京都市単語

キョウトシ

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京都市とは、京都府南部都市京都府の府庁所在地で、政令指定都市京都府の人口の半分以上を占める。このような全都道府県人口の過半数となるプライメイトティは全では京都市だけである。

基礎データ
面積 827.90k
人口 147万人
(全第7位)
の木 シダヤナギ
タカオカエデ
カツラ
ツバキ
ツツジ
サトザク
行政区 北区
上京


東山区

南区
右京
伏見
山科区
西
大津区
紋章 京都市紋章

京都の地図

概要

内外から年に5000万人近くが訪れる、日本有数の観光都市1200年の歴史からくる伝統を維持しつつ、時おり新しい文化を取り込んでいく町である。ただ、最近はちょっとばかりあさっての方向にぶっ飛んだ挙句「狂都」と称されることもある。

関西以外からは観光産業と伝統工芸がと思われがちだが、昔から「伝統工芸」として工業が発達していたからか、京セラ島津製作所村田製作所(現在長岡京市に移転)、日本電産、オムロンなどの先端技術企業任天堂、ワコールタキイ種苗などの業界トップの本社を抱える工業都市でもある。元々江戸時代から江戸武士の町、大坂商人の町、は坊さんと職人の町といわれている。また京都は、保守的に見えて進取的で、新しいもの好きである一面もあり、これが先進的な工業を生む土壌を作った。

また、京都市は京都大学同志社大学立命館大学龍谷大学佛教大学ノートダム女子大学など大学を多く抱え、一説には50万人近い学生を持つ「学生」でもある。「一見さんお断り」や独特の表現・文化など、いわゆる「よそさん」にとっては厳しい一面も持つのだが、学都、文化の都という自負も強いためか学生に対してはなんか理解があり優しい。自由な校学生自治の伝統から来る京大生のフリーダムぶりはよく知られる。

そして、京都市は決して観光写真で見るような”平安京ランド”なんかではなく、普通に大都市である(大体、人口150万も居て古都のままなわけがないだろ、常識的に)ビジネス烏丸七条や官河原三条などはモダンビルが建ち並び、繁四条河原町四条烏丸などには商業ビルがひしめき合う。そして、七条八条の間に位置する京都駅博多駅ぐ現代的な巨大ターミナル駅である。ただ、後述する観条例があるために高層ビルを作れないだけである(そのため、京都市内の超高層ビル南にある日本電産ビル1本だけである)。逆に、その規制が存在するため、地は東西南北に発展していき非常に広大となり、京都駅の南(南)も八条通、九条通、十条通、久世通と開発されていき、単純な地の広さだけなら福岡札幌をもいでいる。

また、都市雇用圏人口は札幌福岡ぎ、全で4位(約260万人)である。

京言葉(京都弁)

京言葉に京都市旧で話される方言で、TVドラマ等を通じてよく知られている方言の一つ。遠まわしな表現や敬語が多用され、なるべく柔らかい口調でがたたないような表現を用いるのが特徴。また独特の彙も多い。ちゃんと話せる人は実は少ない。詳しくは京言葉の記事などを参照。

よく言われる「ぶぶ漬け=帰れ」は、実際には「今はぶぶ漬けみたいな粗末なものしかお出しできないからまた日をめてお越しください」を意味するか、もしくは「食事を勧める→客人に食事時の訪問(=常識的に考えれば失礼な行為)であるということを暗に気づかせる」ということを狙ったものであるとされる。誤解を恐れず簡単に言うと、「空気嫁」をお互いの対面を保ちつつ表現するための方法なのである。桂米朝によれば、京都の人は質素倹約な人が多く、そのためお客が来ても満足させられるような食事は出せないという事情もあったフォローしている(茶漬けという落語の演にもしている)。
なお、これ自体あくまで「京都における遠まわしな表現」の喩えであるため、この体験を実際にした人がどれだけいるかは定かでない。

また、京都の人はどこから来ても「田舎からよく起こしやした」と言うので、に受けてしまう人がたまに機嫌を損ねてしまうが、はずっと日本の中心であったこと、それは摯に受け止め、普通にやり過ごすべし。逆に、煽てにはすごく弱く、褒めちぎれば仲良くなれることが多い。

