五大院宗繁 単語


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五大院宗繁、または五大院右衛門宗繁とは、軍記物語太平記』に登場する人物である。

概要

室町時代に成立したと考えられている軍記物語太平記』のうち、十巻の「寿殿信濃事付左近大夫偽落州事」と十一巻の「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」に記載がある。このうち前者では少しだけ名前が出てくるのみであり、メインで描かれているのは後者である。

どちらも、鎌倉時代末期北条に仕える武士(おそらく御内人)として、「鎌倉幕府滅亡の際、北条の得宗(一族のトップ)である北条高時長男である北条邦時を託されたが、最終的に北条邦時の死に関わることとなった」という大筋が語られている。

だが、前者と後者では語られる印がかなり異なる。前者では「敵に追い詰められ、逃げ切れぬと判断して邦時を刺殺して自らも切腹しつつ焼死した」という「やむを得ず君の子たる邦時を介錯しそれに殉じた」と取れなくもない内容が語られている一方、後者では「自らの保身のために邦時を騙し、敵に売った」という外道だという事になっている。

後者の話のクズっぷりの方が印的だったためか、に後世の書籍(歴史書含む)では後者の方が採用されていることが多い。だがどちらが正しいとする決め手はなさそうではある。

一応、前者は「諏訪三郎盛高(諏訪盛高)が他の人に語った内容」として記されている。よって「実際には十一巻に記された通りだったが、諏訪盛高が意図してか意図せずか実際と異なる内容を語った」という描写だと解釈できないことはない。

もちろん「どちらの記述も史実を反映したものではない」とか「そもそもこの人物が史実として存在したかも不明だ」と考えることもできなくはない(後述)。

『太平記』本文の引用、解説

五大院宗繁が登場する箇所の抜は以下の通り。

いずれも「日本文学電子図書館exit」からの引用。同サイト明治42年発行の「太平記文庫本」を底本にしたとのこと。

亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事

御辺も々遠慮を回して、何なる方にも隠歟、不然ば降人に成て命を継で、甥にてある寿を隠置て、時至ぬと見ん時再び大軍を起して素懐を可被遂。の万寿をば五大院の右衛門に申付たれば、心安く覚る也。

(現代語訳:あなたもよくよく考えをめぐらせて、どこへなりとも隠れび、あるいは降して命を繋いで、甥の寿(※北条時行)を隠し、時が至ったと見えたなら再び大軍を起こして願いを遂げなさい。の万寿(※北条邦時)は五大院の右衛門に申し付けたので、安心しています)

これは「相摸入殿の舎四郎近大夫入」(北条高時である北条泰家)が「諏訪三郎盛高」(諏訪盛高)に語った言葉である。

 

さても世の中は、何と成行べきぞや。等は女なれば立隠るゝ方も有ぬべし。寿をば如何すべき。の万寿をば五大院右衛門可蔵方有とて、今何方へやらん具足しつれば心安く思也。寿が事思煩て、露の如なる身さへ、消侘ぬるぞ。

(現代語訳:この世の中はどうなってしまうのでしょう。私たちは女ですから隠れることもできましょうが。この寿(※北条時行)はどうするべきでしょう。の万寿(※北条邦時)は五大院右衛門が匿えるところがあると言って今どこかに連れて行ってくれたので安心なのですが。ただこの寿のことが思い悩まれて、露のようにが身は消えてしまいそうです)

これは「相摸殿、二位殿御局」(北条高時の側室である二位局)が諏訪盛高)に語った言葉である。

だが、それを聞いた諏訪盛高は心をにして[1]、二位局に北条邦時と五大院宗繁の最期に関する情報を以下のように語った。

万寿御料をも五大院右衛門宗繁が具足し進せつるを、敵見付て追懸進せしかば、小町口の在に走入て、若子をば殺し進せ、身も切て焼死つる也。

(現代語訳:五大院右衛門宗繁が万寿(※北条邦時)様をお連れしましたが、敵が見つけて追いかけたので、小町口(※鎌倉の地名)にあるに走り入って、若君を刺し殺し、彼自らも切腹して焼死しました)

