仁義なきプロ野球タイトル争いとは、チーム順位が決定後の消化試合で行われる
個人タイトルを取らせる為の『露骨な投手交代』 『敬遠策』 などを言う。
1991年、古田敦也(ヤクルトスワローズ)と落合博満(中日)とが首位打者争いをし、古田が落合を僅差でリードした状態で迎えたヤクルトと中日との最後の直接対決(10月13日)において、ヤクルトベンチは古田を休ませ、落合に全打席故意四球を与えた。この試合で落合はプロ野球新記録となる1試合6四球を達成した。
1996年、松井秀喜(巨人)の本塁打数は38本であり、最終戦の中日戦で本塁打を打てば山崎武司(中日)の39本に並び、最多本塁打のタイトルを獲得するチャンスがあったが、1番打者で出場した松井は全打席故意四球を与えられ、山崎の単独本塁打王が確実になった(翌日中日の最終戦で同僚の大豊泰昭が1本差に迫ったが追いつかず山崎の単独本塁打王が確定)。試合後、中日の星野仙一監督は松井への敬遠策について質問しようとした報道陣に「聞くな!」と怒鳴りつけて球場を後にした。
1997年、優勝争いが佳境に入りつつある9月13日の巨人戦において、本塁打数トップ(36本)の松井(巨人)に1本差と迫る35号を打ったドゥエイン・ホージー(ヤクルト)に対し、巨人は以降の2打席を実質的に故意四球とした。また、翌14日もホージーに対して8回の先頭打者あるいは9回二死一・二塁など戦術的には故意四球が考えられない状況を含めて、5打席で3四球を与えた。巨人はこの両日の試合に敗れ、続いて15日のヤクルト戦にも敗れ、結果として首位ヤクルトに3連敗を喫し、前後(9月9日から17日まで)の2位・横浜ベイスターズとの対戦では打って変わって合計4連勝したため、13日・14日のホージーへの故意四球は球界を無視した利己的な行為であると批判が起こった(9日から17日までの9日間で、ヤクルトは巨人にマジックを7減らしたことになった)。当時監督を務めていた長嶋茂雄は、まだヤクルトの優勝が決定していない状況であるにも関わらず「ヤクルトとの勝負じゃなくてホージーとの勝負だ」と発言した。ホージーが松井を1本差で逆転して迎えたヤクルトと巨人とのシーズン最後の直接対決(10月8日)は、両チームとも故意四球は無く、そのままホージーがタイトルを獲得した。
1998年、鈴木尚典(横浜)と前田智徳(広島)の首位打者争いは鈴木の打率が.337、前田が.335の状態で残り試合は両チームの直接対決のみとなったが、横浜の権藤博監督は試合前に「広島が前田を出場させるのなら、鈴木を休ませ前田を全打席敬遠させる」と発言した。これを聞いた前田も「敬遠されるくらいなら試合に出ない」と出場を拒否し、結果的に両選手が欠場した。
1999年、41本塁打の松井秀喜(巨人)と42本塁打のロベルト・ペタジーニ(ヤクルト)とが本塁打王の座を争い、ヤクルト対巨人の最終戦に突入するが、松井が敬遠気味の四球で歩かされると巨人の監督・長嶋はペタジーニに対して敬遠を指示した。この際、投手の上原浩治は勝負できない悔しさにマウンド上で涙を流した。
2008年、アレックス・ラミレス(巨人)と村田修一(横浜)とが本塁打王を争い、両者のシーズン最後の直接対決(10月9日)を迎えた時点では両者の本塁打数はともに43であった。その試合では、既にシーズン最下位が確定していた横浜の大矢明彦監督は、勝負よりも村田のタイトルを重視してラミレスとの勝負を避けるように投手に指示した。
1985年、ランディ・バース(阪神)は王貞治の年間本塁打記録にあと1本で並ぶ54本塁打を打っていたが、王が監督を務めていた巨人戦で全投手から故意四球攻めを受けた(巨人の間ではバースにストライクを投げると1球あたり100万円の罰金を科すという指令があった。当時巨人に在籍していたキース・カムストックがアメリカ合衆国へ帰国後に著書で明らかにした。)ただし江川卓だけは故意四球をせずに勝負して3打数1安打に抑えたが、ベンチの反感を買い、途中で降板させられた。なお江川は翌1986年にもバースの7試合連続本塁打(これも王の持つ日本記録である)のかかった試合でバースに真っ向勝負を挑んだが、最終打席で本塁打を打たれた。
2001年、タフィ・ローズ(大阪近鉄バファローズ)は、9月24日の試合で日本プロ野球記録に並ぶシーズン55本塁打を打ったが、9月30日の福岡ダイエーホークスとの試合で最初の2打席に敬遠気味の四球を与えられ、残りの2打席はボール球を無理に打ちにいって凡退した。なお、このときのダイエーの監督は、1985年の事例(上述)で巨人の監督を務めていた王であり、若菜嘉晴バッテリーコーチは、王の記録をローズに抜かせるなと自軍バッテリーに指示していた。
2011年、 優勝決定翌日の対ヤクルト戦、中日4点リードの5回表。 それまで無失点と好投していた先発・川井に代え、落合監督は吉見をマウンドに送った。 吉見は2回を無失点に抑え勝ち投手に。 今季18勝目を上げ、セ・リーグ最多勝争いで並んでいた巨人の内海に1勝差をつけ、 タイトルを手中に収めた。
1998年 西武が既にリーグV2を決め、ロッテの最下位も確定しペナントの雌雄も決した中、 パ・リーグの盗塁王争いは西武・松井稼頭央とロッテ・小坂誠の2人に絞られ、両チーム共にシーズン最後のカードとなる10月10日からの3連戦で直接対決することとなった。 盗塁数が松井41、小坂43で迎えた2戦目、10月11日は11-2でロッテが勝利。 共に両者へのマークが厳しくなる中、松井は企図数4で成功1(1試合3盗塁死は当時の両リーグ史上タイ)、小坂は企図数2で共に失敗し、1 個差で小坂が単独トップを維持し10月12日のシーズン最終戦を迎えた。 この試合、松井は第2打席で二塁打し、三盗を試みるも失敗。また小坂も第3打席で二塁打後、三盗に失敗した。
ところが7回表、小坂が第4打席で左前打で出塁した直後、事が起こる。 単打で出塁した小坂には成功しやすい二盗のチャンスが広がり、単独盗塁王の芽が出た。しかしマウンド上の西武芝崎和広が、一塁に牽制球を悪送球。 送球はファウルエリアを転々とするが、小坂は一塁にとどまったまま(一塁コーチの指示があったといわれる)。すると今度は、芝崎がセットポジションで全く静止せずに投球するというボークを犯す。 これにより、小坂は二塁に進まざるを得なかった。 当時のロッテ監督近藤昭仁らは審判に「故意のボークで野球協約が禁止をする敗退行為ではないか」と抗議したが認められず、結局そのまま試合は再開。 さらにこの後ショートの松井稼頭央が二塁塁上に守備位置を取って小坂にほとんどリードを許さないというシフトに出た。それでも小坂は三盗を敢行したが、結局失敗した。 その裏、松井は走者一、二塁から重盗を試みて成功し、これで松井の盗塁数は43となり、小坂に追い付いた。 小坂と松井はタイトルを分け合う結果となったが、この7回表の攻防を巡って「故意の悪送球・ボークではないか」「小坂は何故、悪送球で二塁へ進まなかったのか」などと多くのメディアが評した
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最終更新:2024/04/18(木) 20:00
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