井伊直弼 単語


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井伊直弼とは幕末政治家彦根並びに徳幕府大老である。

概要

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文化12年(1815年)、彦根・井直中の十四男として生まれる。は側室の富。幼名は之助、後に三郎

保2年(1831年)、直中の逝去に伴い別邸(槻御殿)から御用屋敷(尾末町屋敷)に移り、300俵の宛行扶持(あてがいぶち)を与えられて部屋住み生活が始まったとされる。側室の子(庶子)であることからに就任する可性は極めて低く、他への養子や出以外に部屋住み生活から抜け出す手段がかったため、長い間不遇の生活を送ることになる。但し、生活が苦しいものだったかについては近年の研究によれば否定的な見解もある。

庶子時代

保5年(1834年)、井の直恭と共に他への養子補として江戸に赴いたが、養子縁組が成立したのは直恭だけで自身は採用されなかったため彦根に戻ることとなった。この時期、自らの不遇に対する自嘲的な意味を込め、住居の屋敷を「埋木舎」と名付けた。

さつ事も うきも聞きしや 埋木の うもれてふかき こころある身は

部屋住み生活から抜け出す処が立たない井は、その不満を昇するため剣術、兵学、茶道などに注力する。剣術では神心流(のち新心流)なる流を立て、極意書「神心流柔居相如極意抄」「神心流柔居相表之巻」を著す。ではの修養に傾倒し、当時名僧と呼ばれた州仙から悟の印可明を与えられる。茶道においても一を開き、「栂尾美地布三(とがのおみちふみ)」「入門記」といった論書を著す。

他にも茶の湯における懐石料理の在り方について述べた「懐石」や、「実那良夢物語(まことならぬゆめものがたり)」なる伊勢物語パロディ小説和舎人という筆名で執筆したり、中世の勅撰和歌集を模倣した和歌集の編纂に取り組むなど、趣味頭することから「チャカポン(・歌・鼓)」と渾名された。

一時期は出することを真剣に考えており、保14年(1843年)頃には彦根長浜別院大通寺から井を迎え入れたいという請願が出され、井自身も乗り気であったがからの圧力により取りやめになった。当時世子であった井直元に子がおらず、井がその養子になる可性があったためという。

化3年(1846年)、その直元が急死した為、思わぬ幸運に見舞われることになる。

世子時代

化3年正月で世子の直元の急死により、江戸に呼び出された井は直元に代わって・井(なおあき)の世子となった。この時の気持ちを彦根重臣・塚正陽に対して

不思議に存じ程の事、実にもって御高恩身に余り、駕中にて落に及び

「実に事、この度の昇進は尋常の事にあらず、如何にもして出でまじき身 の不思議なる昇進、是全く御厚恩と申、(かたがた)行々一通りの事にては相済難く、身の加も悪敷と存じ間、今より密々仁政の鍛錬のみ専一に心懸け 申し

と伝え、意外な昇進に対する驚きと、政への意気込みを語っている。

2月には初めて江戸城に登。第12代将軍・徳川家慶に謁見し、一部の譜代大名にのみ詰める事を許された溜間(たまりのま)に入り、将来の彦根として儀礼や登を務めるようになる。諸大名との付き合いも当初は戸惑っていたがやがてしくなっていった。特に会津容敬とは同じ溜詰の大名として強い信頼関係を築いた。

にとって希望に満ちた新たな生活が始まったかに見えたが、同時にとの確執が表面化し始める。

は先代で両者のである直中からも遺言状で「愚物であるから自分が死んだら隠居させよ」と名しで批判されるような人物で、政を省みようとしないことから諸大名や幕臣、更には配下である彦根士からの評価も散々なものだった[1]

江戸での生活中井は直から執拗ないじめを受ける。化4年(1847年)正月、第11代将軍・徳川家斉とその実の徳治済の法事に出席するため官を用意しなければならなかったが、直から横が入り用意することが出来ず、く仮病で欠席するという事件が起きている。

また2月に幕府から彦根に対して相模湾の警備を命じられると、格に見合わない役割であるとして反発する意思を伺わせ、直重臣に対する批判を強めており、警備兵の不備について他から陰口をかれていることに対して何ら処置を取れない自分の遇に苛立ちを募らせていた。

このような状況に加え、家老評議による政策決定を行わないなど彦根代々の慣例を守らない直に嫌気が差した井は将来に向けて士の中から有為の人材を探し始める。また、かねてより世評の高かった学者の長野義言()を自らの学の師として招き、士達に長野門人になることを奨励している。