五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事

この節は全体が五大院宗繁について語られているので、やや長くなるが節の全体を引用する。

五大院宗繁の台詞や考えについては引用時に太字化した。

義貞鎌倉を定て、其威遠近に振ひしかば、東八箇の大名・高家、手を束ね膝を不屈と者なし。多日属随て忠を憑む人だにも如。況や今まで平氏の恩顧に順て、敵に在つる者共、生甲斐なき命を続ん為に、所縁に属し降人に成て、肥の前にを望み、高門の外に地を掃ても、己が咎を補はんと思へる心根なれば、今は浮世の望を捨て、僧法師に成たる平氏の一族達をも、寺々より引出して、法衣の上に血をき、二度は人に契らじと、をゝろし貌を替んとする亡夫の後室共をも、所々より捜出して、貞女の心を失。悲哉、義を専にせんとして、に死せる人は、永く修羅と成て、苦を多劫の間に受けん事を。痛哉、恥をで苟も生る者は、立ろに衰窮の身と成て、笑を万人の前に得たる事を。中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入殿の重恩を与たるなる上、相摸入の嫡子相摸太郎邦時は、五大院右衛門に出来たる子なれば、甥也。也。何に付ても弐ろ[2]には非じと深く被憑けるにや、「邦時をばに預置ぞ、如何なる方便をもし、是を隠し置き、時到りぬと見へば、取立て亡の恨を可謝。」と相摸入宣ければ、宗繁、「はじ。」と領して、鎌倉の合戦の最中に、降人にぞ成たりける。二三日を経て後、平氏悉滅びしかば、関東源氏の顧命に随て、彼に隠居たる平氏の一族共、数た捜出されて、捕手は所領を預り、隠せる者はに被誅事多し。五大院右衛門是を見て、いや/\果報尽はてたる人を扶持せんとて適遁得たる命を失はんよりは、人の在所を知たる由、源氏の兵に告て、弐心[3]なき所を顕し、所領の一所をも安堵せばやと思ければ、彼相摸太郎に向て申けるは、「是に御坐の事は、如何なる人も知はじとこそ存じてに、如何して漏聞へけん、田入明日是へ押寄て、捜し奉らんと用意由、方より告知せて。何様御座の在所を、今はではまじくに紛れて、急ぎ伊豆の御山の方へ落させ給へ。宗繁も御伴申度は存へ共、一家を尽して落なば、田入、さればこそと心付て、何くまでも尋る事もはんと存じ間、態御伴をば申まじく」と、し顔に成てければ、相摸太郎げにもと身の置所なくて、五月二十七日の半計に、鎌倉を落玉ふ。昨日までは下のたりし相摸入の嫡子にて有しかば、仮初の物詣で・方違ひとしにも、御内・外様の大名共、細に轡を噛せて、五騎・三百騎前後に打囲で社往覆せしに、時移事替ぬる世の有様の浅さよ、怪しげなる中間一人に太刀持せて、伝にだにも乗らで、破たる鞋に編着て、そこ共不知、泣々伊豆の御山を尋て、足に任て行給ひける、心の中こそ哀なれ。五大院右衛門は、加様にして人をばすかし出しぬ。と打て出さば、年来奉の好を忘たる者よと、人にを被差つべし。便宜好らんずる源氏に討せて、勲功を分て知行せばやと思ければ、急田入が許に行て、「相摸の太郎殿の在所をこそ、委く聞出てへ、他の勢を不交して、打て被出はゞ、定て勲功異他はんか。告申忠には、一所懸命の地を安堵仕る様に、御吹挙に預りはん。」とければ、田入心中には悪き者の様哉と乍思、「先子細非じ。」と約束して、五大院右衛門尉諸共に、相摸太郎の落行けるを遮てぞ待せける。相摸太郎に相待敵有とも不思寄、五月二十八日明ぼのに、浅げなる窶れ姿[4]にて、相摸河を渡らんと、渡し守を待て、の上に立たりけるを、五大院右衛門余所に立て、「あれこそ、すは件の人よ。」と教ければ、田が郎等三騎、より飛で下り、透間もなく生捕奉る。の事にて輿なんどもなければ、にのせ舟の縄にてしたゝかに是を誡め、中間二人にの口を引せて、鎌倉へ入れ奉る。是を見聞人毎に、袖をしぼらぬはりけり。人未だ幼稚の身なれば、何程の事か有べけれ共、朝敵長男にてをはすれば、非可閣とて、則翌日のに首を刎奉る。昔程子を殺して、幼稚のの命にかへ、予譲が貌を変じて、旧君の恩を報ぜし、其までこそなからめ、年来のを敵に打せて、欲心に義を忘れたる五大院右衛門が心の程、希有也。不也と、見る人毎に弾をして悪みしかば、義貞げにもと聞給て、是をも可誅と、内々其儀定まりければ、宗繁是を伝聞て、彼に隠れ行きけるが、悪の罪身を譴めけるにや、三界雖広一身を措に処なく故旧雖多一飯を与る人して、遂に乞食の如に成果て、道路にして、飢死にけるとぞ聞へし。

