二式複座戦闘機とは、大日本帝國陸軍が開発した双発戦闘機である。愛称は屠龍。
連合軍が付けたコードネームはNick(ニック)。
1930年代、列強の間では万能な双発戦闘機の開発研究が盛んに行われていた。帝國陸軍もこの時勢に乗っかり、1937年に主要航空機メーカーへ双発戦闘機の開発と研究を命じた。同年12月、実物大の模型を作った川崎航空機が勝ち残った。キ-45の仮称を与えられ、井町勇技師を据えて開発計画が始動した。しかし陸軍の要求性能は途方も無いものだった。トンデモ性能を満たすべく川崎は四苦八苦して試作機を作り、1939年1月にキ-45は初飛行を迎えた。しかし要求性能には遠く届かず、軍関係者を落胆させて不採用の烙印を押された。余談だが海軍も一三試双発戦闘機で同様の失敗をやらかしている。
計画は頓挫したかに思えたが、陸軍から研究の継続を命じられて続行。これを受けて川崎は主任技師を土井武夫技師に変え、既に成功している九九式双発軽爆撃機を参考。1939年4月に性能向上第一案型が提示され、試行錯誤を繰り返し、試作機を11号機まで造った。加えて出力の高いエンジンに換装する事で、好成績を残した。気を良くした陸軍は、より高性能なエンジンを積めば性能向上を見込めると考え、1940年10月に設計改良を命じた。川崎は百式司偵に使われていた高出力エンジン「ハ-102」を採用し、主翼、胴体、風防、尾翼にも改良を加えた。改良に次ぐ改良でキ-45とは別物と化していたため、キ-45改に改名。試作機は1941年9月に完成し、テスト飛行を実施。メッサーシュミットBf-109との模擬戦で互角の性能を発揮し、操縦性と安定性を証明。開戦後の1942年2月に制式採用され、二式複座戦闘機の名を与えられてデビューを飾った。複座と付くのは、二式単座戦闘機(二式戦)と区別するためである。
20mm機関砲を装備できる唯一の陸軍機であり、攻撃力に期待がかけられた。愛称の屠龍は文字通り「龍を屠る」という意味で、龍(爆撃機)を滅する意味合いが込められていた。諸元は全幅15.02m、全長10.6m、重量5276kg、最高速度517キロ、250kg爆弾2発搭載可能、搭乗員2名。
1942年6月より前線に配備されたが、この頃にはもう連合軍は東南アジアから一掃されており、爆撃機を護衛する役割は残っていなかった。ニューギニア、蘭印、ビルマ、ソロモン方面、支那方面と陸軍の担当地区に幅広く送られ、ラングーンやパレンバン、ハイノで防空任務に就いた。他にも偵察、船団攻撃、戦闘機との交戦など様々な用途に使われた。
支那戦線でアメリカ軍のP-40戦闘機(フライング・タイガース)と交戦。結果、惨敗を喫してしまう。軽快な動きを見せる単発戦闘機に、鈍重な双発戦闘機ではまるで太刀打ちできなかったのだ。おかげで戦闘機なのに大型爆撃機の迎撃任務でしか使用されなかった。それでも敵爆撃機に護衛機が付いていると途端に手出しが出来なくなるので、現場からの評価は辛辣なものだった。部隊の戦力は二式複座戦闘機から一式戦や二式戦に刷新されていき、急速に出番を失っていった。他戦線でも戦闘機との交戦が何度も生起したが、イギリス軍の単発戦闘機に苦戦する場面が目立った。一方、アメリカ軍は「投入されてすぐPTボートの脅威になった」と評している。また戦闘機としては力不足でも、軽爆撃機として見れば高速で十分な運動性能を持っていたため、対地・対艦攻撃を担当した部隊からは好評だった。
その頃、遠く離れたラバウルではB-17による夜間爆撃に悩まされていた。しかし1943年5月、海軍の二式陸上偵察機(のちの月光)が斜銃を装備して2機のB-17を撃墜する事に成功。思わぬ戦果に驚いた陸軍は、同じ双発機である二式複戦に着目し、二式陸偵と同様の改造を施して上向きの12.7mm機銃(ホ103)を装備した。同月27日には夜間戦闘専門の部隊が開設され、昼夜逆転生活を送った。内地の航空工廠では更に大口径のホ203(九五式戦車の主砲)を搭載した試作機が造られ、10月に65機が誕生。このタイプはキ-45改丙と呼称された。
新たな力を手にした二式複戦は、ラバウル方面を空襲しに来たB-17を37mm戦車砲で撃墜。機体の大きい二式複座戦闘機は、単発機には不可能な大型武装の装備ができたのだ。航空機に戦車砲を乗っけるというブッ飛んだ発想だったが、確かな戦果を挙げた。ただ短身砲だったために砲弾が直進せず、命中させるのは難しかったと言われている。元が戦車砲なだけに2発ずつしか撃てず、後部搭乗員による手動装填が必須だった。弾数も15発(1発は試射で使用するので実質14発)と心もとない。とはいえ、これを機に対爆撃機用の夜間戦闘機という別の用途が見出され、海軍の月光ともども夜間戦闘の中核を担った。月光に習って操縦席後部に20mm機関砲2門を装備し、屠龍の名に相応しい能力を手にした。こうして陸軍唯一の夜間戦闘機が誕生した。連合軍の新型機に押され、性能に限界が見えてきた九九式双発軽爆撃に代わり、様々な任務にも参加。ニューギニア方面では船団攻撃を行い、B-24の編隊と交戦している。