あと、京都といえば「~どす」という芸の言葉が有名だが、一般人は全く使わない。この言葉で他地方の人がからかうと、本当に機嫌を損ねさせるドスのようなものを突きつけられるかもしれないから注意すべし。だが「おこしやす」という挨拶や「~してはる」という言い方は男の人も普通に使っている。

そのほかの豆知識・トリビア

歴史

  • 平安京の時代から続く大都市。何度も戦争火事で焼けては、甦ったしぶといである。
  • しかし、そもそも平安京創建時の計画は予算不足で途中で頓挫し、さらに西半分(右京)は湿地帯であったために、旧来のは東半分(左)しか栄えなかった。それに戦火や火災で何度も焼けているので、現在京都は「平安京の土台の上にある都市」と考えた方がよい。
  • なお、京都に行くことをというを用いるが、この「」とは元々、朝廷のある左を意味した。そして、京都中国の長安(今の西安)、そして陽にを受けており、右京を長安、左陽と呼び分けていたからである。なお、室町時代ぐらいまではに出向くことを上京という言葉も使っていたことがあるらしいが、江戸時代には既に上京とは江戸に行くことも意味していた(そもそも、上京とは諸地方在住者が都に出向くことをした)らしく、今日上京というと、上京(かみぎょう)区と紛らわしい理由もあるため、京都市民でもほぼ東京方面へ行くことを意味している。また、は京都市し、中心地を中、近郊の開発エリアをそれぞれ南(八条通以南)、北(北大路通以北)、東(東大路通以東)、西(西大路通以西)と呼んでいる。
  • 凄惨な争乱が複数回起こっているため、「昔たくさん人が死んだ病院」「戦国時代に大名が殺された土地」などが心霊スポットとして取り上げられた際には「そんな程度で幽霊が出るなら京都幽霊だらけやろ」というツッコミに使われる。
  • 地面を掘り返すと、高確率で何かが出てくるという土地。地下鉄一本通すのも一苦労。東西線はそのために、とてつもない建設費用がかかっている。
  • 第二次世界大戦の戦火をあまり受けていない(勘違いしている人もいるがゼロではない)ため、京都市民が「先の大戦」と呼ぶ場合、その大戦は都が焦土と化した応仁の乱であると言う人もいる。
  • 京都こそが都だと信じてやまない人も多い。なお、大阪には一置いている人と敵視している人の両極端に分かれる。そのため、京都では阪急よりおけいはん(京阪)に着がある人が多い京阪の本社は大阪の枚方だけど)。また、関西No.2の座を饒って神戸とも争っている人もいるが、基本は京阪神三都の仲は悪くはない。
  • 天皇文化財を東京に奪われたことは未だに根に持っている人(特に年配層)が多く、「田舎からよく起こしやした」という発言は東出身を嘲け笑う近世からの習である(実を言えば、東以外の他地方出身者になら言わない)。今もその遺恨は根強く残っており、京都企業大阪と違い、本社を東京に移すことはない(ふとんの西川東京に集約しようとしたが、結果的に京都東京大阪に本社を残すことになった例など)。一方で、大阪への対抗意識なのか不明だが、大阪よりいちく在チェーン店を誘致したり、なぜか歴史的に読売巨人軍ファンが多かったり、よくわからない立ち位置である。

土地・地理

京都と景観

その他

各区の概要

きわめて域が広いこともあり、各区に名所旧跡が残るほか、各区内ですら全く特徴が異なる様々な地域が存在する。世界遺産定されている施設に関しては『古都京都の文化財』が詳しい。

区の順番は上記の表内の順に。各施設の並びは五十音順、通称がある場合は通称の方を採用している。

北区

金閣寺や左大文字立命館大学のお膝元で有名な衣笠電車庫を再開発し副都心エリアとして発展した北大路駅など区内面積は広い。衣笠の裏山も北区で、氷室や原といった開発の進んだ地域から真弓阪といった山間部集落までその形態は多