(現代語訳:義貞(※新田義貞)は既に鎌倉定して、その武威の評判は遠近に届き、関東八かの大名・高家従しないものはいなかった。長年にわたってその忠義を信頼されていた者たちまでこの有様である。もちろん今まで平氏(※この場合、北条)の恩義に順じて敵に居たはずの者どもも、生きる値打ちもない命を長らえようとして、伝手を頼って降し、肥えたの前にひれしてその後を拝んででも、あるいは門の外の地を掃いてでも、自らの罪を免じてもらおうと考えていた。今は浮世の望みを捨てて出して僧法師となった平氏の一族達をも寺々より引き出して、法衣の上に血をそそぎ、「二度は人に契るまい」と、を下して容貌を変えようとする未亡人たちをも、所々から捜し出して、貞女の心を失わせた。ひたすら義に殉じようとしてたちまちに死んだ人々が、修羅しもべとなって永い間苦しむ(※修羅に落ちる?)ことは悲しい事である。恥をんでいやしくも生きるを選んだ者たちも、たちどころに貧窮して万人から笑われる立場になったことは痛ましい事である。

中でも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入(※北条高時殿の重恩を得たである上に、北条高時の嫡子である相摸太郎邦時(※北条邦時)は、この五大院右衛門に出来た子であったので、宗繁にとっては甥であり君でもあった。これはどうあっても二心はあるまいと深く信用されていたので、「この邦時をお前に預ける、いかなる手段を使ってもこの子を隠し通し、時が到ったと見れば、この子を立てて亡き々の恨みをらしてくれ」と北条高時が言ったので、宗繁は「一部始終承りました」と了承して、鎌倉の合戦の最中に降した。

そうして二・三日後に、平氏はことごとく滅んだので、関東の者はみな源氏(この場合、新田義貞方)の命に従って、あちこちに隠れていた平氏の一族どもは多数捜し出されることになり、捕えたものは領地をもらい、逆に匿った者はたちまちに討たれる事が多数あった。宗繁はこれを見て、(いやいや運の尽き果てた邦時を助けようとしてせっかく拾った命を失うよりは、邦時の居場所を知ることを源氏の兵に告げて敵対心がい事を示して、領地の一か所でも認めてもらおう)と考え、あるに邦時に向かって「ここにあなたがいらっしゃる事はにも知られまいと思っていたのですが、どうやって漏れ聞こえたのか、田入(※田義新田義貞臣)明日ここへ押し寄せてあなたを捜そうと用意していると、たった今ある伝手から知らせが参りました。今のうちに居場所を変えないわけにはいかないでしょう。に紛れて、急いで伊豆の山の方へ落ち伸びてくださいませ。この宗繁もお供したくはあるのですが、全員がみな落ち延びたならば、田義がさてはと気づいてどこまでも追いかけてくると思われますので、あえてお供はいたしません」と、実そうな顔をして話したので、邦時はここに身を置くわけにはいかないと、五月二十七日の半にこっそりと鎌倉を落ちのびた昨日までは下のであった北条高時の嫡子であったので、ちょっとした参詣や方違えの際にも、身内や外様の大名共が、良に轡を噛ませて、五騎や三百騎前後で彼を囲んで社を往復したのに、時が移れば事が替りゆく世間の有様の浅ましさよ、みすぼらしい使用人一人に太刀を持たせて、伝にも乗らず、破れた鞋に編を被って、どことも知らず、泣く泣く伊豆の山をして、足に任せて行かれるのであった、心中は哀れなものであった。

