伊176とは、大日本帝國海軍が建造・運用した海大七型/伊176型潜水艦1番艦である。1942年8月4日竣工。雷撃で米重巡チェスターを撃破し、ガトー級潜水艦コーヴィナを撃沈する戦果を挙げた。1944年5月17日にブカ南東で対潜攻撃を受けて撃沈される。戦果は1隻撃沈(1526トン)、1隻撃破(9300トン)。
前級海大六型をベースに、設計の簡略化で戦時急造を可能にした艦隊随伴型潜水艦。海大六型bから約3年の空白期間があるため新海大型とも呼ばれる。巡潜丙型の不足を補う目的で建造された説もあるとか。
六型のような漸減作戦能力は求められず、これに伴って航続距離が減少しているが、代わりに水上及び水中での機動性を向上。主機を改良して信頼性を向上させ、艦尾の魚雷発射管を全て艦首に移し、単艦行動中にしか使用しない艦尾の発射管を廃止して船体形状を高速用に変更。艦首に魚雷発射管を収めるスペースを作るために内殻形状を変更した結果、安全潜航深度が85mから80mに減少した。前級と比較すると航続距離を犠牲にして操縦性や急速潜航時間を改善したタイプと言える。海大七型には初めて最初から自動懸吊装置が搭載されていて潜航中の潜水艦深度を一定に保つ事が出来、深度調節に必要な排水タンクを不要に。また75日間の航海が可能だった。簡略化の恩恵で生産性が向上した結果、海大型最多の10隻が建造される。しかし10隻中7隻は竣工から1年以内に沈没し、1944年10月3日に伊177が撃沈された事で10隻全てが失われるなど、損耗率はとても高かった。
要目は全長105.5m、全幅8.25m、排水量1630トン、水上速力23ノット、水中速力8ノット、乗組員86名。武装は九五式魚雷発射管6門、魚雷12本、12cm単装砲1門、25mm連装機銃1丁。
伊176は全日本潜水艦中、唯一米潜水艦を撃沈した無二の記録を持つ。
仮想敵アメリカの第二次ビンソン計画成立に対抗するべく策定された1939年海軍軍備充実計画(通称マル四計画)にて、海大七型一等潜水艦第154号艦の仮称で建造が決定。予算から建造費1048万円が捻出された。
1940年6月22日に呉工廠で起工、1941年5月15日に伊76と命名され、6月7日に進水し、11月1日に艦名を伊176型潜水艦1番艦伊176へ改名する。開戦後の1942年4月15日に臨時艤装委員の阿多義広大尉が着任し、6月30日にミッドウェー海戦が帰投したばかりの伊168から殊勲の田辺弥八中佐が艤装委員長に就任、委員長不在の時は荒木浅吉中尉が業務を代行。そして1942年8月4日に竣工を果たした。呉鎮守府に編入されるとともに特設潜水母艦靖国丸が旗艦を務める第6艦隊第3潜水戦隊第11潜水隊へ部署し、艦長に田辺中佐が着任。通常潜水艦は3隻編制なのだが、第11潜水隊は海大六型bの伊174と伊175のみであり、伊176が加わる事でようやく定数を満たした。
しかし戦況の悪化は伊176に十分な時間を与えてはくれなかった。竣工から僅か3日後の8月7日早朝、アメリカ軍の大部隊がソロモン諸島ガダルカナル島とツラギ島に襲来、予想より早い反攻が開始されたのである。同日午前6時50分、連合艦隊は第3潜水戦隊にツラギ方面の敵を撃滅するよう命令を下し、即日外南洋部隊への編入を発令。僚艦が続々と内地を出撃していく中、伊176は急ぎ瀬戸内海西部で慣熟訓練を行った。
9月8日18時32分、連合艦隊は電令作第257号を発令してソロモン方面とニューギニア方面に潜水艦戦力を集中させるよう発令、これに伴って可及的速やかに全潜水艦をソロモンに集中出来るよう、伊176の戦備も急速に進められていった。