嘉永3年(1850年)9月、直が逝去すると井は次期として政改革に乗り出した。

藩主就任

嘉永4年(1851年)11月21日、井は正式に彦根に就任すると人事の大幅な刷新を開始した。直の行状を諌めなかった重臣達を左遷し、有名実化していた家老評議の正常化に努めた。

次に政の方針として「領民との一和」「言路洞開」「文武忠孝・礼儀廉恥」「人材登用」など八箇条からなる御書付を通達し、直遺産として合計15万両と1万俵を彦根内に配布した。(但し15万両については彦根の財政面から見て金額が多すぎるため、実際にはもっと少ないのではと言われている)

嘉永5年(1852年)4月学の師である長野義言を正式に士として召抱える。この時期から長野の門下生が急速に増加し、政に携わる人物の大半が長野門人になり力を高めていく。

黒船来航とその対応

嘉永6年(1853年)6月米国の艦隊がに現れる。当時井江戸から彦根に戻ったばかりだったが、知らせを受けると米国からの書の写しを士達に見せ意見を提出させた。大半が戦論であったが井の最終判断により幕府に対し「初度存寄書」「別段存寄書」の二度に分けて交易容認論を提出することとなった。この二通の上書において井海外交易による富強兵をし、武備が整った時点で鎖国に戻すという条件付きの開論を展開した。

嘉永7年(1854年)1月、再度来航した米国艦隊への対応が幕府で協議される。ここで井水戸徳川斉昭と和か打払いかで対立する。結局井をはじめ溜間詰大名や老中らの意見が多数を占め、3月3日に日条約が調印されるが、以後斉昭は井にとって最大の政敵となる。なお、この時期既に溜間では井を大老にしてはどうかという密議があったとされるがこの時点では実現していない。

翌安政2年(1855年)再度米国艦隊3隻が下田に来航し、清国との交易のため日本沿の測量を願い出ると、幕閣間の意見をまとめきれない老中首座・阿部正弘は参与を辞任していた斉昭に再度諮問。斉昭が拒否することをめると阿部はそれに従い、要受け入れ忠優(ただまさ、後忠固)・乗全(のりやす)の二老中を罷免した。

これに反発した井は溜間詰大名の代表としてその意向を反映するように阿部抗議した結果、阿部は溜間から佐倉堀田正睦を老中に推挙。そのまま老中首座の地位を堀田に明け渡した。しばらくの間堀田を補佐していたが、安政4年(1857年)6月阿部は病死した。

南紀派対一橋派

この時期外交問題に加えて、次期将軍にするかという新たな問題が浮上していた。第13代将軍・徳川家定病弱であったため、次の将軍にするかで諸大名の間で意見が別れる。

自身は血統重視の立場から定に血筋の近い紀州の徳慶福(茂)を当初から支持しており、紀州江戸詰め家老水野忠央(ただなか)や老中・松平忠固も慶福擁立で、これらの一は南紀と呼ばれる。

一方越前福井松平慶永薩摩島津斉彬国家の重大な危機に対応出来る力を持つ人物を将軍に据えるべきであるとし、一徳川慶喜を次期将軍として支持した。他には伊達宗城、土佐山内豊信や、阿部正弘によって抜された開明幕臣達、そして当然のごとく水戸徳川斉昭が同様に慶喜を支持した。この一は一と呼ばれる。

双方で将軍継嗣に関する勅諚を得るため、福井からは橋本左内薩摩からは西郷隆盛、そして井長野主膳京都派遣して朝廷工作に当たらせた。橋本西郷はそれぞれ君の命に従い慶喜を次期将軍にとの勅諚を得るため活動していたが、長野関白九条忠尚(ひさただ)の臣である島田左近と謀り、九条を味方に付けてこれを阻んだ。なお通商条約勅許については当時上京していた堀田正睦川路聖謨岩瀬忠震などが朝廷に働きかけていたが取得に失敗しそのまま江戸に戻っている。

安政5年(1858年)4月22日、井の元に定の小姓を務めていた薬師寺元が訪れ、斉昭が定に対して謀反を企てている事と、大老就任の依頼を伝えた。臣と相談した結果承諾することにした井は翌23日に登し、大老職を拝命した。