上賀茂神社(かみがもじんじゃ)
正式には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)。神様る。京都三大祭の葵祭で知られる。左区にある下神社とともに世界遺産。下神社は「」だが上賀茂神社は「賀茂」である。
金閣寺(きんかくじ)
正式には鹿苑寺(ろくおんじ)であり、閣はその中の構造物。金閣寺というのはあくまで俗称である。北山文化一の遺構。いつ行っても観光客しかいない。世界遺産戦後まもなくは宝だったが、あっち系の修行僧に燃やされ、その史実から三島由紀夫が「金閣寺」を著した。現在建物は将来、再び宝に定されるようにと忠実に再現したもの。
大徳寺(だいとくじ)
名物和尚と枯山の石庭で有名な臨済宗大徳寺の総本山京都五山に向かったために格を貶められ、そのいせに五山制度を脱退し、独自の寺を掲げた。
平野神社ひらのじんじゃ)
の名所と大学学生の溜まり場として有名な神社内には200種類のが植えられている。平成30年台風21号によって拝殿が倒壊、多くのの木が倒されるなど甚大な被害を受けた。上京区にある北野天満宮とは最短ルートで徒歩約3分の位置関係にあり、間に古いの名残を残す上七軒(かみしちけん)がある。

上京区 -かみぎょう-

上京(じょうきょう)にあらず。京都御所や西織で有名な西などを持つ地区であり、かつては朱雀大路が通る(現在は千本通)都の中心部であった。京都府庁やKBS京都なども上京区にあり、特に京都府庁は明治期に建てられた美しい旧本館と昭和天皇御大礼記念として建てられたモダン建築の旧警察本部が有名で、府庁旧本館は重要文化財に定されている。また、御所の北には金閣寺銀閣寺大本である相寺、関西の名門同志社大学が隣接。そちらにも相寺の歴史を伝えたるもの、あるいは京都におけるキリスト教史、さらには同志社大学が収集した資史料など、重な文化財が残されている。

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)
遷都直後、桓武天皇との政争に敗れ憤死した王の祟りとされる疫病の流行があり、それを鎮めるため建立された。その後で政争に敗れた者の祟りが伝えられる度に祭が追加されたり変更されたりして、現在は「崇天皇王)」「井上皇后」「他戸王」「藤原大夫人(藤原吉子)」「大夫(逸勢)」「文大夫(文室宮田麻呂)」「火雷神(ここまでの6人の荒、つまり霊だが、名前から「菅原道真」とするなど諸説あり)」「吉備大臣(吉備備)」の八柱を「八所御霊」としてっている。
実はこの上御霊神社のある地は、遷都以前からの当地族「出雲氏」の拠点であり、今でも「出雲路」という地名に名を残しているほか、この神社自体も出雲氏と深く関わっているという説がある。また後の世には応仁の乱がこの地から始まったりと、京都歴史に深く関わっている神社
北野天満宮(きたのてんまんぐう)
言わずと知れた天神さん。シーズン受験シーズンは賑わう。菅原道真の怒りを鎮めるために作られた。実は太宰府より歴史は新しい。一方で、紅葉シーズンは閑散としていたため、周囲の活性化対策もあってカエデを植した。
京都御所(きょうとごしょ
かつての内裏を保存したという位置づけになっている施設で、遷都の頃の位置からは移動しており、現在の形は幕末1855年孝明天皇の時代に再建されたもの。殿(ししんでん/ししいでん)や清殿(せいりょうでん)といった建物や、禁門の変の舞台となり、未だにその時の弾が残ることで知られる御門などがある。
明神社(せいめいじんじゃ)
安中期に活躍した陰陽師安倍晴明った神社安土桃山時代には荒したが、ここに隣接して千利休の屋敷があったと伝えられ、内にある「清明井」には清明だけでなく利休にまつわる伝承も残されている。