9月10日15時に呉を出港、9月16日13時に前進拠点のトラック諸島へ到着し、僅かな寄港を経て、9月18日午前10時に出撃。ガダルカナル島への敵増援遮断の目的でインディスペンサブル海峡東口へ急行する。9月24日に哨区へ到着した伊176だったが、第11潜水隊の僚艦は既にトラックへ引き揚げてしまっていたため、交代の第3潜水隊(伊4、伊5、伊7、伊8、伊22)とともに散開線を形成して索敵を開始。
10月5日、敵艦上機のショートランド来襲状況から連合艦隊司令部はインディスペンサブル海峡西方に敵機動部隊が活動していると判断し、S散開線に加わって米空母ホーネットの捜索に参加。東から伊3、伊22、伊5、伊176、伊8の順に並んで敵艦隊を待ち受ける。10月14日午前10時30分、ラバウル航空隊の水偵がソロモン諸島沖で米機動部隊を発見したとの報を出し、翌15日18時42分には伊3が敵機動部隊発見の報を出したため北上。そして唯一伊176のみが敵艦と巡り会えた。
10月20日18時56分、サンクリストバル島南東190kmで戦艦ワシントン、重巡チェスター、サンフランシスコ、軽巡ヘレナ、アトランタ、駆逐艦8隻からなる第64任務部隊を発見。19時16分、距離1500mから米重巡洋艦チェスター(伊176はテキサス型戦艦と認識)に対して魚雷6本を発射し、うち1本が右舷中央部の機関室に直撃して大破させる事に成功。乗員11名戦死、12名負傷の人的被害を与えた。不意の損傷を負ったチェスターは右舷に傾きながら急停止、その際に左舷側の水上機SOCシーガルが海へ落下し、右舷側のSOCシーガルも損傷が酷かったためカタパルトで海へ投棄された。22時45分にチェスターの機関は息を吹き返して8ノットでの自力航行が可能となったが、この傷が原因でチェスターは1943年9月まで戦線復帰できなかった。伊176は潜航中に魚雷2本の命中音と次いで誘爆音を聴音して撃沈概ね確実と報告。第6艦隊に「功績特に顕著」と認められた。間もなく敵の護衛艦艇が集まり始め、3時間に渡って74発の爆雷を投下されたが無事危機を脱して逃走している。
10月22日午前6時30分、ラバウル航空隊の水偵がガ島東端の南方180海里の地点に戦艦を基幹とした艦隊を、基地航空隊の哨戒機がその北方約40海里に駆逐艦及び巡洋艦それぞれ1隻を発見したと報告、これを捕捉撃滅するため同日午後12時30分に散開線の移動が命じられた。10月26日にガ島の陸軍が飛行場総攻撃に出るのに呼応して敵艦隊がガ島南東海域に出現する公算大と睨んだ連合艦隊は前日のうちに北方へ移動するよう命令。しかし南太平洋海戦が生起した後も敵を捕捉出来ず、10月27日午前8時にトラックへ帰投。
11月16日、連合艦隊はガ島争奪戦に参加している潜水艦に対して南洋部隊の輸送任務に協力するよう下令。これまで実施されていた輸送船による強行突入は制空権を失った事で困難になり、高速な駆逐艦による輸送も難しくなってきていたからだった。
11月20日正午、サボ島の320度線以北にてガダルカナルへの敵増援を阻止するため出撃。一度はトラックへの帰投を命じられたが、12月9日にラバウル進出を下令されて転針し、12月12日午前9時にラバウルへ到着。ニューギニア東岸のブナが連合軍の攻撃で危機的状況に立たされており、こちらもガ島と並んで補給が急務となりつつあった。伊176は輸送用潜水艦になるべく現地で12cm単装砲を降ろし、空いたスペースに上陸用舟艇の運用設備を搭載。
