伊14とは、大日本帝國海軍が建造した伊13型/巡潜甲型改二2番艦である。水上攻撃機晴嵐2機を搭載・運用できる潜水空母の機能を持つ。大東亜戦争末期の1945年3月14日に竣工し、終戦まで生き残った後、1946年5月28日に真珠湾沖で海没処分された。
第一次世界大戦以降、潜水艦に水上偵察機を搭載させる試みは列強各国で行われたが、いずれも実用化に失敗。世界で唯一大日本帝國海軍のみが成功し、ここから始まった水上機搭載潜水艦の系譜、その終着点や極致と言えるのが潜特型と巡潜甲型改二型である。潜水艦を空母に見立てる構想は戦後登場した弾道ミサイル搭載潜水艦と同一であり、潜水空母は時代を先取りしていたと言える。
連合艦隊司令長官の山本五十六大将は対米戦を見越し、アメリカのアキレス腱と言えるパナマ運河攻撃の腹案を温めていた。開戦後の1942年1月、軍令部は艦政本部に対し、「航空魚雷1個もしくは800kg爆弾1個を搭載できる攻撃機を積んで、4万海里を航海できる潜水艦は無いか」と諮問。これを受けて艦政本部が意見を煮詰めた結果、5月に基本性能が完成し、翌月には設計が完了。改マル五計画にて18隻の建造が決定した。これが伊400型(潜特型)として後に結実するのだが戦況の悪化によって5隻に減らされてしまう。減った13隻分の穴埋めをするため、帝國海軍は建造予定の巡潜甲型改一2隻(伊13、伊14)を潜特型に準じた改装を施し、攻撃機2機の運用能力を持たせる事にした。言わば伊14は簡易版伊400型である。
元々は巡潜甲型改一と同規格で建造される予定だったが、水上攻撃機2機を搭載するため航空機格納筒、艦橋、司令塔の形状が変更。前甲板に航空機用のカタパルト1基と回収用の折り畳み式クレーン2台を設置し、排水量増大による乾舷の減少を抑えるべく船体にバルジを装着した。船体が大型化したものの、主機を変更しなかったため、出力低下を招いてしまっている。
要目は全長113.7m、全幅11.7m、排水量2620トン、出力5200馬力、水上速力16.7ノット/水中速力5.5ノット、安全潜航深度100m、乗員104名。兵装は艦首九五式魚雷発射管6門、魚雷12本、40口径11年式14cm単装砲1門、九六式25mm三連装機銃2基、九六式25mm単装機銃1基。伊400型をスケールダウンしたタイプだが、それでも巡潜乙型より排水量が500トンほど多い。
ミッドウェー海戦後に策定された改マル五計画にて、甲型一等潜水艦5091号艦の仮称で建造が決定。1943年度臨時軍事費から建造費を捻出する。
1943年5月18日に川崎重工神戸造船所にて起工し、1944年3月14日に進水式を迎え、寒さが強まって来た年末に艤装員事務所が開設された。どの潜水艦もそうだが撃沈されれば艦長から一兵卒まで根こそぎ戦死である。このため一蓮托生の意識が強く、乗組員同士の結束も固かった。このため完成前からマラソン競技が行われるなど兵も士官も和気あいあいとしており、チームワークも強固。まさに家族同然の仲と言えた。乗組員の1人は駆逐艦とは比較にならないほど仲が良かった旨の記録を残している。
そして1945年3月14日に竣工して初代艦長に清水鶴造中佐が着任。同時に横須賀鎮守府へ編入され、伊400、伊401、伊13とともに第6艦隊直卒第1潜水戦隊を編制した。竣工した日に神戸造船所を出港し、司令部のある呉軍港へと翌日到着する。しかし到着して間もない3月19日朝、敵空母エセックス、イントレピッド、ホーネットⅡ、ワスプⅡ、ハンコック、ベニントン、ベローウッドから発進した米艦載機240機以上が呉軍港を3回に渡って空襲。生き残っていた水上艦艇と基地施設に大きな損害を受けたが、幸い伊14に被害は及ばなかった。その後、戦隊司令有泉龍之助大佐の提案によりシュノーケルを装備する工事を受ける。東京大空襲の報復で第6艦隊はサンフランシスコ爆撃を提案し、実際に軍令部が検討に入ったが、小沢治三郎中将によって却下された。4月1日午前5時、安下庄を出港して呉に回航。