左京区 -さきょう-

京都駅から東側にあるのが左区。右京区と並びセレブが多い区。特に南寺界明治時代別荘地として分譲され、大企業創業者の旧邸が多い。白川通はノートダム女子大のお膝元であり、沿にはおしゃれな店が多い。また、吉田周辺は吉田神道で有名な吉田神社京都大学キャンパスがあり、一帯には古書店が多く、ミニ神田神保町といった趣がある。この一帯は天下一品など、京都ラーメン戦地としても知られる。下神社近くで合流する賀茂川高野の合流点は「鴨川デルタ」とも通称され、「歴史ある京都」とはまた違う京都が味わえる人気スポット。また北山通り沿いには京都府大学京都工芸繊維大学の他、デートすると別れるというジンクスで有名な(?)京都市立植物園(そもそも植物園は男のが試される場所なんて言われてるし…)がある。
一方で吉田からさらに北上すると、地部から見える北山(五山送り火の「妙法」)の裏に入ることになる。叡山電鉄線沿いの宝ヶ池、岩倉市原郊外住宅地として開発され、岩倉宝が池のほとりにある京都際会館は1997年に「京都議定書」が採択された場所として知られる。これらの地域を流れる高野やその支流の流れに沿って北上すると、鞍馬大原脊・広河原、久多といった山間地帯に入っていくことになる。鞍馬寺や神社のある鞍馬一帯や、京都と若狭・北陸間の隠れた回路である「街道国道367号が貫く大原はまだしも脊や久多は正直田舎というより山奥の村で、にはが積もる。バスも1日に数本しか通らないが、そんな大自然田舎暮らしに憧れる若者を惹き付けるのか、脊は近年はクラフトとして知られるようになっている。少し山に行った広河原にはスキー場があり、京都スキーヤーにとっては場スポット。久多はキャンプ場があるほか、茅葺屋根と独特の伝統行事が残る。

永観堂(えいかんどう)
正式名称は寺。紅葉の永観堂といわれ、東福寺と同じく紅葉シーズンとそれ以外で印ガラリと変わる。
銀閣寺(ぎんかくじ)
正式名称は慈照寺(じしょうじ)。東山文化の代表的建築で、世界的には閣より評価が高い。世界遺産。なお、箔は最初から貼っていなかった説が濃厚となっている(時々、テレビ番組再現CGを映したりしているが、貼らなくて正解です…マジで)
鞍馬寺(くらまでら
北方鎮護の寺と見做された古刹。元は天台宗だったが、今は鞍馬教という独自の宗鞍馬の火祭りで有名。平成30年台風21号被害が残っているため、祭は1988年昭和天皇重篤の報を受けて自粛されて以来30年ぶりの中止となった。
三千院(さんぜんいん)
京都大原三千院♪というデューク・エイセスヒット曲で一躍全区に。天台宗の名刹で、紅葉の名所。元々は隠居場になったり、修行場になったり、色々な歴史を踏んでいる。
仙堂(しせんどう)
曹洞宗寺院でもあり丈山寺ともいう。中国的な建物が特徴で、ツツジをはじめ、の名所として名高い。
神社しもがもじんじゃ)
正式名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。神様る。京都三大祭の葵祭で知られる。北区にある上賀茂神社ともに世界遺産。ちなみに双方の距離は約3.6km程度。
修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)
17世紀中頃、後尾上皇の示で比叡山麓に造られた離宮。借の手法を採り入れた庭園として、日本を代表する庭園だそうだ。かつては見物するには予約が必須だったが、2016年頃より当日券も出るようになった。とは言え予定が固まっているなら予約を取る方がよいのは言うまでもい。
峰定寺(ぶじょうじ)
脊地域にある名刹。修験系の寺で、大悲山という山号でも知られる。京都市内だが地から大きく離れた場所にあったこともあり、重な文化財が多く残されている。近くには脊の三本と呼ばれる杉並木があり、寺ではこれを木としている。悪時と場は拝観できない上、出町からバスで90分・本数日2+休日1往復という交通の便には注意。
平安神宮(へいあんじんぐう)
天皇東京に奪われたこといせに市民元気づかせるために平安京大内堂院を模して作った神社時代祭京都三大祭の一つ。内はの名所。
寺(なんぜんじ)
京都で最も格の高かった臨済宗南の総本山紅葉の名所でもあり、内はすごく広く、頭も多い。沿湯豆腐で有名。

中京区 -なかぎょう-

(ちゅうきょう)に非ず。京都市の都心部にあたり、二条を始め、京都市役所、平安神宮京都随一の繁河原町通と四条通がある区。特にその交差点阪急京都線京都側のターミナル駅である四条河原町京都一番の繁として栄えている。四条通は高島屋大丸大丸とは関係な藤井大丸丸井があり、商業の中心地、対して河原町通はファッションビル居酒屋などが多い。四条通には地下道があることはあまり知られていない(地下街を作る計画もあったが、表通りがれるなど色々な理由で中止になった)。案外東西に広く、東の端は河原町通り沿いと鴨川だが、西にを向けると壬生二条駅、さらには島津製作所本社などのある西ノを越えて天神周辺までが中区にあたる。