五大院宗繁は、このようにして邦時を言いくるめて追い出したのであった。そして(自分で邦時を突き出せば、長年の奉の心を忘れた者だと、人にされるだろう。便宜をはかってくれる源氏に討たせて、勲功を分けることで領地をもらおう)と考えて、急いで田義の元に行って「邦時殿の居場所を詳しく聞きだしたので、他の者たちを交えずに討てば勲功は他とは格別でしょう。この情報を教えた忠義の見返りに、私が生活の頼みにする所領を保して頂ける様に推挙していただきたい」と申し出たので、田義は心の中では「悪人の言葉だな」と思いながらも「一部始終その通りにしよう」と約束して、五大院宗繁と共に、邦時の落ちのびたを遮るように待ちせた。邦時はに敵が待っているとも思わず、五月二十八日の明け方に、みすぼらしくやつれた姿で相摸を渡ろうとして渡し守を待っての上に立っていたところを、五大院宗繁は離れたところに立って「あれこそ、まさに例の者です」と教えたので、田の部下たち三騎がより飛び下りて、すぐに邦時を生捕りにした。急な事で輿(※略式の輿。人力乗り物)などもかったので、に乗せた邦時を舟の縄で強く縛り付け、使用人二人にの口を引かせて、鎌倉に入った。これを見聞きした人々で、で濡れた袖をしぼらぬ者はいなかった。邦時はいまだ幼い身であるので、いか程の脅威でもいであろうが、朝敵長男であるからにはさしおくことはできぬとて、すぐ翌日のに密かに首をはねられた。

昔、程(※時代の中国の人物)がが子を殺して幼いのの命にかえたという、また豫譲(※同じく時代の中国の人物)が容貌を変えて(※漆を全身に塗って皮膚をただれさせたと伝えられる)かつての君の恩に報いた(※君のの命を狙う刺客となったと伝えられる)という。そこまでは望めないとしても、長年の君を敵に討ち取らせるなどと、欲のあまりに義を忘れた五大院宗繁の心は滅多にないものだ、人から外れたものだと、彼を見る人はみな差して罵ったので、新田義貞も「なるほど」とこの話を聞き、「五大院宗繁を討つべし」と内々で決定したが、宗繁はこれを伝え聞いて、どこかに隠れ逃げた。だが悪(※人のに背く悪い性質)の罪の身に罰が当たったのか、世間は広いといえども身を落ち着かせられるところもく、多数の以前からの知り合いの中にも一食の食事を与える者はく、遂に乞食のように成り果てて、端で飢え死にしたという。)

十巻の「寿殿信濃事付左近大夫偽落州事」での記述とは食い違うのだが、一切の好感を持てないクズとして描かれている。

クズポイント

  1. 裏切った相手である北条邦時は彼にとって甥であり君であり幼い子供であった
  2. だからこそ「まさか裏切るまい」と亡き北条高時から信頼されて邦時を託され、快諾していた
  3. にもかかわらずが滅びてから間もない時期に裏切った
  4. 裏切った理由が「他の正義のため」であるとか「身内のため仕方なく」などではなく「褒美としての所領めあて」という保身・欲のみ
  5. 一旦降していた描写があり、「邦時を匿っているのではないかと疑われていた」という描写もないので「追い詰められて仕方なく裏切った」とも読み取れない(もちろん匿っていることがバレたら身が危ういとは言えるが)
  6. 裏切る前に「でも自分だけで突き出したら不忠者と世間から後ろされるよな」と小賢しく計算をめぐらせている
  7. そのくせ「一緒に捕まえて手柄を山分けしましょう」といけしゃあしゃあと田義に告げ、相手がドン引きしていることにも気づかない神経
  8. 邦時を騙して出発させるときに虚言を弄し、図々しくも「忠実さからくる進言」だという振りをした
  9. みすぼらしい姿になりやつれた幼子である邦時を見ても心を痛ませた様子もなく「あいつです!」と予定通りに告げた
  10. その後に「裏切ったことを気に病んでいた」といった描写は一切

末路は裏切ってすり寄った相手にも疎まれて殺されそうになり、にも顧みられず飢え死にした、とまで描かれている。不忠をめる教訓を込めるために「お似合いの哀れな末路を遂げる、同情の余地のない不忠な悪役」として描かれている……のかもしれない。

ただし、彼自身にしかわからないはずの「内心」まで描写されていることからもわかるとおり、これはあくまで「物語」であることには注意されたい。

家族

上記の『太平記』の本文によれば

などの家族がいることになる。

金沢貞顕書状』という同時代資料に「太守御物〈常葉前〉、今刻〉御産為之上、男子御誕生」とあり(「常葉前」と「」は横に添え書きされている)、このうち「太守」は北条高時、「」はその側室、産まれた「男子」が北条邦時と見なされるので、名前は「常葉前」だろうと推定されている。