伊14が就役した時には既に連合艦隊は壊滅、内地の燃料すら尽きかけており、呉には2000トンの重油しか残されていなかった。まともに作戦行動を行えるのはディーゼル駆動する潜水艦くらいで、故に第1潜水戦隊は唯一の通常攻撃部隊と言えた。とはいえ潜水艦と言えど重油は消費する。伊400型1隻だけで2000トンを消費するため、呉の備蓄燃料だけでは全く足りず、国外から燃料を持ってくる必要に迫られる。
5月27日午前8時、伊14は姉妹艦伊13と一緒に呉を出港。作戦行動に必要な燃料を得るため鎮海警備府へ向かう。しかし道中の瀬戸内海や関門海峡はB-29から投下された磁気機雷で厳重に封鎖されており、往来するだけでも非常に危険な海域と化していた。同日19時に海峡の入り口である門司で仮泊。夜明けを待ってから出発して日本海に入り、5月28日に鎮海へと到着。燃料を満載して翌日出港し、瀬戸内海の機雷封鎖に伴って新たな訓練地に指定された七尾湾に向かった。6月1日、道中で濃霧に見舞われたため一旦富山湾に退避し、6月3日に七尾湾へ到着。現地で伊400や伊401と合流する。
七尾湾では血の滲むような訓練が繰り広げられた。6月6日より第1潜水戦隊と第634航空隊による合同訓練が開始され、パナマ運河の閘門攻撃を見越した夜間雷撃も並行して実施。歴戦の潜水艦乗りである清水艦長の提案により効率の良い訓練が行われ、潜航訓練や飛行機発艦訓練において他の潜水艦より優れた成績を残す。その優秀さは清水艦長から「古今東西第一等」と評されるほどだった。艦長は精強なる伊14を築く事に心を砕いたが、乗組員同士の交流や団結については岡田先任将校ら幹部に一任。互いに支え合う環境が伊14の練度を高めた。不断の努力によって晴嵐1機の組み立ては7分以内に収められ、45分以内に4隻全ての潜水艦が晴嵐の発進準備を完了させられる事を証明した。
現実味を増す沖縄の失陥、日本海の制海権喪失と米潜水艦の跳梁、日に日に増大する敵の空襲を鑑み、6月12日に大本営はパナマ攻撃を断念。代わりにアメリカ艦隊の前進拠点となっているウルシー環礁を攻撃する事を決定する。6月15日に黎明射出訓練に続いて爆撃訓練を実施。6月19日の晴嵐の水上発進訓練を以って全ての飛行訓練が完了したため、翌20日に晴嵐を降ろして七尾湾を出発し、6月22日に舞鶴へ回航。推進軸の修理を受ける。6月25日13時25分、連合艦隊は嵐作戦と光作戦を発令。まず伊13と伊14が孤立中のトラック諸島に偵察機彩雲を届ける光作戦を行い、その彩雲を以ってウルシー環礁を偵察。得られた情報をもとに伊400と伊401が晴嵐による攻撃を仕掛けるというのが嵐作戦であった。作戦終了後はシンガポールへ回航。10機の晴嵐を搭載して次期作戦に備える事とした。
7月2日、伊14と伊13は舞鶴を出港して本州北端の大湊へ向かうが、航行中に推進軸の問題が発生して到着が遅れ、7月6日にようやく入港。乾ドックへ入渠して修理を行う。生還を期さない絶望的な作戦だったため修理完了するまで乗組員には最後の上陸が許可された。予定では伊14が先に出発するはずだったが、出港直前にオイル輸送バルブを締めっぱなしにしたため、軸系過熱事故が発生。長期の作戦行動に耐えられなくなり急遽修理が必要となる。7月9日、工員たちは「修理に10日必要」と判断するが突貫工事により予定を繰り上げる。7月14日と15日に大湊を狙った敵艦上機の襲撃があったが、都度潜航してやり過ごした。