下御霊神社しもごりょうじんじゃ)
名前からもわかる通り、上御霊神社とは対の関係。こちらは現在の府庁近くに移転された後豊臣秀吉により現在の御所南東に遷座された。こちらでるのは「崇天皇王)」「伊予王」「藤原大夫人(藤原吉子)」「大夫(藤原広嗣)」「大夫(逸勢)」「文太夫(文室宮田麻呂)」およびこの6人のそれぞれ和と荒である[2]「吉備霊」「火天神」の八柱御霊。
二条(にじょうじょう)
幕府が朝廷を監視するために設けた表向きので、いわゆる現存十二天守には含まれない。大政奉還の拠点となったなど、幕末動に巻き込まれた。世界遺産
壬生寺(みぶでら
10世紀に建立された宗の寺。鎌倉中期と江戸中期、そして戦後と3度も火災で焼失するがその度に再建されてきた。「壬生狂言」が伝統行事として伝わるほか、幕末には新選組の屯所や訓練場が置かれたことでも知られている。

東山区

文化財の宝庫として知られ、清水寺八坂神社周辺の園地域を中心に観光地・繁として発展してきた区。京都名物として知られる舞・芸はこの東山区にある演舞場に多くいる。人口は京都11区で最も少ないが、古くからの名が多い。

清水寺(きよみずでら)
清水舞台が有名。紅葉の名所であり、沿わん坂と呼ばれ、観光客向けの店が立ち並ぶ。京都で最も観光客が多い寺ともいわれ、人が途切れることはない。内は世界遺産
建仁寺(けんにんじ)
京都五山の第四で臨済宗建仁寺の総本山宝の風神雷神図はここの所蔵品。
高台寺(こうだいじ)
秀吉が北政所のために建てた菩提寺。茶の湯関連の史跡、宝物が多い。紅葉の名所としてライトアップされる。
十三間堂(さんじゅうさんげんどう)
元は大寺院だったが、一部が残り、お堂とした。千体観音像と通し矢行事で有名。周辺には豊臣秀吉が建立した方広寺、紀州根来勢の生まれ変わり智積院などがあり、それらの建物に囲まれたところに京都国立博物館が建てられている。このため最寄りバス停名前も「博物館十三間堂」である。
知恩院(ちおんいん)
浄土宗本山。左甚五郎のわすれなど七不思議で有名な寺院
東福寺(とうふくじ)
紅葉シーズンとそれ以外で印泥の差がある臨済宗東福寺の名刹。京都五山の三位。
涌寺(せんにゅうじ)
皇室の菩提所として知られる名刹で、寺内には皇室ゆかりの宝物が数多く収蔵されている。
八坂神社(やさかじんじゃ)
祇園祭が行われる牛頭王信仰の総本社。尾津島神社武蔵氷川神社と系統は同じ。

下京区 -しもぎょう-

区とともに京都市都心部を形成する区の一つ。玄関口京都駅四条通の南側が区内にあり、そこから南北に伸びる烏丸通には機関企業本社が立。また、京都駅周辺は四条河原町園界に次ぐ繁にもなっている。また、応仁の乱でも較的被害が軽微であったことから、復狼煙はこの下から始まったといわれる。

西本願寺(にしほんがんじ)
浄土真宗本願寺の総本山伏見の遺構が多い。世界遺産
東本願寺(ひがしほんがんじ)
浄土真宗大谷の総本山御影堂は世界の木造建築

南区

京都駅の南側に位置する下町地区であり、京都駅のほか名神高速道路京都インターや第二京阪道路終点などがあり、道路交通の便もいいことから、任天堂やワコール佐川急便を筆頭に京都を本拠とする大規模な製造・物流業の本社が集積する。かつては平安京の南端で皇族や貴族な行楽地としてしまれ、羅門や鳥羽離宮が置かれていたことから、埋文化財は豊富。一方現存する文化財には乏しいが、その中で東寺の存在感が一際る。

東寺(とうじ)
真言宗の総本山の一つ。正式名称は教王護国寺であり、東寺とはかつて存在した西寺に対する呼称。京都駅から見える宝の五重京都シンボルで、内最大の宝五重世界遺産。なお、発音は「とう」(冬至と同じ発音)と読み、地元では法さんと呼ばれている。下には関西進学校にして、バスケットボール陸上競技の強校として知られる高校がある。