12月14日、ニューギニアへの補給第一陣として勇躍ラバウルを出撃し、道中何事も無く12月16日夜にニューギニア東部マンバレー河口東方に到着。陸上にいる味方に向けて発光信号を送るも、この日は連絡が取れずに断念。またこの時に海図に載っていない暗礁に乗り上げている。翌17日夜になってようやく連絡が取れたため、弾薬等の物資14トンを大発と小発に移載して陸地に送り込み、便乗者8名を艦内へ収容して帰路につく。12月20日午前9時にラバウルへ帰投。最初の補給任務は見事成功となった。翌21日16時にラバウルを出港し、12月24日午前9時にトラック到着。整備と休養を行った。
1943年1月14日、ガダルカナル島撤退作戦支援のためトラックを出発し、1月17日にショートランドに寄港。物資を満載したドラム缶を艦尾に固縛し、翌18日に出港。モグラ輸送と同時にガ島南東海域で敵艦隊の進出を阻む任務が与えられた。1月20日にカミンボ沖に到着して潜望鏡深度からドラム缶を流そうとするも、出現した敵哨戒艇によって全てのドラム缶を沈められて失敗。輸送を諦めて南東方面に向かう。1月23日午前5時30分、伊176は2隻の重巡洋艦と2隻の駆逐艦が北上しているのを発見。接近を試みたが高速で移動していたため追い越す事が出来ずに追跡断念。その後、旗艦伊11、伊16、伊17、伊18、伊20、伊25、伊26、伊32とともにガダルカナル島南方とレンネル島以北の間を哨戒。1月29日18時30分、伊176の聴音手は複数の推進音を探知したが、闇夜に覆われていて適切な雷撃位置に付けなかった。翌30日、レンネル島沖海戦で大破した敵重巡洋艦シカゴを迎撃するため移動するも発見できず。
1月31日、ガダルカナル島からの撤退作戦が開始された。2月1日にレンネル島南東海域への移動を命じられ、撤退作戦が行われている間、敵艦隊の出現情報を献身的に打電。その甲斐あって作戦は予想以上の大成功を収め、2月7日夜をもって協力任務を終えた。しかし翌朝、味方の航空隊がレンネル島南南西150海里に空母を伴う敵艦隊を発見し、潜水艦隊は引き続き哨戒任務に従事。伊18のみ接触に成功したが、敵の爆雷攻撃で撃沈された。2月17日にトラックへ帰投し、次期作戦に備えて整備を実施。
3月1日、南東方面艦隊第7潜水戦隊に編入され、2月23日から一時中断されていたニューギニア東岸ラエへの作戦輸送を下令される。加えて3月3日、ラエへの輸送を企図した81号作戦がビスマルク海海戦で完全に頓挫してしまい、より潜水艦輸送が必要となった。トラックで輸送物件の積み込み作業を実施。
3月12日にトラックを出港。3月14日、水上航行中の伊176は同じ方向に向かう味方の輸送船と遭遇。しかし輸送船は伊176を米潜水艦と誤認して砲弾3発を撃ち込んできたため、慌てて日章旗を掲げて誤解を解いた。道中の3月15日に第11潜水隊が解隊してしまったため第12潜水隊に転属。翌16日にラバウルへ寄港して武器と弾薬を満載したドラム缶90個を後甲板に積載、便乗者20名を乗艦させた。3月17日夕刻に出発し、3月18日夜にニューギニア東岸ラエへ到着。糧食と弾薬の揚陸作業が始まるが、18時5分にB-25爆撃機5機が出現して機銃掃射を受ける。田辺艦長は沖合への避難を試みるが、投下された60kg爆弾2発が後甲板にある米を入れたドラム缶に命中して左舷へ傾斜。その際に生じた破片で田辺艦長が重傷を負い、操舵手2名が戦死してしまう。左舷バラストタンクの損傷で浮力が確保できなくなって伊176の船体が沈み始める。B-25の執拗な銃撃は続き、司令塔と電信室が被弾して傷が深くなっていく。やむなく先任将校の荒木浅吉大尉が臨時に指揮を執り、沈没を避けるため浅瀬へ座礁。機銃弾の破孔を木製の栓でフタをする応急修理を始める。ラエ守備隊から大発が送られて負傷者と残っていた物資の積み下ろしを行った。かろうじて修理と揚陸作業を終え、ボロボロの船体を引きずって帰路につく。3月21日に潜航試験を実施。同日夜、ラバウルへ向けて水上航行中にレーダーを持った敵飛行艇に襲われて投弾を受ける。すかさず伊176は2基の25mm連装機銃で反撃して辛くも撃退に成功。3月22日朝、ラバウルから飛来した味方の哨戒機の上空援護を受けながら午前10時40分にラバウルへ帰投した。