7月17日15時、彩雲2機を大湊を出撃。しかしオーストラリアのメルボルンに拠点を置く連合軍の暗号解析部隊フルメルに通信を傍受され、行き先がトラックである事、伊14が尻屋崎沖306kmを通過すると正確に予測されてしまう。ちょうど近海には東北から北海道にかけて空襲を仕掛けている敵機動部隊が遊弋し、その中には先発の伊13を葬ったハンターキラーグループも含まれていた。このままでは自ら敵中に飛び込む格好になる訳だが、幸運の女神は伊14に微笑んだ。7月19日午前3時、清水艦長は東寄りに大きく迂回する航路を選択して針路変更。これが幸いして沖合いを警戒するハンターキラーグループに捕まる事無く太平洋へ出られた。
連合軍に動きを読まれながらも伊14は巧みに哨戒網を突破して索敵をかわし続ける。三直交代制で神経を尖らせながら、強い緊張下での戦闘航海が続く。航空機格納筒や艦橋を巨大化した影響でバランスが悪くなった艦体に、バルジだけ付けて済ませる無理やりな対症療法を施したせいか海が時化ていると激しいローリング(横揺れ)に見舞われた。司令塔に立っているとまるでハシゴの上のような不安定な錯覚に陥る。あまりにも横揺れが酷かったため「両舷停止」の号令が下った事もあったという。艦が南へ行くにつれて徐々に暑くなり始めた。
7月30日夕刻、マリアナ諸島東方にて見張り員が左前方45度に黒い物体を発見。相手は哨戒中の空母と駆逐艦のようだ。逃走を図るべく伊14は敵艦に艦尾を向けて右へ回頭するが、右方向より敵機が出現したため急速潜航。水深85mまで沈降しつつ隔壁を閉鎖して爆雷防御を行い、推進器を切って息を殺す。聴音によると敵艦は次第に遠ざかっているらしい。間もなく音源消失。奇跡的に発見されずに済んだ伊14であったが、悪夢はこれで終わりではなく、むしろ始まりに過ぎなかった。今度は左右前後、すなわち全方向からスクリュー音が探知され、逆探装置は最大感度の「5」を指す。まだ敵は伊14の存在に気付いていない様子で、艦の頭上を無数の敵艦が通過していく。勿論見つかれば四方八方からヘッジホッグ攻撃を受けて瞬殺されるのは火を見るより明らかだ。これまで経験した事のない長期の潜航で空気は汚濁し、空気清浄機が稼働、乗組員は出来る限り動かないようにして耐える。水深85mから恐る恐る浮上、潜望鏡深度の18mまで到達すると海面に第1潜望鏡を出して様子を確かめる。ぐるりと周囲を見渡す清水艦長の動きが突然止まり、「これ駆逐艦」という発言で信号長が記録を取る。
日付が変わった7月31日午前0時、とうとうバッテリーや圧搾空気が無くなり、窮地に立たされる。これまでに伊14は駆逐艦、空母、武装商船、巡洋艦、艦種不明の大型艦など8隻の通過を認めていた。まだ敵がいるかもしれない不安に襲われながらも、やむなく敵に発見される危険を冒してシュノーケルを使用。艦内に新鮮で冷たい空気が吹き抜けて換気とバッテリーの充電を実施。潜望鏡を上げて海上の様子を探っていると、後方を監視中の航海長が敵駆逐艦接近の報告を発したため潜航退避。シュノーケルによる充電と換気を3回繰り返して長時間の潜航を耐え凌ぎ、23時30分頃に浮上。厳重な対空監視を行いながら海域を北上して辛くも虎口を脱した。潜航から実に44時間が経過していた。