右京区 -うきょう-

京都駅から西側にあるのが右京区です。遷都以来の別荘地で、皇室貴族ゆかりの遺跡が多く、御室、嵯峨野北野などセレブが至るところに見られる。嵐山の他、そこからさらに山中に入っていった保峡・宕陰や三尾(高雄、槇尾、栂尾)といった自然にも恵まれた地で、電も三条通の京津線もなくなった今、京都一の路面電車ついでに叡電福井地区を切り離した結果京福電鉄としても一の鉄道路線となった「嵐電」もある。
市町村合併により京都市の一部となった北区右京区の北地区はもともと北町という町であり、紛れもない田舎である。この北は深い森林に覆われ、経由の運にも便利なことから業が盛んで、北山要な産地として有名。
一方、太(うずまさ)には古刹広寺のほかにも三菱自動車京都工場東映京都所、松竹京都映画などの大規模な事業所が展開しており、特に後者映画産業が昭和初期に多く立地していたことから、太は「映画」として知られ、東映所の一部は「東映映画」というテーマパークとして一般に開されている。また、西京極には内最大の運動公園があり、京都サンガF.C.の旧本拠地として知られる「西京極総合運動公園陸上競技場(たけびしスタジアム京都)」がある。

高山寺(こうざんじ)
紅葉の名所で知られる栂尾(とがのお)にある真言宗の古寺。宝の鳥獣人物戯画はここの所蔵品。世界遺産
寺(こうりゅうじ
にある京都最古の古刹。真言宗系の単立寺院。かつて京大生が悪戯をしようとして誤って像のを折ってしまった宝の半跏思惟像で有名(なお、今日では補修の跡は全くわからないほど精巧に復元されている)。ちなみに宝半跏思惟像は内の宝彫刻第一号であり、宝関連書籍の表を飾ることが多い。
護寺(じんごじ
高雄にある真言宗の名刹。広い内は紅葉の名所としても有名で、内で最も色づきがい。ここが色づくと晩を感じるとか。宝の鐘は内の三大名鐘の一つとか。
天龍寺(てんりゅうじ
嵐山にある紅葉の名所。臨済宗天龍の総本山京都五山の第一。
常寂寺(じょうじゃっこうじ
かつては藤原定家の山荘があったと伝わり、安土桃山時代日蓮宗寺院となった。内は紅葉の名所で名高い小倉山の中にあり、内中が紅葉と人混みに包まれる。
大覚寺(だいかくじ)
嵯峨御所といわれた門跡寺院で、大沢の池から見るは有名。また、嵯峨御流や大覚寺豆腐などもよく知られる。紅葉で名高い王寺(ぎおうじ)はこの末寺の一つ。
仁和寺にんなじ)
背丈の低い御室ので有名な名刹。徒然にある「仁和寺にある法師」でも有名だが、当時のものは全部応仁の乱で焼けてしまったらしく、現在の遺構は全部江戸以降のもの。天皇ゆかりの寺であり、御室さんと呼ばれる。世界遺産
妙心寺(みょうしんじ
園にある名刹で、臨済宗の宗で最も信者が多い妙心寺の総本山。施設を拝観するには料がかかるが、内は一般開放されており周囲を散策するだけなら無料な上に、生活道路にもなっておりバイク自転車は通行できる(乗用車規制)。
安寺(りょうあんじ)
虎の子渡しといわれる枯山の石庭で有名な臨済宗の寺院世界遺産

伏見区 -ふしみ-

ご存知、伏見の女で知られる処で、全的に有名な冠、松竹梅宝酒造)、黄桜伏見蔵である。安土桃山時代には豊臣秀吉の築いた下町、そして運を通じた京都の玄関口として発展。明治天皇のほど近くに造られた山御陵に眠っている。こういった経緯もあり1931年までは京都とは別の「伏見」だったのだが、合併されたことにより「京都の一部」になった。戦後近鉄京阪JR鉄道交通の優秀さから新住宅地としても発展、結果として各区の中でも飛びぬけて多い30万人近くが住む、京都市内で最も人口が多い区に発展した。そのため醍醐地区を分割して醍醐区を作るという話が出ては立ち消えになっている。また「スクール☆ウォーズ」のモデルとして知られるラグビーの強伏見工業高校(現・京都工学高校)のある地としても有名。

