連の戦いは痛み分けに終わったが政治的には秀吉の力が固まり、嘉隆もそれに良い形で乗じることができたといえる。この頃前述したように九鬼澄隆が死去して当主となり、鳥羽城を築城して新たな本拠地とした。
豊臣政権でも水軍の一員を担い、文禄・慶長の役では朝鮮の水軍と戦った。この頃、息子の九鬼守隆に家督を譲って隠居する。
だが関ヶ原の戦いが勃発すると、当主の守隆は(会津征伐に同行しており)東軍に、隠居の嘉隆は西軍についた。嘉隆は留守になっていた鳥羽城を奪い、伊勢湾を封鎖して伊勢安濃津城を孤立させるなど精力的に活動した。一方の守隆も西軍方の伊勢桑名城を落とすなど活躍している。
親子とも関ヶ原本戦には参加していないが、東軍勝利の報を聞くと嘉隆は鳥羽城を放棄して答志島へ渡った。そこで娘婿である家臣・豊田五郎右衛門に九鬼家の存続には嘉隆の切腹が必要であろうと(独断で)説得される。だが実際には守隆が家康に父の助命を嘆願しており、桑名城奪取などの功績からそれが認められていたのである。そんな事を知る由もない嘉隆は豊田の説得を受け入れ、自害して果てた。
実は豊田は鳥羽城の留守居役であり、城の留守を守れなかった上に嘉隆を死なせてしまった事で守隆の怒りを買い、後日処刑された。残当。
九鬼守隆は家康から鳥羽を安堵され、鳥羽藩(5.6万石)が立藩された。だが守隆の五男・九鬼久隆が後継者となったことに三男の九鬼隆季が猛反発してお家騒動が起きてしまい、1632年、早くも転封されて海から切り離されることになった。(まあこの時代を考えると改易されなかっただけ相当マシだが……)
摂津三田藩(3.6万石)と丹波綾部藩(2.0万石)の二家に分けられ、見事に内陸に押し込められたが、この後は一度も転封されることはなく、両家も関係を修復しており、無事に幕末を迎えている。
なお、九鬼家の出自が熊野にあるのは冒頭で述べた通りだが、子孫は2018年現在熊野大社の宮司を務めている。プロ野球選手の九鬼隆平(くき・りゅうへい)も末裔にあたる。
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最終更新:2023/06/06(火) 18:00
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