8月2日午前2時、ブラウン島より敵哨戒機発進の無線通信が入る。それを裏付けるかのように1時間後にはレーダー波が探知されるが、機影は現れなかった。トラックに向けて南下中、突如として艦首より沈降。急速潜航の令が出ていなかったため乗組員に混乱が生じたが、無事に海の中へと滑り込んだ。午前4時、ディーゼル音源を聴音して艦全体に強い緊張が走る。海中で14時間を過ごし、18時に安全を確認して浮上。一路トラックへと急ぐ。
8月3日の日没後(現地時間午前3時頃)、トラック北東150海里にて聴音手が前方からのスクリュー音を探知。間もなく東の水平線に小さな船影を認めた。敵は排水量500トン程度の小型駆潜艇。既に敵は伊14を発見しており、ずっと追跡されていたと思われる。彼我の距離は5000~6000m。清水艦長が「両舷停止、潜航急げ!」と怒鳴り、艦は急速潜航。撹乱のため水中速力を遅めて北へ南へ針路を変えまくり、やがて始まるであろう水中探信の電波効果を減らすため伊14は海面近くに浮上して敵の内懐へ入り込もうとする。伊14を見失った敵駆潜艇は速力を上げて南北を走査し、水中探信…いよいよソナー音が響き始めた。
甲高い音が山彦のように何度も鳴る。ここからは命のやり取りと読み合い。ミスを犯したり、動きを読まれた方が死ぬ。伊14には防探塗料が塗られていたが、そんなものは効かぬと言わんばかりに回数を重ねるごとに正確になっていき、最高で5回ものソナー音が鳴り響いた。明らかに探りを入れられている。もし位置と距離を測定されれば一巻の終わり。後は爆雷によって艦を粉砕されて全員海の藻屑である。眼前に迫る死の恐怖、高鳴る鼓動、喉が渇く。誰もが凄惨な未来を予想する絶望的状況。だが乗組員たちの生への願いが幸運の女神に届いたのか。次第にソナー音の回数が少なくなっていき、音も遠ざかっていった。最後まで伊14を捕捉出来なかったのか、トラックに近すぎて怖気付いたのか。ともあれ伊14は生還した。
トラック入港が間近に迫った夜、操舵員の居眠りにより艦が同じ場所をぐるぐると旋回する一幕があった。度重なる敵の襲撃により乗組員の疲労とが極限にまで達していた証左と言える。
8月4日17時30分、遂に目的地のトラックへ入港して光作戦を完遂。持ってきた彩雲2機を揚陸した。しかし先発したはずの伊13の姿が見当たらない。伊14より1週間先に出発しているのだからもう到着していなければならないのだが、いないと言う事は撃沈されたのだと乗組員一同は直感した。
トラック基地は機能喪失している上、前線から取り残された戦略的価値の無い拠点と成り果てていたが、それでも1日に1~2回は必ずB-29が爆撃に現れる。何やら航空新兵の爆撃訓練に使われているらしい。このため軍艦旗掲揚が終わる午前8時から15時までは潜航沈座して退避。投下された爆弾と思われる破裂音が艦内に鳴り響く。空襲が終わって安全が確認されると伊14の頭上に船がやってきて鐘を鳴らし、それを合図に浮上する。空襲の合間を縫って乗組員は半舷上陸して次の作戦に備えて英気を養う。一旦日本本土へ帰投する予定だったが、8月6日にシンガポールへの回航を命じられて出港準備を開始。
1945年8月15日、トラック基地にて終戦を迎える。玉音放送はトラック基地にも届いたが、平文だった事、未だトラックが陥落していない事から乗組員は半信半疑であり、アメリカ軍の謀略だろうと考えられた。しかし間もなく「終戦の詔書が換発されたが、未だ停戦命令が出ていないとして各軍は戦闘を続行せよ」との暗号文が届き、終戦は事実だと知らされる。第6艦隊司令部は第1潜水戦隊に香港経由で帰国するよう命じたが、清水艦長は香港に寄港したあとシンガポールに向かって戦争を継続しようと考えた。しかしそこまで燃料が持たない問題に直面して断念。
