五大老とは
一般的には1の意味だがニコニコで検索するとほぼ全て2の意味のものが出てくる。
2に関しては該当記事参照。ここでは1の意味を説明する。
五大老とは豊臣政権下において秀吉の実子である拾(後の豊臣秀頼)が成人するまで合議制により政権を担うことになった五人(六人)の大名。
のことである。一般的には小早川隆景を除く5名を言う。
五大老の目的は秀吉死後に関東において強い力を持っていた家康を取り込み、台頭を防ぐことにあった。当初は同じく有力者であった前田利家が家康の突出を抑えることに成功していたが、1599年に利家が亡くなると、後を継いだ前田利長は政治的対立を経て家康に人質を送り屈服してしまう。他の四大老も、秀吉の期待したようには動かず、最終的に家康以外の大老が自国に帰ることによって完全に有名無実化した。
関ヶ原の戦いでは毛利輝元が西側の総大将、宇喜多秀家が副将(ただし実質的な大将は石田三成)、上杉景勝が直江状を家康に叩き付けるなど中心的役割を担った。敗戦後は毛利家と上杉家は大幅減封、宇喜多家は改易になったがいずれも極刑を免れている。
五大老とは言うが五人という数字が決まっている訳ではなく、高齢である必要もなかった。実際上記の宇喜多秀家は大老就任時は二十代だった。
掲示板
10 ななしのよっしん
2023/07/08(土) 14:05:51 ID: nMrJipaB2E
秀吉は家康を警戒していたんじゃなくて信頼してたんだよ
猿は狸にまんまと騙されていたのさ
11 ななしのよっしん
2024/01/19(金) 19:36:04 ID: ru8h4ZrhKb
どうする家康では、家康自身が本人の気づかぬ間に豊臣政権下で突出した存在に→三成や利家以外の大老が警戒→やがてすれ違い関ヶ原に っていう流れだったね。
それ以外にも
・かつての信長と表向きには対等な同盟者
・局地戦とはいえ、秀吉相手にも勝利
・既に亡くなっていた&政略結婚だが、秀吉の妹を妻に迎えて豊臣家と直接的な婚姻関係を築いている
・相応しい世継ぎ(秀忠)がいる(秀吉晩年期には,家康留守中の関東の統治は既に秀忠が代行していたとも)
そりゃ、他の大名達は徳川家を頼っちゃうかもな…
12 ななしのよっしん
2024/09/29(日) 21:42:57 ID: AvC+DOl39s
言うてまあ、秀吉から見た家康は「自分世代」だろうから、自分死後のカウントには入れてなかったんだと思う
自分にお迎え来る頃にはもうあっちも近いだろう、ぐらいで
その仮定なら家康が早めに死んだ後の「徳川家」に秀頼を殺すほどの求心力があったかは微妙な線
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最終更新:2024/10/13(日) 15:00
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