OB | |
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井本隆 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 高知県高岡郡 |
生年月日 | 1950年11月21日 |
没年月日 | 2015年1月21日 |
身長 体重 |
179cm 74kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1972年 ドラフト3位 |
引退 | 1984年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1950年11月21日生まれ。高知県高岡郡(現:土佐市)出身。
伊野商業高等学校に進学。2年秋からエースとして活躍したが、甲子園大会には手が届かなかった。
卒業後、鐘淵化学に入社。1971年・1972年には、都市対抗野球大会に2年連続で出場。1972年の産業対抗野球大会では準優勝に貢献し、敢闘賞にも選ばれている。
1972年ドラフト会議にて、近鉄バファローズから3位指名を受け入団。同期入団には仲根正広・有田修三らがいた。
1974年、プロ初勝利を含む2勝を挙げ、防御率3.88を記録。
1975年、シーズン終盤から先発投手に回り、4勝1敗、防御率2.48を記録。
1976年からは先発ローテーションに定着。1976年、6勝11敗。1977年、7勝9敗と2年連続で負け越したが、いずれの年も防御率は3点台半ばと、まずまずの投球内容であった。1978年は9勝7敗で勝ち越している。
1979年、チームのエースとして活躍し、オールスターゲームにも初出場を果たす。最終的には15勝4敗1セーブ、防御率3.61と好成績を残した。パ・リーグプレーオフでは初戦に先発登板し、7回を無失点に抑え勝利投手となり、プレーオフ優秀投手賞に選ばれるなど、パ・リーグ制覇に大きく貢献した。
1980年、NPBシーズン被本塁打数2位となる42被本塁打を喫するなど、一発病に泣かされる場面も目立ったが、それでも15勝8敗1セーブ、防御率4.37と勝ち頭として貯金を作った。パ・リーグプレーオフでは前年同様初戦に先発登板し、完投勝利を挙げてパ・リーグ2連覇に大きく貢献している。
しかし、その後は1982年に11勝を挙げているものの、女性タレントとの不倫が報じられるなどスキャンダルに見舞われた。
1982年シーズンオフ、環境を変えるため移籍を志願し、鈴木康二朗らとのトレードでヤクルトスワローズへ移籍。
1983年、シーズン通して先発ローテーションの一角として起用されたが、6勝14敗(セ・リーグ最多敗戦)、防御率5.45と今一つな内容に終わる。
1984年、1勝4敗1セーブ、防御率4.93という成績に終わり、同年限りで現役を引退した。
引退後は、音楽関連の企業で働く傍ら、都内でクラブの支配人としても活動していたという。
2007年頃からは少年野球チームの総監督としても活動していた。
シュートを武器とし、正確なコントロールで内角を厳しく攻めることで活躍した右腕。
晩年は女性スキャンダルに加え、セ・パの野球の質の違いや、スピードガンの登場など様々な要因が悪い方向に働き、不調に陥っていた。
通算:12年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 320 | 67 | 10 | 81 | 75 | 8 | --- | .519 | 1490.2 | 432 | 625 | 761 | 675 | 4.08 |
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最終更新:2025/03/28(金) 09:00
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