伊良部秀輝 単語


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伊良部秀輝(いらぶ ひでき1969年5月5日2011年7月27日?)とは、千葉ロッテマリーンズニューヨーク・ヤンキースモントリオール・エクスポズテキサス・レンジャーズ阪神タイガースに所属した元プロ野球選手

158km/hの日本球界最高球速(当時)をマークした、速球投手の代表的存在だった。

概要

沖縄県宮古島に生まれ、兵庫県尼崎市で育つ。尽学園高校甲子園に出場し、1987年ドラフト会議ロッテオリオンズ1位名され入団。高校時代の1学年下に佐伯貴弘ドラフト同期には堀幸一がいた。

プロ入り後は1年から一軍で活躍するが、制球難もあって先発だったりリリーフだったりと、なかなか起用法が一定しなかった他、投球も速球一辺倒だったためカウントを悪くしてはストライクを取りに行って打たれるという事の繰り返しだった。

転機となったのは1993年5月8日西武戦、この試合で清原和博対決した良部は、当時の日本速記録となる158km/hマークし、日本最速投手として名を馳せる。しかし直後に157キロの速球を二塁打にされたことで、「圧倒的な速球があれば打者を抑えることが出来る」という考えを改める。

そこで良部は当時チーム内でも屈893投手だった牛島和彦に協力をめ、時にはに泊まってまで理論をぶつけ合ったり、シャドーピッチングを見てもらう等して、それまでの速球一辺倒の投球から、カーブフォークと言った変化球を織り交ぜる投球で打者を抑える投球にシフトするようになる。

すると94年からは先発ローテに固定され、94年に15勝で最多勝最多奪三振、95年は最優秀防御率最多奪三振タイトルを獲得するなどの活躍でたちまちチーム投手に変貌する。

96年、前半戦で肘を痛めた良部は、オールスター以降試合のたびに100球をえても降させてくれない(7月27日西武戦で7回111球、8月2日ダイエー戦で7回124球、8月8日日本ハム戦で9回137球)首に不信感を抱き、8月16日西武戦では8回途中3失点128球という投球で降となるが、この際についに感情を爆発させ、グローブと帽子スタンドに投げ入れるという行動を起こしている。
翌日の新聞では当時のGMだった広岡達朗から批判されたことで、良部は球団への不信感をますます大きくするが、このシーズン最優秀防御率マークし、エリック・ヒルマン小宮山悟先発三本柱としてチームを支えた。

そして96年オフ良部は野茂英雄メジャーに送り込んだ実績を持つ代理人・団野村契約し、メジャーリーグ挑戦を希望、球団は当時ロッテと業務提携を結んでいたサンディエゴ・パドレス良部の権利を譲渡するつもりであったが、良部はニューヨーク・ヤンキース希望していたため交渉は難航。
翌97年には球団から呼び出され、誓約書にサインするようにめられるが、そこには本人

良部氏に関する法律で許される限りの全ての権利を譲渡する。
業務提携が破棄されても、権利は永久パドレスへ譲渡する。

という内容が書かれていた。当然ながらヤンキースのみを希望する良部はこれをつっぱね、「は土地や建物じゃない」、「一つの球団にしかいけないのはおかしい」と不満を露わにしている。

長い交渉の末の97年4月末、まずロッテ良部の保有権をパドレスに譲渡し、パドレスヤンキース良部を放出、そしてヤンキースからパドレスに約300ドルと3人の選手を放出することで、良部は念願だったニューヨーク・ヤンキースに入団する。ここまでヤンキースに固執した理由については、幼少期に別れたまま行方が分からなかった父親を探すためであり、名門のヤンキースで活躍すれば自分に会いに来てくれるかもしれないからというものだったが、良部は自身の口からは決してこの理由を話そうとはしなかった。
当然ながらこの三角トレードには批判が集まり、「良部はわがまま」とマスコミなどから書きたてられたが、当時良部の代理人だった団野村は「良部が戦ったことで現在ポスティングシステムが作られ、多くの選手がFA権取得前でもメジャーに移籍することが出来るようになった」として、良部のことを高く評価している。
実際にこれ以降はイチロー松坂大輔ダルビッシュ有といった選手たちがポスティングシステムを利用してメジャーに渡っている。

