二階堂行政(?~?)とは、鎌倉時代の官人・武将である。
以後彼からネズミ算式に増えていく、二階堂氏の祖。母親が源頼朝の母方の祖父・熱田大宮司藤原季範の妹であり、源頼朝や足利義兼とは母系を共通する姻族であるらしい。
なお、名字の二階堂は鎌倉で彼の山荘の近くにあった、二階堂の構造の永福寺に由来する。
狩野氏や工藤氏と同じ、藤原南家乙麿流の出身であり、少なくとも、二階堂行政の家系は、『尊卑分脈』や『工藤二階堂系図』を参考にすると、代々駿河守や遠江守を担う受領層であった、らしい。ただし、彼の父・藤原行遠は、保延年間に遠江国司を殺害して尾張に配流されており、受領をきっかけに土着した在庁官人層ではあったようである。おそらくこの尾張に配流されていたころに、熱田大宮司家と婚姻し、二階堂行政が誕生した、とは言われている。
二階堂行政自身は、官職としては主計允・民部大夫等を担った存在だが、元暦元年(1184年)の公文所新造の際、三善康信とともに奉行として登場したのが、『吾妻鏡』の初出である。以後、ほぼ文官として『吾妻鏡』にはたびたび登場するものの、政所令の彼は、ぶっちゃけ、奉行しただの、書状のやり取りをしただの、程度の情報しか出てくることはない。
そんな二階堂行政であったが、建久10年(1199年)の、十三人の合議制に選ばれている。大江広元・中原親能義兄弟や、三善康信といった、政所などで重職を務める文官たちも顔を連ねているので、あまり目立った事績が残っていないのだが、これらの人物に比肩するような存在ではあったのだろう。
その後は、建保5年(1217年)2月19日条を最後に『吾妻鏡』から姿を消すため、おそらく源実朝存命中に死んだか引退したかしたのだろう。
息子の二階堂行光も彼の後を継ぎ政所令となり、政所に基盤を持った二階堂氏。北条義時の側近の伊賀光宗が伊賀氏の乱で失脚した結果、二階堂行光の息子・二階堂行盛が政所執事となり、以後鎌倉時代・室町時代を通して文官として、北条氏に負けず劣らないネズミ算式に増えていくこととなる。
まず、二階堂氏は大きく分けて、二階堂行政の息子の、信濃守を担った二階堂行光の信濃流、隠岐守を担った二階堂行村の隠岐流に分かれる。なお、ここからは信濃流や隠岐流はおそらくほぼ確実に名字になるのだが、煩雑なのでしばらく二階堂で統一する。
さらに、信濃流は二階堂行光の孫の代に筑前守・二階堂行泰の筑前家、伊勢守・二階堂行綱の伊勢家、信濃判官・二階堂行忠の信濃家の三家に分かれる。一方隠岐流は、二階堂行村の子供の代に、左衛門尉・二階堂基行の隠岐家(懐島家とも呼ぶ)、出羽守・二階堂行義の出羽家(さらに嫡流は備中家となり傍流が出羽家になる)、常陸介・二階堂行久の常陸家、和泉守・二階堂行方の和泉家、式部大夫・二階堂惟行の白川流に分かれた。
このうち、白川流に関しては政治的に成功しなかったためか没落し、二階堂氏は、信濃流の筑前・伊勢・信濃、隠岐流の懐島(隠岐)・出羽(含・備中)・常陸・和泉の二流七家(さらに分流も合わせると鎌倉時代末期には五十近くの家門がある)が、鎌倉時代に繁栄を謳歌した。なお、二階堂氏は受領を極官とする家が複数存在するもので、ある時期までは北条氏のような厳格な格差は存在しなかった。
もともと、二階堂氏はあくまでも実務を専らとする政所執事を担う存在だったため、各門閥の中からちゃんといい仕事ができる人間が、政所執事の座を担う状態がずっと続いていた。ところが、次第に信濃家と備中家が政所執事を争い、備中行藤が寄合衆に、行藤とその息子の備中貞藤が引付頭人になっている。つまり、少なくとも備中家は北条氏のそば近くで重職を担えており、その備中家と公職である政所執事を争える存在であることから、信濃家も同等の特権的支配層であったのだろう、というのが細川重男の推論である。