重傷の田辺艦長は緊急出術で一命を取り留めたものの、背中から突き刺さった爆弾の破片が心臓と右肺の裏で止まり、とても当時の外科手術では取り除けなかった。後遺症で酷い貧血に苛まれて艦長業務ができなくなったため板倉光馬大尉が艦長代理となった。満身創痍の伊176を南東方面艦隊司令草鹿中将や第7潜水戦隊司令部が視察に訪れたが、艦の損傷も思いのほか重大であり現地では修理が出来ないと判断。3月27日にトラックへ向けて後退を始め、翌28日に内地帰投と修理を命じられた。3月30日にトラック基地へ入港後、内地回航に耐えられるだけの応急修理を受ける。
4月1日にトラックを出発し、道中つつがなく4月7日に呉到着。岡山県の三井玉野造船所に回航されて4月15日から本格的な修理を受けた。田辺中佐は退艦、5月20日に山口幸三郎少佐が艦長となる。6月8日に修理を終えて出渠して呉に向かい、瀬戸内海西部で訓練。
7月2日に呉を出港。7月10日にトラック基地へ入港して再度ニューギニアへの輸送任務に従事するべく準備。翌11日、伊176は南東方面艦隊へ編入。7月16日に出港して7月19日に約4ヵ月ぶりにラバウルへ入港し、7月20日よりラバウル・ラエ間の往復輸送任務を開始する。既に近隣のサラモアが最前線と化しており、いつラエに敵襲が起こるか分からない危険な戦況であった。連合軍の警戒をくぐり抜けて7月23日にラエへ到着し、輸送物資を揚陸するとともに海軍関係者を収容して出発。
7月25日午前2時16分、雨が降りしきるニューブリテン島オーフォード岬沖をラバウルに向けて航行中、哨戒中のオーストラリア空軍機から照明弾が投下される。周囲が昼間のように照らし出される中、危機を感じ取った伊176は急速潜航。とっさの判断が実を結び敵機の投弾よりも先に海中に没して頭上で2発の爆雷が炸裂する。間一髪であった。午前5時、安全を確認して浮上すると潜望鏡の間に不発の爆雷が挟まっているのが発見された。もし起爆していれば伊176の命は無かったと言える。また爆雷が直撃した影響で艦橋のジャイロコンパスが壊れ、天頂部にも僅かな損傷が見られたが、爆雷に生じた破孔から海水が流入した事で爆薬が湿って不発となったようだった。午後に入るとラバウルから飛来した味方の航空機が上空援護を行い、20ノットの速力で同日中にラバウルへ入港した。
8月3日、物資を満載にしてラバウルを出港し、8月6日に戦雲急を告げるラエへ到着して物資を揚陸、8月8日にラバウルへ帰投。すぐに物資を積載して8月9日に出港、ラエに物資を揚陸して8月12日にラバウルへ戻った。ラバウル・ラエ間の航路にもPTボートや敵飛行艇の活動が活発化してきており、次第に危険な輸送と化していく。8月15日にラバウルを出港し、8月22日にラエへ入港、8月24日にラバウルに帰投した。8月26日にラバウルを出港、8月29日にラエへ物資を届け、8月31日に帰投。伊176は献身的に物資を届け続けたが潜水艦で輸送できる量は微々たるものだった。
9月3日にラバウルを出港する伊176であったが、その翌朝にとうとうラエが連合軍の上陸を受けてしまう。道中で敵機や敵駆逐艦の攻撃を受けながらも突破し、9月8日にラエへ到着。ブス川の急流を盾に応戦する現地の守備隊に物資を送って9月9日にラバウルに戻った。しかし戦闘生起により今後の輸送が困難となり、ラバウルとラエを7往復したところで輸送は終了となった。
