伊丹城 単語

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伊丹城有岡城)とは、兵庫県伊丹市にかつてあった惣構の縄張りを持つである。

伊丹は「いたん」ではなく「いたみ」と読む。伊丹十三監督とか「相棒」の伊丹憲一のおかげで案外ちゃんと読んでもらえる? 飛行機使う人はもちろんみんな知ってるよね!
地元ではもっぱら有岡城と呼ばれる。 伊丹城と言っても、「ああ、有岡城のこと?」と言われる。有岡城という名前で存在したのは9年ほどしかないのだが、そんなことはみんな知らない。

戦国時代後期ににされており、現在も模擬守などの建造物はなく、本丸跡は分断されて(!?JR伊丹として開発され、石垣跡、土塁などが残るだけ・・・。ただ跡が残っていることは確かなので、実は惣構のうち日本最古の遺構を持つでもある。が、そんなことはみんな知らない。
また守という名称の初見であるとの話が細川両家記を根拠に挙げられているが、殿の書き間違いではないかとも言われていてこっちは不明瞭。もちろん、そんなことは(ry

あれもこれも知られていないのは、きっと模擬守とか公園としてちゃんと整備しないからだ! 伊丹市清酒発祥の地アピールもいいけどこっちもなんとかして! 

また岡田准一黒田官兵衛が当閉されたエピソードは著名。そんなことは最近までみんな知らなかった。

概要

正確な築年は分かっていないが南北朝時代に、伊丹氏によって築かれた。
当時東側は崖になっており、(向かいには大阪国際空港)を背に天然の要として利用していたので、北西南方面に下町が広がっている。 

惣構(そうがまえ)とは下町を丸ごと内に囲う構造のことで、大坂城小田原城江戸城二番煎じである。これってめっちゃすごない?
域は南北1,7km、東西400mと妙に細長い。北端は名野神社(904年創建なので要塞の一部として利用された)、南端は有小学校域は当校西沿いまで)南の鵯塚(おそらく古墳)、 西端は伊丹小学校東沿いまで。
実際に行ってみると分かるが、域内と外では見て分かるほどの高低差がある部分も多い。

歴史

伊丹氏城主時代から荒木村重による有岡城改修

土地柄として、往古より畿内と西の陸路での行き来はこの伊丹と南隣の尼崎を通る以外にほぼはなく、江戸時代には西街道が通っていた。歴史上要衝となったのは当然よねウンウン。
伊丹城が歴史に大きく出始めたのは室町時代後期の永正の錯乱、両細川の乱などの室町幕府管領細川氏の内紛からである。これは細川両家記などに詳しい。

戦国時代には伊丹が、高槻和田惟政池田池田勝正と共にお手紙将軍足利義昭より摂津三守護として摂津の支配を任されている。ここで登場するのが荒木村重である。池田勝正の臣だった荒木村重クーデターを起こして池田を手中に収めたのだ。
重は足利義昭織田信長の関係が険悪になった頃に信長に拝謁(例のに刺さった饅頭を食べてる絵はこの時のエピソード)して織田替え、義昭方に付いた伊丹を攻めて伊丹城を落とし自らの居とした。伊丹氏の時から惣構になる手前の段階だったらしいが、重が大改修した際に全な惣構となって名前も有岡城と改めた。

この前後のひげまんじゅう重のあれやこれやはめんどくさいので荒木村重の記事に譲るからそっちを見てきてね
この記事ではなるべく伊丹有岡城でのことを選んで書きます。 

有岡城の戦い

なんやかんやあって荒木村重謀反を起こした。明智光秀高山右近黒田官兵衛などが説得に来たが官兵衛だけ有岡城の土に放り込まれてしまった。重は有岡城に籠もり織田信長が直々に織田軍を率いて攻めて来ることとなった。有岡城の戦いの始まりである。

この攻囲軍には明智光秀羽柴秀吉丹羽長秀滝川一益美濃三人衆、細川藤孝などのそうそうたるメンバーった大規模なものであった。荒木営は東は現大阪府高槻から茨木、吹田などがあり、北は現三田市三田、南は尼崎大物、西は現神戸市といった織田領のうち畿内と西の陸路動脈を全に詰まらせていた。信長池田に在し、長秀・一益らは塚口に布した。攻を開始したものの当時しい惣構であり、ルイス・フロイスも「甚だ壮大にして見事な」と評した有岡城は簡単には攻め入る隙がなく織田軍は兵二千を失ったという。持久戦と見たのか、信長自身は々に安土へ帰ってしまった。

有岡城の戦い開戦直前の木戦によって大阪湾周辺の制権は織田にあって、荒木軍は石山本願寺や毛利からの補給が届きにくくなり、織田軍が兵糧攻めに切り替えたので苦しむことになる。
補給が苦しくなってきていた荒木軍は再三に渡って毛利に補給や援軍の催促を送っていたが芳しくなく、重は陰に乗じて大物へ移動した。陰徳太平記では一向に動こうとしない毛利へ自ら赴き支援を取り付けるためだったと書かれている。器類を持って行ったのは、当時器の価値は一に値するような時代(滝川一益が所領よりも珠茄子を欲しがった話は有名)であったので手土産にでもするつもりだったのかもしれない。

有岡城の戦いが始まってから対と小競り合いが続き1年が経ったころ、とうとう滝川一益が上臈塚砦(伊丹市中央染寺辺り。寺内に重のものと伝えられる墓がある)を破り内に攻め込むことに成功した。実は一益は事前に上臈塚砦の守将を調略していて内側から手引されてなだれ込んだのである。織田軍は内の下町を焼き討ちして二の丸と本丸にも攻め上がろうとしたが内に阻まれて内で1ヶもの間攻めあぐねていたが、もはや現状を打開できないと見た将・荒木久左衛門重の旧池田知正と同一人物説がある)は降を決意し、津田信澄によって有岡城は接収された。

関連項目

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  • 1 記事作成

    2014/11/03(月) 13:19:57 ID: FhcSV4KtPM

    有岡城の戦いはまた長くなるので、それを含めた記事全体の編集もどんどんやっちゃってください。

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  • 2 肝付風羽

    2014/11/06(木) 08:30:35 ID: FhcSV4KtPM

    う~ん、伊丹寺こと良寺や昆陽寺も戦火で焼失したことも書くかなぁ
    でも記事も長くなってきたしどうするべきか・・・。

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