1923年9月3日。関東大震災における混乱の中で発生した事件の一つである。
現在でも東京都の下町の一つとして知られる亀戸で発生した、河合義虎や平澤計七ら10名の社会主義者が、亀戸警察署に拘束され、そのままリンチにかけられて殺害された事件である。
甘粕事件や朝鮮人虐殺事件、福田村事件などと並ぶ、関東大震災のさなかに発生したリンチの一つとして知られ、警察も一月に渡り存在を隠蔽したことから日本労働総同盟をはじめとする諸団体から大きな批判を浴びることになった。
関東大震災は東京と神奈川といった近代日本の中心となった大都市を襲い、10万人の死者と200万人近い被災者を出した、明治以来未曾有の大災害であった。下町の被害も酷く、当時は極めて珍しい高層建築物だった浅草の凌雲閣が倒壊したことや、隅田川を挟んだ人の殺到やそれによる被害の拡大は日本史の資料集などで掲載されている為よく知られている。
9月3日、震災直前に加藤友三郎首相が倒れた為、9月2日に慌てて組閣したばかりの首相である山本権兵衛は事態収拾のため管轄の師団に対して戒厳令を発し、国民の権利を制限して軍や警察の優位が認められるようになった。
また、ネットやテレビは当たり前のこと、ラジオすらもまだ(我が国におけるラジオ放送開始は1925年から)登場していない時代において、庶民の知れるメディアといえば文字媒体の新聞くらいしかなく、その錯綜ぶりは現代人でも想像が及ばぬところがあるだろう。その為、世論を事実上支配している新聞社は根拠不明のデマや流言を次々と掲載し、その世論を公的機関含めて煽ったことで次々と悲惨な事件が発生することになる。
そんな関東大震災直後のカオスな状態の中、亀戸で大きな悲劇が発生した。その流言飛語の一つに「震災を利用して朝鮮人や社会主義者たちが煽動しようとしている」というデマがあった。しかも内務省がそれに便乗して各地方に電報を送ったことが知れ渡った為、軍や警察は色めき立った。元々彼らはイデオロギー上の都合などで社会主義者や自由主義者たちとの相性が悪く、震災前の6月にも30人余りを検挙するという大きな弾圧をしたばかりであった。
しかし、南葛(現在の江東区及び墨田区)地域は労働者が多いからか未だに労働運動が盛んに行われていたため、軍と警察は一体となってその弾圧に向かった。その延長線上にあるのがこの亀戸事件である。この日、被災者の支援のため活動していた日本共産青年同盟委員長河合義虎と、労働組合に属していた平澤計七や中筋宇八と居合わせた労働者7名が、例の煽動疑惑をかけられて相次いで亀戸署に連行される。そして、5日には命令に従わず革命歌を唱歌するなど河合の対処に手を焼いた警察が、軍に要請してそこに引き渡され、10人全員習志野に配備された騎馬連隊の手によって刺殺された。
この事件は10月まで警察はその存在を認めなかったが、甘粕事件の公判の最中にそれが暴露され、10月10日になってようやく警察が発表。新聞にも大きく報じられた。彼らと近しい南葛労働協会や、自由法曹団の弁護士たちは遺族らと共に糾弾運動を行ったが、「戒厳令下の適切な軍の行動」という判断を当局は崩さなかったため、事件はそれ以上の詳細が明かされることも、責任者や実行者が追及されることもなかった。
震災に乗じた社会主義者や自由主義者といった、政府側からみた不穏分子へのリンチや不当な摘発などがこの時期には相次いでおり、亀戸事件はその一つとして記憶されている。
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最終更新:2025/04/14(月) 14:00
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