ただし江戸時代末期の系譜集『系図纂要』には北条邦時について「五大院右衛門尉宗繁女」と記されており、かつこの場合の「」は「」と解釈されるそうで、もしこれが正しい(そして『太平記』が誤っている)なら北条高時の側室は五大院宗繁のではなくであり、北条邦時は甥ではなく孫という事になる。単にかなり後世の資料である『系図纂要』の書き間違いともとれるが。

実在性

『大日本史』や『日本外史』といった割と名の知られた歴史書にも掲載されており、そこでは実在の人物として扱われてはいる。

ただしそれらの書籍では『太平記』の記述を元に記載されているようである。そして同時代資料に「五大院」というの者は確認できるものの、「五大院宗繁」というそのものずばりの人物に関する記述は発見されていない。

太平記』はあくまで歴史物語」であって史実そのままを書いているわけではなく同時代資料から推測される史実との相違点も確認されている。それを鑑みると「確実に実在した人物である」とは言い難いかもしれない。

五大院宗繁=五大院高繁?

ただ、北貞時(応長元年(西暦1311年))の十三年忌(死後12年)、つまり元三年(西暦1323年)の法要について記された『北貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)という同時代文書に「五大院右衛門大郎高繁」という名称が見られるとのことで、時代も近い事からこの「五大院右衛門大郎高繁」(五大院高繁)が『太平記』に出てくる「五大院右衛門宗繁」(五大院宗繁)に当たる人物その人ではないか、とされることもある。

それに関連して、この「五大院右衛門大郎高繁」の「大郎」は「太郎」つまり「~の息子」と解釈できるので「五大院宗繁の息子が五大院高繁なのではないか」という考えを提案する人もいる[5]。この考え方ならば、前述の『系図纂要』で太平記と異なり「北条邦時は五大院右衛門尉宗繁のだ」と書いてあることについて「『系図纂要』に書いてある通り五大院宗繁の北条邦時である。そして宗繁の息子が五大院高繁。よって高繁の甥が北条邦時ということになる。『太平記』では五大院高繁のエピソードが書かれているのだが、高繁について何らかの理由での名である宗繁で記されてしまったのだ」と整合性を付けられなくはない。

フィクションにて

太平記』を題材にしたフィクション作品に登場することがある(『太平記』自体も、事実を元にしているとはいえ脚色が加えられたフィクション物語ではあるが)。例えば吉川治の歴史小説『私本太平記』など。

ただしあくまで「脇役の裏切り者」扱いであったため、歴史に詳しい人以外には五大院宗繁という人物の知名度が高いとは言えなかった(この時代そのものが、戦国時代などとべるとフィクションの題材としてあまり人気いという事情もあるだろう)。

だが、有名少年漫画雑誌週刊少年ジャンプ』に連載された松井優征による漫画作品『逃げ上手の若君』にて2021年に登場し、印的な描かれかたをされたことで五大院宗繁の知名度が上昇したようだ。ちなみに同作では彼について「日本史上屈鬼畜」としつつ、武勇に優れた強敵として脚色を交えた描写がなされている。

前述のように『太平記』では、五大院宗繁の族としてはの子である甥の北条邦時のみが登場している。だが「五大院宗繁の子孫」が登場するフィクション作品もある。例えば江戸時代の戯作者「山東京伝」による読本『双記』の要人物は「小」とその吉」という美形の姉弟だが、この二人を育てたの駕籠かき「兵衛」が実は五大院宗繁の息子であったと作中で明かされる。

余談

日本史には、他にも「ごだいいんむねしげ」と読む武将「後醍院宗重」がいる。戦国時代江戸時代の人物で、島津などに仕えた。

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関連項目

脚注

  1. *盛高も岩木ならねば、心計は悲しけれ共、心を強く持て申けるは」(盛高も心のい木石ではなく、悲しくはあったが、心を強く持って話したことには)
  2. *引用元では「弐ろ」となっていたが、引用者は「弐心」の誤りと判断した
  3. *同上
  4. *引用元では「■れ姿」となっていたが、引用者の判断で文字を補った
  5. *五大院高繁 - Henkipediaexit
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