そして、なんやかんやあって鎌倉幕府が滅んだ。以後の二階堂氏を見ていく。
まず、筑前家は行実系・行佐系・行重系の三流が鎌倉府政所執事を担っていく(行左系はほぼ行重系に吸収)。伊勢家は観応の擾乱までにはほぼ没落し、壊滅することとなった。信濃家は観応の擾乱で一時没落するも、関東で信濃氏貞が、京都で信濃行元が復権し、信濃行元の家は京都の唯一の二階堂氏となった。隠岐家は霜月騒動で薩摩に逼塞したまま、南北朝時代を通じて土着していく。備中家は備中貞藤(かの有名な二階堂貞藤)が建武元年(1334年)に処刑されたことで、信濃家とともに没落しかかるのだが、備中成藤が鎌倉府に根付く。常陸家も貞藤処刑の余波でか、没落してしまう。和泉家も観応の擾乱で足利直義につき、没落してしまった。
というわけで二階堂氏で生き残ったのは、筑前家行実系・筑前家行重系・伊勢家頼綱系・信濃家行宗系・備中家成藤系の数家が鎌倉府に、京都には信濃家行宗系が評定衆、遠い傍流とされる隠岐家の深矢部二階堂が奉公衆として残り、後は薩摩に土着した隠岐家くらいになってしまったのである。
以後、あくまでも木下聡の推論をもとにしているが、二階堂氏のその後を見ていく。
鎌倉府では、畠山国清の没落後、二階堂氏がまた政所執事を務めたため、駿河守家・信濃守家・三河守家・山城守家・下総守家・安芸守家・下野守家等、さらには上総小滝二階堂氏や陸奥二階堂氏等にまたネズミ算式に分かれていった。
まず、筑前家行重系から駿河守家と下野守家が成立する。備中家成藤系からは三河守家が成立するが、須賀川二階堂氏のうち三河守系の家は、この三河守家から成立したと思われ、須賀川で遠江守系の二階堂氏をおそらく分立させ、戦国期の二階堂盛義につながっていくとされる。また、信濃家は山城守家を成立させた。そして、下総守家はおそらく筑前家行実流であるとされる。最後に信濃守家はおそらく伊勢家頼綱系が担ったようだ。
ところが、永享の乱である。以後、鎌倉府で存在が確認できるのは、駿河守家と信濃守家くらいになり、さらに永正の乱等で足利高基・足利義明両陣営に分かれる。ただし、小弓公方陣営にいる、椎津二階堂氏はかつての小滝二階堂氏と同族かは不明。結局、足利義氏の頃に二階堂氏は古河公方家には全くいなくなるのだが、喜連川家で足利尊信の時代に起きた家中紛争で、小弓公方家臣系の家が重臣になっていき、椎津二階堂氏が頂点の家老になっていく。
一方、室町幕府では、信濃家行宗系が、評定衆家となったのだが、政所執事の座は伊勢氏に奪われ、二階堂忠行がかろうじて一瞬政所執事を担った程度の存在であった。さらに、応仁の乱で、奉行衆が側近として台頭していく。この中で、二階堂政行は、足利義尚との和歌を通じた個人的な関係として「評定衆」の一人となり、摂津氏の権限も蚕食しようとしたのだが、足利義尚の早世で瓦解。以後、足利将軍家の数々の動乱に対しずっと在京して淡々と職務を担い、二階堂晴泰が足利義昭期にみられたのを最後に、歴史の表舞台からは消えることとなった。
掲示板
1 ななしのよっしん
2022/05/18(水) 23:57:36 ID: rzRQ4YFU+q
その後以降は、二階堂氏で記事を立てたほうが良いのでは。
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最終更新:2025/12/08(月) 03:00
最終更新:2025/12/08(月) 02:00
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