一括りに伏見と言っても、蔵や明治天皇陵で知られる伏見山地区の他、名刹醍醐寺や明智光秀が討ち取られた小栗栖などがあり、戦後は山が切り開かれニュータウン都市に変貌、また山科区とのつながりが深い醍醐伏見稲荷大社鳥居前町で、明治時代には陸軍師団が置かれたことで陸軍としても発展、戦後は師団跡地に龍谷大学が移転し学生となった、「竹田子守歌」で有名な京都市営地下鉄近鉄京都線の結節点・竹田巨椋池干拓により誕生した陸地が現在京都市内最大の農業地帯となっている江戸時代下町で、戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いの舞台となり、大正以降は京都競馬場のお膝元として競馬ファンしまれるようになった京都府民にとっては運転免許試験場のある場所として有名で、の対にある羽束師…と、広い区内に散らばる地区によっての姿はかなり多である。

醍醐寺(だいごじ
豊臣秀吉催した醍醐花見で有名な南随一の名刹。また、西観音霊場の札所といわれているが、厳密には上醍醐寺である。世界遺産
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)
田畑の守りとして知られ、そこから商売繁盛、門繁栄、防災と守備範囲が広くなった之御神社。千本鳥居世界中の観光客の注の的に。稲荷信仰の総本社で、初詣シーズンには大変なことになる。

山科区 -やましな-

元々山科だったが、戦前に京都市に併合され、後に東山区から分区した。京都地と東山を隔てたまた別の地にある。京都市から離れて地が見えるため、新幹線で東から来た人が思わず京都市と勘違いすることも。

京都名物の清水焼は元々東山界で焼かれていたのだが、都市化に伴って煤煙が問題となり、職人らが山科に集団移住している。これが今日清水団地であり、「清水焼の郷」としての寺として名高い勧修寺や紅葉の名所の毘沙門堂などとともに、山科の観光名所となっている。この他、かつて応仁の乱で焼け出された公家が隠棲し、また石山現在大阪城)の地に移転するまでは本願寺の置かれた地でもあるため、歴史的な史跡がけっこう多い。また、餃子の王将の本社や京都科大のキャンパスがあることでも知られ、日本初の高速道路名神高速道路が起工された地でもある。

勧修寺(かじゅうじ)
山科区にある古刹。の寺として知られ、ハナショウブやなど四季折々の姿を見せる。

西京区 -にしきょう-

西(さいきょう)にあらず。東西南北一、◯区と名乗る北京、南東京はない)。実は11区で最も新しい区であり、右京区からの分区。京都市郊外西山大原野一帯を包含して西(らくさい)と呼ばれ、京都の西のニュータウン西ニュータウン」が開発されている。下記のほか、神様として有名な松尾大社、宮大社や竹取物語ゆかりの地・大原神社などがある。

離宮(かつらりきゅう)
かのブルーノタウトが絶賛し、島根足立美術館などと並び日本庭園として最高の名園ともうたわれる皇室関連施設。修学院離宮と同様にかつては見物するには予約が必要だったが、当日券も出るようになっている。でも、人気も高く当日券が取れなくても泣かない。
寺(こけでら
正式名称は西芳寺(さいほうじ)。ほっておいたらむした庭が有名な寺。最も観光が難しい寺で拝観料の高さはを瞑ったとしても事前予約が必要な上、説法を聞かねばならない。世界遺産
勝持寺(しょうじじ)
のお寺として知られる大原野の名刹。西行法師ゆかりの寺で西行紅葉で有名。
善峰寺(よしみねでら
大原野にある紅葉の名所で、西観音霊場の札所でもある。遊というの老木が有名。

など、まあきりがないのでこの辺にしておきます(あと、100以上は優にある)

施設・企業

施設

企業

関連動画

関連コミュニティ

関連項目

脚注

  1. *京都競馬(というかJRA)は農省(当時)管轄の特殊法人向日競輪京都府催者。
  2. *名前からして「吉備備」「菅原道真」とされることも多いが、備は6人と違い憤死しておらず、道真天神になる前に神社が創建されているためこの解釈が取られている。
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