8月18日に本土を目指してトラックを出発。「潜水艦は潜望鏡を高く上げよ、黒色三角旗を掲げよ、潜航してはならない。魚雷や弾薬など攻撃兵器の一切は海中へ投棄せよ」と矢継ぎ早に電文が届き、伊14は黒色三角旗を掲げた。
8月27日午前10時20分、東京から北東420kmの水平線にマストが7~8本伸びているのを確認。相手は米第38任務部隊であった。清水艦長の指示で水上航行のまま気付かれぬふりをして離れようとするも、米機動部隊の上空を旋回していたグラマン1機に発見され、高度20~30mで伊14の頭上を飛び回る。やがて前方の米艦隊から2隻の駆逐艦が分派されて迫ってくるが、機密文書の破棄が済んでいなかった伊14は来た道を戻って距離と時間を稼ぐ。機密文書や暗号書を司令塔に集めさせ、純白の袋の中へ重しとともに入れ、袋の口をヒモで縛ったうえで規定通りに海中へ投棄。投げ捨てる際、嫌がらせで米駆逐艦から見える場所から捨てたという。こうして最後の仕事をやり遂げた。続いて駆逐艦から盛んに発光信号が送られ、間もなく駆逐艦マレーとタジールに拿捕される。
やがて米兵十数名が艦内に乗り込んできた。降伏の意思を示すと米兵によってすぐに星条旗が掲げられるも、一触即発の険悪な雰囲気が流れ始める。アメリカ軍士官から軍艦旗と暗号表の所在を問われたが「既に投棄した」と話すとこれ以上の追及は無かった。2隻の駆逐艦は伊14の両側200~300mを挟んで機銃や主砲を向けて威嚇。下手な事をすれば撃沈するぞという脅しである。しばらく無言の航行が続く中、米駆逐艦側から誰何の国際信号が打たれ、伊14の名前が書かれたキャンパスを掲げて返答とする。続いて洋上停止するよう命じられて伊14は停止し、雷撃を警戒してか米駆逐艦2隻はぐるぐると周囲を回り始める。やがて駆逐艦から短艇が派遣され、伊14に接舷するが、ここでも乗組員のささやかな抵抗でハシゴが下ろされず彼らは這うようにして登って来た。清水艦長は彼らに銃を突きつけられて「降伏するか否か」と尋ねられ、艦長は英語で降伏すると何のためらいもなく返した。乗組員100名以上の命を守るために。降伏の意思を確認すると見事な早業で黒色三角旗が下ろされて新たに大きな星条旗が掲げられた。米艦隊からは士官1名と乗組員40名を人質として差し出すよう命じられ、同日夜に砲術長と乗組員が短艇2隻に分乗して駆逐艦に移乗。
8月29日午前9時55分、相模湾に到着。湾内には100隻以上のアメリカ艦船が停泊していた。人質40名は返還され、先に入港していた伊400の隣に投錨する。8月31日14時45分、潜水母艦プロテウスに先導されて出港。伊400ともども横須賀に回航された。9月15日、除籍。
11月1日、潜水艦救助船グリーンレットに先導されて横須賀を出港。伊400、伊401とともに佐世保へ回航する。本来ならローズエンド作戦で潜水艦は処分されるはずだったが、潜水空母という特異な艦種に興味を持ったアメリカ軍によってハワイへ持ち帰られる事に。12月11日、佐世保を出港。出港から数日間は台風に見舞われ、伊14は転覆しかけるも何とか助かる。グアムとエニウェトクを経由しつつ、ハワイに向かう。12月31日、日本人乗組員が艦内で歌を歌って大晦日を祝った。1946年1月6日、真珠湾に到着。アメリカ海軍軍楽隊が演奏で出迎えてくれた。
1946年5月28日、真珠湾沖で米潜ブガーラの雷撃によって撃沈処分された。
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最終更新:2023/03/31(金) 12:00
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