今川了俊 / 今川貞世(1326~?)とは、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。
足利一門吉良氏の庶流である今川範国の次男。侍所頭人や引付頭人などの要職を歴任し、足利尊氏、足利義詮に重用された。そして足利義満の代に彼があげた最大の功績が、九州を北朝方に奪還したことである。
九州は1355年、初代探題の一色家が駆逐されてから南朝方の懐良親王の勢力が盛んで、後任の斯波氏経、渋川義行もこれに敗れていた。そこで1370年に九州探題に任じられたのが今川了俊であった。彼は弟の今川仲秋と子の今川義範を先行させ、仲秋は松浦党と、義範は大友氏時と合流した。そして了俊自体は翌年安芸の守護となり、安芸の国人層をまとめながら軍を進め、大内弘世や豊前の門司家と連絡を取って渡海に万全の準備を固めたのである。
まず今川義範を豊後で挙兵させ菊池武光をおびき出し、そのすきに上陸。大宰府に進軍した。肥前の軍を率いた今川仲秋と合流すると1372年有智山城を落城させ、懐良親王と武光を大宰府から追い落とし、12年ぶりに大宰府を奪還したのである。
そして以降は肥後を拠点にした南朝軍への対策を迫られた。しかし1375年に痛恨のミスをしてしまう。西国三人衆に召集をかけ、島津氏久、大友親世が来たのに対し少弐冬資が来なかったことから、疑惑を抱く。そこで氏久に頼み込んで何とか冬資を連れてきたところを宴席で仲秋と協力して誅殺してしまったのである。これに面目をつぶされたのは島津氏久である。彼は薩摩に帰ると以降探題に協力することはなくなり、大友親世も距離を置くようになった。
その結果菊池軍討伐にさらに2年の歳月をかけることになったものの、1377年に蜷打の戦いで勝利、1381年には本拠地である隈府城を落城させた。さらに1391年の南北朝合一がなっても抵抗を続ける、島津氏久を1395年に叩こうとしたところに、突然九州探題を解任されたのである。これは細川頼之の死去によって管領になった斯波義将の派閥が中枢に入ったことや、了俊の肥大化を抑える足利義満の狙いがあったこと、などが言われている。
こうして京に戻った今川了俊であったが、与えられたのは駿河と遠江半国であった。了俊は駿河を宗家の甥・今川泰範、遠江を弟の今川仲秋と共同で統治することになったようだ。、そして1399年の応永の乱で大内義弘が挙兵すると、了俊は関与を疑われ討伐軍を差し向けられるのである。この件に関しては関東管領の上杉憲実と今川泰範のとりなしで赦免されたが、以後了俊は『難太平記』など著作活動に没頭し、正確な没年はわかっていない。
今川了俊の子孫はその後遠江の守護が斯波氏に移ったため守護職にはつかなかったものの、堀越氏など遠江今川氏として続いていくことになった。
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最終更新:2025/12/09(火) 12:00
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