二条良基以来、代々室町幕府に接近していた五摂家のひとつ二条家の当主。足利将軍家の側近に同格の近衛家が代わろうとするが、引き続き彼もまたあちこちの場面で交渉役として活躍した。
なお、例によって例のごとく諱の「晴」の字の読みは不明。足利義晴からの偏諱なので「はる」を記事名とするが、「麒麟がくる」では「はれ」である。
父親の九条道家から煙たがられた子・二条良実を家祖とする。しかし、二条良基の代に足利義満のビジネスパートナーとして頭角を現し、二条師良・二条師嗣兄弟もまた、関白として重用される。孫の二条満基以降将軍家から偏諱されるほどの「天下御師範」の家、また即位灌頂を家業とする家として、室町時代には重んじられた存在であった。
とはいえ、二条師嗣が大内義弘の乱の与同を疑われて出家に追い込まれ、政治的な存在としては一条家に養子入りした弟・一条経嗣がこれに代わった。一方で二条家は二条満基も早世し、二条持基が後を継ぐ。しかし、彼は一条経嗣と仲が悪く、その死後にようやく台頭した。酒癖は悪かったが有能な人物だったようで、朝廷の重鎮として君臨したのである。
その息子・二条持通も足利義教との関係で失点はなく、朝議に通じた長老格となった。一条兼良とは並び立つ存在であり、二条政嗣もそれを引き継ぎ幕府・朝廷どちらにも君臨する存在となるはずであった。
ところが、応仁の乱の最中に38歳で頓死する。屋敷の押小路烏丸殿も失って、再建を悲願としたのであるが、後継者を失った二条持通は北陸道に在国しつつ、復権の機会をうかがった。
しかし、頼みの綱だった足利義尚を失った結果、二条持通は出家し77歳で亡くなる。代わって孫の二条尚基が後を継ぐが、家礼の白川忠富王や中御門宣胤らからも換言されるほどの粗忽な人物だったらしく、関白となった際も誰も付き従わないまま早世した。
さらに息子の二条尹房は当時まだ2歳で、細川野州家の祖母・兼子に養育された。このことは細川高国の管領就任が後押しし、再度復権したのである。なお、彼の成長を見届けた兼子は大往生を遂げた。ある程度の余裕もできた二条尹房は領国に何度も向かって所領回復を進め、尼子・大内間の和睦にも尽力している。
また、室町期以来関白をめぐっては九条流・近衛流の争いがあったとされ(近衛政家の検討を通じてなどそんなにこの二流に収斂されるかという異論もあるが)、天文年間には足利義晴・近衛稙家・細川晴元対足利義維・九条稙通・三好連盛・本願寺という構図があった。九条稙通はこのため出奔したが、その代わりに九条流の顔として二条尹房が機能していたのである。
ところが、ところがなのである。陶晴賢の反乱に盛大に巻き込まれて死んでしまったのである。なお、これは京都を離れ、足利義維に与していた九条稙通には、大内氏との連携を不可能にし、衝撃を与えたとされる。そしてついに、この記事の二条晴良の代となる。
二条尹房と九条経子との間に生まれた二条晴良は、父親が急死したとはいえ公家社会の最上位層の閨閥を有した。妻は伏見宮貞敦親王の娘・位子女王であり、息子には二条昭実、鷹司信房、九条兼孝、三宝院義演といた摂家流藤原氏の有力者が並ぶ。さらにいえば母親は九条尚経の娘・九条経子であり、九条稙通はおじにあたる存在であった。なお、二条昭実よりも九条兼孝のほうが年上だが、九条稙通が早く後継者が欲しいような感じで先に養子入りしたようだ。
二条晴良は天文17年(1548年)には23歳で関白となっている。なお、九条流摂関家と近衛流摂関家は引き続き対立しており、九条稙通が引き続き足利義維に与し将軍家と対立していることから、二条晴良・一条房通・一条兼冬らも天文15年(1546年)の足利義輝元服以後のもろもろに参仕していない。ただし、本願寺は表立っては義輝側に立たざるを得ず、本願寺証如は慎重にふるまっている。
結局九条稙通は二条晴良のもとを訪れ、三好政権の下で京都に戻った。あくまでも足利義晴とその後継者らには従わず、そちらでは近衛流が栄えていった一方で、九条流は三好政権に与し続けたのである。とはいえ、出奔し続けた九条家よりもずっと京都にいた自分のほうが嫡流ではないかと一条房通が思っていた節もあり、九条稙通が出家したことで、なんとか秩序が保たれたようだ。
しかしこのタイミングで永禄8年(1565年)の永禄の変が起きる。近衛流が接近していた足利義輝が殺されてしまったのである。さらに、近衛流は表立って足利義昭派として動けない状態にあり、そこで足利義昭を朝廷に引き入れ始めたのが二条晴良であった。
二条晴良は永禄8年末に足利義昭を訴訟の解決に介在させようとしたあたりから彼を頼りにし始める。九条稙通もいったんは三好長慶亡き後の後継者争いを解決させようとしたが、自身の義理の孫にあたる三好義継・松浦孫八郎兄弟を引き連れ足利義昭側にふんわり合流する。九条流が足利義昭派となったのだ。
その結果二条晴良は永禄11年(1568年)に越前に言って彼の元服の加冠役まで務めるほど、朝廷に回路のなかった足利義昭にとっては頼りのある存在となった。結果として彼の上洛後関白に再任され、元亀元年(1570年)には足利義昭の命令で織田信長・朝倉義景・浅井長政の和睦に奔走している。また、近衛前久はこの事態によって足利義栄派とみなされてしまい、京都を離脱する羽目になった。なお、一条内基は織田信長にむしろ注目しており、織田信長と九条流は良好な関係を結んでいた。
足利義昭もわざわざ越前までやってきたほどのシンパだった彼を重用しているがが、足利義栄派の勧修寺晴右といった他の公家たちに盛大に割を食わせまくっため、織田信長との対立を惹起していく一因ではあったようだ。近衛前久も彼に押さえつけられて京都に戻れず、近衛信尹の元服も、現在では彼のせいで遅れたのではないかといわれている。
が、まさかの足利義昭の反乱と追放である。この結果押小路烏丸殿は今度は織田信長に取り上げられ、彼は悲しみの渦中にあった。ただし、二条晴良は正親町天皇に東大寺正倉院の勅封を許可なく解こうとして怒られた以外の失点は以降もなく、この案件も織田信長の要求だったことから、天皇も矛を収める形となった。二条昭実には織田信長が養子にした赤松政秀の娘が嫁ぎ、ここまではまだよかったのである。
ところが、天正5年(1577年)以降、近衛前久らが復権する。また二条晴良が辞任した後、九条兼孝の関白就任まで若干の遅れがあった。徐々に二条家に向かい風が吹き出した。このような状況の中二条晴良が死んでしまい、以後の近衛流の復権と九条流の一瞬の停滞がめんどくさい事件につながっていく。
なお、押小路烏丸殿は本能寺の変の際に織田信忠軍とともに失われる。この二条晴良をもって、将軍家を顧問する摂関の役割は終わりを告げることとなった。
二条昭実が関白にいたことから、近衛信尹が巻き返そうとした結果関白相論が起き、豊臣秀吉が君臨してしまう。とはいえ、以後も二条康道を筆頭に征夷大将軍からの偏諱を受ける伝統は続き、将軍家の猶子として特別な地位にありはした(とはいえ五摂家は何かしら特別な地位があるのだが)。やがて、幕末の公武合体派公家・二条斉敬に至り、最後の摂関となった。
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最終更新:2025/12/09(火) 22:00
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