大老就任

の大老就任の日、一岩瀬忠震をはじめ防掛の幕臣達が老中らに対し、力に疑問があるとして抗議する騒ぎを起こしたが、老中らは「飾りのようなもの」と受け流した。

大老に就任した井は手始めに通商条約調印とその勅許について決着をつける必要に迫られた。井としては勅許を貰ってから条約調印に漕ぎ着けたいと考えていたが、米国総領事ハリスから申し渡された期日に間に合わないと見た堀田正睦松平忠固から反対され、現場責任者岩瀬忠震井上清直の両名を引見。勅許を得られるまで出来る限り引き伸ばすよう命じたが、岩瀬井上から、これ以上交渉引き伸ばしが不可能と判断した場合の調印の可否について質され、その場合はやむを得ないと回答した。これを大老からの言質と取った二人は6月19日に日修好通商条約に調印した。

この時井臣とのやり取りの中で、諸大名との合意を取らなかった事を理由に大老を辞任する意志を漏らしたが、臣の諫言によって持ち直し、今後の足場固めのため人事刷新を実行に移すことにした。まず大老就任を支持していた老中・松平忠固の罷免を決定。これについては忠固が井の大老就任後に何故か露に反発するようになったためとされる。次いで条約勅許の取得に失敗した責任者として堀田正睦の罷免を決定。6月23日をもって両名を老中から罷免した。

24日、松平慶永徳川斉昭事前の同意を得ずに登し、勅許しに条約調印したことと将軍継嗣問題について井を非難した。井は取り合わず、逆にこの件を利用して慶永や斉昭を謹慎に追い込む。25日、諸大名を総登させた井は、次期将軍が徳慶福に内定したことを正式に通達した。

違勅調印に関して朝廷から呼び出しを受けた井は代わりに老中に就任させた間部詮勝を京都に向かわせることに決め、その下準備として長野主膳を上させた。8月京都に到着した長野水戸工作により朝廷から条約調印に関する非難を記した勅諚が降下されたことを聞きつけた。(午の密勅)

幕府を経由せず直接勅諚が下されたことを水戸による謀略として問題視した長野は井に状況を報告。勅諚の件を知った井底的な弾圧を加える決意を固めた。

安政の大獄

安政5年から6年にかけて行われたこの大によって多数の人材が命を奪われ、または活動停止を強いられるに至った。最も著名なところでは吉田松陰橋本左内の他十数名が死刑もしくは獄死し、一された大名・幕臣・卿・諸士・民間人数十名が隠居・謹慎といった刑罰を受けた。

この間京都では井の代理として派遣された間部詮勝の説得工作により孝明天皇から「慮氷解」という一応の条約調印への理解を得ることに成功した。また、水戸に対しては午の密勅を幕府に返納するように要しこれを受け入れさせた。

これら一連の動きにより全の尊王攘夷運動は一旦収束するかに見えたが、水戸ではが不穏な動きを見せ始め、井の周辺にも用心するようにとの情報が入り始めた。安政7年(1860年)2月水戸が一部脱し、江戸彦根邸に侵入襲撃する計画が露見し、未然に防がれる事件が起きている。2月下旬には再度脱者が現れ、3月3日の端午の節句に伴う井の登に合わせて襲撃計画を立て始めた。

桜田門外の変

安政7年(1860年)3月3日午前9時頃、の降る中登中の彦根行列に訴状を掲げた男が立ち塞がり、取り押さえようとした士が近づくと突然を抜いて切り斃した。次に駕籠に向かってピストル弾が打ち込まれ、それを合図に十数名の刺客が一斉に襲いかかった。

数人の士を斃して駕籠に近づいた刺客達は引き戸越しにで滅多突きにし、中にいた井を引きずり出すと首を刎ねてに突き刺し、「井掃部殿々」と絶叫して走り去っていった。

以上数分の出来事は多数いた撃者によってたちまち広がり、江戸中が引っ繰り返ったような大騒ぎになった。現場には死体、血、切断されたが散乱する凄惨な有様で、他行列は見て見ぬふりで登せざるを得なかったという。

の首を持ち去った薩摩浪士の有村次左衛門は追っ手に致命傷を負わされ、若年寄・遠藤胤統の屋敷で力尽きて自害した。その後遠藤邸に彦根士達が押し掛け首の引渡しを要しそのまま邸に持ち帰った。君を討たれた彦根では水戸と一戦交えるべしという気運が高まり、水戸との間に緊が走ったが、幕府の仲裁により沈静化した。