内地の航空工廠では、より大口径なホ401の搭載し空中テストを実施。良好な結果を残した事から、キ102乙の開発がスタート。航空機における大艦巨砲主義のパイオニア的存在となった。明石工場では川崎と陸軍が協同で小型ジェットエンジンの開発に注力していた。テスト用機体に二式複戦が第二候補に挙げられていたが(第一候補は飛燕)、最前線では1機たりとも惜しいという事で調達できず、やむなく鈍足の九九式双発軽爆撃機を充てている。
二式複座戦闘機の才能が開花したのは皮肉にも日本の敗北が決定的となった戦争末期だった。1944年6月16日、八幡地区を爆撃しに来たB-29を迎撃。この時、第一弾を与えたのは二式複座戦闘機だった。この爆撃を皮切りに、屠龍は終戦までB-29との死闘を演じる事になる。北九州の防空を担っていた陸軍第4戦隊と第13戦隊は屠龍部隊の愛称が付けられ、臣民に親しまれた。
8月20日に生起した折尾上空の迎撃戦では、野辺重夫准尉と高木傅蔵軍曹両名の屠龍が有名になった。17時に空襲警報が発令され、小月基地から迎撃機が出撃。野辺・高木機は、北九州に向かう約80機のB-29を発見、37mm戦車砲を撃ちかけて第二梯団の指揮官機に命中させるも、撃墜には至らず。このままでは北九州への爆撃は避けられないとして、体当たりを決意。敵機の斜め前方より指揮官機に向けて突撃、2機は一つの塊となって爆発した。その時に飛び散った破片が後続の二番機銀翼に直撃、瞬時に空中分解して永犬山小学校付近に墜落。1回の体当たりで2機を撃墜する史上類を見ない大活躍を見せたが、両名は戦死。戦後の1978年8月、樫出勇元大尉が墜落の地に慰霊碑を建立した。大本営はこの迎撃戦で80機中23機を撃墜したと報じた。1944年10月頃にはフィリピン方面に投入され、来襲するアメリカ軍に対し決死の夜間・黎明・薄暮攻撃を行っている。
しかし高度1万mを飛行し、強固な装甲を持つB-29は難敵だった。屠龍は強力な武装こそ持っていたが、重い武器を持って1万mまで上昇するのは無理だった。そこで武装を全て取り外し、軽くした上で体当たり攻撃を仕掛ける決死の戦法が採られた。ところが屠龍は540キロしか出せず、体当たりは待ち伏せが成功する事が前提だった。
苦闘を続ける屠龍だったが、1945年に入るとB-29は効率を上げるために夜間の低空侵入をしてくるようになった。こうなると屠龍の本領発揮である。37mm戦車砲や20mm機関砲を最大限に活用し、次々にB-29を撃墜。サーチライトに照らされた敵機に襲い掛かり、最強の火力を惜しげもなく使って撃墜王に駆け上がった。樫出勇大尉は26機の最多撃墜記録を叩き出した(日本側発表)。1月27日、中島武蔵野工場を爆撃しにきた76機のB-29を迎撃。小林雄一軍曹と鯉渕夏夫兵長が乗る屠龍が、B-29の後ろ上方より体当たりし、屠龍は炎上墜落。B-29も佐倉方面に離脱したあと力尽きて墜落した。11名中2名が脱出したが、憲兵隊本部に連行されている。大破した屠龍は八千代市神久保(当時は沼地)に墜落。2人の遺品は船橋市郷土資料館に展示されている。
しかし硫黄島が陥落した結果、4月以降からはB-29にP-51等の戦闘機が護衛に付いた。鈍足の二式複戦に戦闘機の壁を打ち破れるはずがなく、もはや戦果を挙げる事は叶わなくなった。最初から最後まで戦闘機に泣かされた屠龍であった。
最終的な生産数は1690機。月光の三倍以上が量産された。
戦争が終結すると、アメリカ軍は日本国内に進駐。日本軍の機体を評価するため、残っていた145機を接収して本国に持ち帰った。その中に屠龍が含まれており、テスト飛行を行った。担当した米パイロットは「地表での操縦性が悪い」と評している。他にも窮屈なコクピット、過度の振動、視界の悪さは劣悪と断じられたが離陸距離、上昇速度、飛行特性、空中での操縦性は良好と高評価だった。
テスト後、1946年にスミソニアン博物館へ寄贈された。他の機体は廃棄されたようで、現存している機は寄贈されたものだけである。しかし両翼が無くなっており、胴体だけの展示となっている。
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