井手正敬は、日本の実業家である。
西日本旅客鉄道の元社長・元会長として知られる。
1935年福井県生まれ 東京都立戸山高等学校、東大経済学部を卒業し国鉄に入社した。
東海旅客鉄道の故・葛西敬之、東日本旅客鉄道の故・松田昌士とともに国鉄改革三人組の一角を占め、社内でその手腕を発揮した。
もっとも、葛西氏と同様に(労組と距離を置いたりするなど)右寄りとして知られる反面、最初は強硬路線だったとはいえ民営化後から晩年までJR総連と蜜月関係であった松田氏とは(これまた葛西氏と同様)方向性の点で対立した。松田氏が関与したJR総連からの鉄労脱退騒動についても、鉄労から相談を受けた際には「辞めとけ」と忠告しており、結果鉄労は松田氏から梯子を外されたため忠告通りとなった(なお、後に鉄労がJR連合を設立する際には国鉄職員局出身の葛西氏と共に仲介に入った)。
平成中期にはリニア技術の中国への提供の是非をめぐり葛西氏とともに手を組み反対派となり、賛成派の松田氏と再び対立した。
葛西氏とは中でも特に、社内で絶対的な権力者として君臨した点でも共通し、それぞれ「葛西天皇」「井手天皇」として社内から恐れられていた。
しかし、2005年に起きたJR福知山線脱線事故がその揺るぎようのないと社内の誰もが信じていた無敵の強権体制に終止符を打ち、しかも昭和の中曽根内閣による国労潰しに井手が従った結果としての、要するに労組活動最盛期からの反動としての側面もあった日勤教育の実態が明るみになり、1992年から社長・会長、そして相談役として続けてきた職を井手は責任をとって辞することになった。
いまでも脱線事故の遺族にとって不倶戴天の敵として恨まれ続けていると言われており、井手自身も面会を避けているとのこと。
2020年に松田氏、2022年に葛西氏が亡くなったことで最後の国鉄改革三人組の生き証人となった。
最後の1人となったことで、国鉄改革を語るためにインタビューに応じることもある。なお、インタビューのなかで「JR東海とJR西日本の統合」について葛西が進めていたと語ったことがあるが、これは「JR西日本がJR東海を吸収するという形での統合」をJR西日本側が目指していたものである。葛西敬之はこのことを生前に自著でも触れており、JR東海側も後日社長会見で「JR西日本側(井手氏側)からそう言われたと生前の葛西から聞いている」と否定した。
同じ国鉄改革三人組の葛西敬之からみた井手正敬はエリート畑の人間であり、マル生運動の失敗から臥薪嘗胆していたとしている一方、井手氏は当初から分割民営化を考えていた訳ではないと語っている。
また、分割民営化当日に2人は同じ始発のひかり号に乗車し会社のある名古屋・大阪に向かっているが、その際にはお互い多くは語らなかったという。
また、阪神淡路大震災後の大阪への新幹線指令所の設置、700系の共同開発は2人の会談により決まったことである。
一方、政治的な案件が発生した際には考えの相違が異なる場面もみられた。井手氏の影響力がJR西日本で大きかったため、井手氏のあとにJR西日本の社長となった南谷昌二郎(国鉄職員局で葛西の同僚)が葛西氏からの問い合わせの電話に申し訳なく対応したことに「井手氏のもとではそうするしかなかったのだろう」と感じたという。
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最終更新:2025/12/07(日) 18:00
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