「伊東祐益/伊東マンショ(満所)」(いとう・すけます/いとう・まんしょ 1569 ~ 1612)とは、大友宗麟の名代として天正遣欧少年使節の正使を務めてヨーロッパに渡り、ローマ教皇やイスパニア国王に謁見し、帰国後にイエスズ会に入って司祭となった宮崎の偉人。
都於郡城を拠点に日向国(現在の宮崎県)に一大勢力を築きあげた伊東義祐の娘婿・伊東祐青の子に生まれる。幼名は虎千代。
元亀3年(1572年)、伊東氏は「九州の桶狭間」と称される木崎原の戦いにて島津氏に敗れたのをきっかけに衰退。更に天正5年(1577年)に島津義久の日向侵攻を受け、支城の綾城が落城、父は戦死した。
当時8歳の虎千代は家臣の田中國廣(後の刀工・堀川国広)に背負われ、山道を逃げ隠れしながら豊後(現在の大分県)の大友宗麟の元に落ち延びた。
10歳の時、有馬のセミナリヨ(小神学校)に入門。洗礼を受けてキリスト教徒となった。
一説には道端で地面に絵を描いていたところ、イエスズ会の司祭より声をかけられ、差し出された金平糖のあまりのおいしさに感動し、そのままホイホイ教会についていったとも。
その後イエズス会の巡察師として来日したアレッサンドロ・ヴァリニャーノと出会い、当時ヴァリニャーノが大友宗麟や大村純忠らと進めていた遣欧使節のメンバーとして選抜。同じセミナリオでラテン語や音楽の勉強に励んでいた千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノらと共に、ローマへ向けて巡礼の旅に出ることとなった。
マンショが大友宗麟の名代に選ばれたのは、母が大友宗麟の姪(一条房基子女)の夫・伊東義益の妹の子であり、大友宗麟と遠縁の関係にあったことや、本来名代に予定されていた伊東義益の子・伊東祐勝が当時九州を離れていた為、出発に間に合わないので代役として選ばれたと言われている。
また、ローマ教皇に謁見する使節として、
といった条件をパスしたからともいわれている。
一方、使節団が持参した大友宗麟の花押が古い事等から、大友宗麟は使節派遣に直接からんでおらず、マンショの抜擢も別人が行ったのではないかとの説もある。
13歳のマンショは、天正少年遣欧使節団として長崎を出港。マカオにて9カ月滞在して勉強した。しかし旅の途中、マラッカで赤痢にかかって倒れ、ヴァリニャーノの必死の看病で回復するという苦難を味わっている。
長崎を発ってから2年半後にインドに到着。そこから更にイタリアにたどり着いたのは、長崎を発ってから実に3年後だった。
イタリアに到着した一行は、ローマ市民の熱狂的な歓迎をうけて教皇グレゴリオ13世に謁見。その後1年4カ月のヨーロッパ滞在の間に、スペイン国王フェリペ2世に謁見し、ヨーロッパの文化やキリスト教を学び、印刷機・楽器・観測機・海図など、貴重な文物を携えてイタリアを出発した。
それから4年後に長崎に帰国した際には、マンショは少年から20歳そこそこの青年になっていた。
しかしこの旅の間に、日本は大きく変わっていた。織田信長が本能寺の変に倒れ、豊臣秀吉が覇者となった上、布教に乗じた外国勢力の台頭を警戒し、キリスト教が著しく制限されていたのだ。
帰国から1年後に秀吉に謁見したマンショは、ヨーロッパのすばらしさを語り、楽器を演奏するなどした事から秀吉に気に入られた。仕官の話も出たが、司祭になることを決めていたために仕官の話を断った。
また、母からは国に戻って共に暮らそうという願いもあったが、マンショはこれも断り、天草のコレジオ(神学校)に進んで勉学を続けた。
文禄2年(1593年)7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会。更に慶長6年(1601年)にはマカオのコレジオに進み、慶長13年(1608年)、司祭に叙階されて晴れて神に仕える身となった。
マカオから帰国後は、豊前国(現在の福岡県)小倉を拠点に活動する。
当時の小倉藩藩主・細川忠興はキリシタンを庇護していた。これは正室であるガラシャ(たま)が生前敬虔なキリシタンだった事も関係しており、細川家家中にも洗礼を受けた者が多くあった。
しかしこの頃から徳川幕府はキリスト教に対する警戒感を強めており、風聞に敏感な忠興はいち早く時流を読んだ。かくして慶長16年(1611年)、マンショは小倉を追放される事となった。
その後は中津、長崎と九州各地を転々としながらも、ひそかに布教活動を続けた。故郷である日向国飫肥を訪れた際に母と再会。その身を案じる母に、布教活動の苦労を吐露している。
そしてヨーロッパ帰国から22年後の慶長17年(1612年)11月13日、長崎にて病死。江戸幕府による全面的な禁教令発布の約1年前のことだった。
※その他「伊東祐益/伊東マンショ」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
2014年、イタリアで個人蔵となっていた伊東マンショの肖像画が発見。2016年に東京国立博物館で公開され、大きな話題となった。作者はティントレットの子、ドメニコ・ティントレットと推測されている。
禁教令の後、先にイエスズ会を退会・棄教していた千々石ミゲル以外の仲間は、
といった最期を迎えた。
▼いろんな意味でマンショ無双な「信長の野望革新PK地方別武将ランキング」九州編
▼顔芸枠で登用された「西園寺世界の逆襲」。極稀にしか紙芝居には出ないが永遠の少年グラは目立つ。
▼アイドルにもなりました
「信長の野望」(PC)シリーズにおける伊東祐益の能力一覧。顔グラは永遠の少年である。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世紀 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | 6 | 武勇 | 2 | 知略 | 74 | 政治 | 65 | ||||||
天道 | 統率 | 6 | 武勇 | 2 | 知略 | 74 | 政治 | 65 | ||||||
創造 | 統率 | 74 | 武勇 | 17 | 知略 | 72 | 政治 | 64 |
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8 ななしのよっしん
2018/02/12(月) 17:18:50 ID: j5mn28mljX
天正少年遣欧使節団の四人組の中では血筋的には一番面白い人だけど、人生の壮絶さは中浦神父が
一番すごかった気がする。
9 ななしのよっしん
2021/10/04(月) 23:11:32 ID: jXZCvLtY3q
>>7
遣欧使節の正使=リーダー=統率、というイメージなのでは
いやその統率は戦のそれとは違うだろとか、そもそも本当に統率してたのは宣教師だろとか、突っ込みどころは山積みだけど…
10 ななしのよっしん
2022/01/21(金) 23:39:51 ID: KUGWG7jmEv
この人のご先祖が鎌倉殿の13人で物凄い存在感を放ってる
思ったより由緒正しい家柄だったのね
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最終更新:2024/04/23(火) 16:00
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