幕府の法では大名が不慮の死を遂げた場合は名断絶、領地収することになっていたが、その場合譜代筆頭の彦根を潰すことになってしまい、喧嘩両成敗という観点から水戸に対しても厳罰を加えることになるため、幕閣が二の足を踏んだ。困惑した幕閣達は応急処置として井はまだ生きている事とし、約2ヵ後の3月30日に養生わず死去したと公式に発表した。彦根に対しても御断絶はしないことを約束し、闘争寸前に至った水戸との対立に止めをかけた。

この事件を機に幕府の弱体化が露呈され、全各地で変革を志す人々が台頭。本格的な動乱が始まる。

人物評

一般的な歴史教科書等では「不等条約である日修好通商条約の締結を強行し、反対を安政の大粛清。結局桜田門外の変で暗殺された。」とヒール側で教わることの多い人物であるが、第1回の大河ドラマである“の生涯”等の作品により近年再評価の機運が高まってきている

「大老井掃部頭は開論を唱えた人であるとか開義であったとかいうようなことを、世間で吹聴する人もあれば書に著わした者もあるが、開義なんて大嘘の皮、何が開論なものか、存じ掛けもない話だ。井掃部頭という人は純雑、申し分のない参河(みかわ)武士だ。江戸大城炎上のとき、幼君を守護して紅葉山に立退き、周囲に枯れの生い繁りたるを見て、非常の最中用心なりとて、(みず)からの一を抜いてそのを切り払い、手に幼君を擁して終外に立ち詰めなりしという話がある。またこの人が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、これは攘夷論を悪(にく)むためではない、浮浪の処士が横議して徳政府の政権を犯すが故にその罪人を殺したのである。これらの事実を見ても、井大老は真実間違いもない徳の譜代、剛勇二の忠臣ではあるが、開鎖の議論に至っては、闇(まっくら)な攘夷と言うより外に評論はない。ただその徳が開であると言うのは、外交際の衝に当たっているから余儀なくしぶしぶ開論に従っていただけの話で、一幕捲(まく)って正味の楽屋を見たらば大変な攘夷論だ。こんな政府に私が同情を表することが出来ないと言うのも理はなかろう。」

(福沢諭吉『福翁自伝』)

「変報を聞いたのは三日の正午であった。くわしく聞きたいと思って、の中を友人の宅に行ったところ、いずれも皆愉快愉快と叫んで、一人として憂え悲しんでいる者は、幕府の進歩党や開党の中にはなかった。森山多吉郎氏のごときは、これから開の気運が盛んになるであろうと、うれしげであった」

(福地痴『懐往事談』)

「こうなると、井は攘夷党からも開党からもきらわれていたと言わなければならない。井愛国心がなかったとは思われない。尊王心がなかったとも思われない。幕府にたいする忠心はもちろんあったはずだ。だのに、こんなにきらわれたとは、気の毒な人である。」

政治家は志がよければそれでよいというものではない。うまくやらなければならない責任がある。うまくやれなかった政治家は当代からも後世からも非難されることを覚悟しなければならない。」

(音寺潮五郎西郷隆盛』)

問「掃部守様とか水戸様とかいう評判はありましたが、掃部守様の評判はどうでした?」

答「掃部守様は、評判の良い御方でございました。桜田一件の後に、部屋の者を御寺詣りに遣りました。あの御方は、の方では昭徳院様を大切に思ってを折って下さる御方だと、こう存じておりました。水戸様の方がよほど悪いと申しました。」

(旧事諮問会編『旧事諮問録』)

「ちなみにいう、掃部守は断には富みたれども、智には乏しき人なりき。しかしてその動作何となく傲にして、人を眼下に見下ろすふうあり。けだし体肥満して常に反身をなせるより、自ら然か見受けられしものか。」

(渋沢栄一編『昔会筆記』より、徳川慶喜言)

「外の事起りしより、志士の論日に盛にして、其紛擾時に至て実に極れり、然れば当事者の苦心経営、正機の運転に窘(くるし)む論を俟(ま)たず、直弼其間に処し、其責全く一人に帰し、隻手狂(せきしゅきょうらん)を挽回せんとす、其是非毀誉(きよ)は、(しばら)くこれを問ふを要せず、進んで難衝に当たり、一身を犠牲に供し、毫(みじん)も畏避の念なく、躬盡(きっきゅうじんすい)以って数世知遇の恩に報ぜんと欲す、豈大丈夫と謂はざるべけんや。」

(勝海舟『開』)

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関連項目

脚注

  1. *ただし、周りの評価が散々なのは洋書などに傾倒するいわゆるが原因と思われる。本人はどちらかというと開明的な人物であり、先の見えないタイプだったわけではない。
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