メジャー登板となった7月10日デトロイト・タイガース戦では6.2回を5安打2失点9奪三振という投球で初登板勝利を挙げ最初は歓迎されるが、7月20日の試合では6.2回を投げて6失点ノックアウトされ、降するときにブーイング中のファンに向けてを吐くという行動でバッシングされる。(良部も良部でを吐いたシーンについてマスコミに問いただされた際、「そんなところは見てるんですね」と挑発的な発言をしてはいるが)

98年には13勝、99年には11勝を挙げたが、同年オフモントリオール・エクスポズへトレード。2002年にはテキサス・レンジャーズクローザーとしてそれなりに活躍したが、エコノミー症候群血栓になり同年退団。

2003年日本に復帰し阪神タイガースに入団。先発ローテとして13勝を挙げ優勝に大きく貢献したが、日本シリーズではダイエーの野手に走られまくり2敗を喫した。翌2004年は全く活躍できず、同年オフ戦力外通告を受け引退

引退後は再び渡し、うどんチェーン店を開いたが、2008年業。2009年には野球選手として現役復帰し、四国九州アイランドリーグ高知ファイティングドッグスに入団したが、1年で再び引退した。

2011年7月27日ロサンゼルス郊外の自宅で遺体で発見される。自殺とみられる。享年42。

エピソード・人物

1993年、当時日本ハムファイターズ監督だった大沢啓二が「良部クラゲに刺された」と発言したことから「クラゲ」の愛称でも呼ばれた。

高校時代から悪童で知られ、ロッテ時代からメジャー時代まで、しやすい性格でマスコミ嫌いだったこともあり、何かとトラブルを起こした。ヤンキースではそれなりに成績を残していたにもかかわらず、「活躍できなかった選手」として地元メディアにも取り上げられてしまうなど、性格・イメージ的な面で損をした部分は多い。ただ晩年はマスコミの取材に対しても穏やかな笑顔で応じ、かつて「悪童」と呼ばれた姿は見られなかった。
とはいえ、自身が悪童と呼ばれていたことも自覚しており、死の2月前のインタビューでは「コーをやってみたいけど、悪童と呼ばれた自分を雇うところ無いだろう。」と自嘲気味に話している。

マスメディアや一般のファンからは上記の「悪童」のイメージが強いが、身近に接していた人たちからの評判はそれほど悪くはない。や団野村論、共著で「最新最強ピッチング・メカニクス」という本を出した吉井理人は「寂しがりやのくせに強がりで、でも、やさしくて繊細な心を持った笑顔キュートな男でした」と語っている。
また、メジャー良部とバッテリーを組んだジョージラルディは「試合中の振る舞いだけで性格を非難することはフェアじゃない。勝つためには引っ掻いたり噛みつくこともある。選手には闘争心がめられるんだ。」としてっている。
素行が悪かった高校時代も、導者からは「2~3時間もフォームのチェックをしていた。あんな選手は他にいない」と野球に対する姿勢は認められている。

野球でしか自分を表現できず、憤がたまったせいには感情を抑えることが出来ない、良くも悪くも野球小僧と言ったところがあり、2度引退を表明した後の様子を阪神時代の同僚だった下柳剛は「一番大事なおもちゃを取り上げられた子供の様だった」と話している。

99年のスプリングトレーニングでは試合で一塁ベースカバーを怠り、スタインブレナオーナーから「太ったヒキガエル」と揶揄され、この言葉を聞いた良部は怒ってモーテルに引きこもってしまい、説得に訪れた団野村は中々いうことを聞かない良部に対し、ペットボトルぶっかけ物理的に頭を冷やさせたというエピソードがある。

ドカベン プロ野球編』では何故か語尾に「チバ」「ロッテ」「マリーンズ」とつけて喋るキャラにされていた。

2007年大阪飲食店で暴れて現行犯逮捕2010年にはアメリカ飲酒運転により逮捕されている。

通算成績

通算:17年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率 WHIP
NPB 273 43 3 72 69 11 -- .511 1286.1 558 1282 560 508 3.55 1.32
MLB 126 4 2 34 35 16 2 .493 514.0 175 405 307 294 5.15 1.40

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