9月15日、連合軍の攻撃が予想されるニューギニア北東部のフィンシュハーフェンに物資を届けるべくラバウルを出港。竣工時から所属していた第3潜水戦隊が解隊となり第12潜水隊は第6艦隊に転属した。9月17日にフィンシュハーフェン沖へ到着したが、数隻のPTボートがうろついているのが確認されたため、隙を突いて物資を揚陸し、9月19日にラバウル帰投。9月22日に出港して二度目の輸送任務に向かうが、既にフィンシュハーフェンは連合軍の上陸を受けており、陸上の戦闘が激しくて友軍と連絡が取れず。5日間粘り強く沖合で機会を待ち続けて10月1日夜にどうにか守備隊との連絡に成功、物資を揚陸した。10月3日にラバウルへ帰投。フィンシュハーフェン周辺の制空権を敵軍に取られてしまったため、以降は北岸のシオへの輸送任務につく。
10月12日、オーストラリア空軍とニュージーランド空軍からなるB-17爆撃機87機、B-24爆撃機114機、ブリストル・ボーファイター12機、P-38戦闘機125機など計349機がラバウルとシンプソン湾を空襲。開戦以来最大級のラバウルへの攻撃を行った。港内に停泊していた伊176攻撃が始まると、伊36、伊38、伊177、呂105、呂108とともに潜航退避を行い、難を逃れた。散発的に行われる連合軍の空襲下で物資を積載し、10月17日にラバウルを出発して最初のシオ輸送に従事する。10月19日にシオへ到着して物資を揚陸、10月22日にラバウルへ帰投する。10月27日にラバウルを出港して二度目のシオ輸送に向かうも、トレジャリー諸島とチョイセル島にアメリカ軍とニュージーランド軍が上陸したため反転して同日夕刻にラバウル帰投。翌28日に再度出発し、10月30日にシオへ物資を揚陸、11月1日にラバウルに戻った。
11月1日夜、ブーゲンビル島沖海戦で撃沈された軽巡洋艦川内の生存者救助を命じられ、ラバウルを出港。現場に急行している途上、ガスマタ沖でカタリナ飛行艇から複数の爆雷攻撃を受け、至近弾により左舷の船体が損傷したため救助を断念して反転。代わりに呂104と呂105が派遣された。11月3日、ラバウルへ到着して応急修理を受ける。11月13日にトラックへの帰投命令を受けてラバウルを出港。
伊176に対するトラック帰投命令はアメリカ軍によって傍受され、トラック近海を遊弋している米潜水艦群に通達された。
11月16日22時12分、トラック南方120海里付近を16ノットで北上中の伊176の見張り員は、北東方向にて月明かりに照らされた黒い物体を発見。その正体は米潜水艦コーヴィナ(SS-226)であった。直ちに急速潜航を行い、敵潜水艦を観察したところ4分後にパーチ級と判断。どうやらコーヴィナはバッテリー充電のため浮上しているようだった。23時57分、伊176は右舷側約2400mにコーヴィナを捉えているが、雷撃角度が過剰で命中させても起爆しづらい事からコーヴィナの針路を横切る形で前進したのち回頭。
翌17日午前0時12分、突如としてコーヴィナが伊176の方へ向かってきたため、絶好の雷撃機会を得る。8分後、コーヴィナに対して3本の魚雷を発射し、25秒後に2本が命中して爆発音と衝撃波が艦を揺さぶった。午前0時30分、浮上して爆発音の場所を調査してみると多くの破片と油膜が確認されたため撃沈と判断。こうしてコーヴィナは日本の潜水艦に撃沈された唯一の米潜水艦となった。伊176が発信したとされる「トラックに向かう途中で魚雷が命中するも損傷無し」という電文がアメリカ軍に傍受されており、コーヴィナから雷撃を受けた可能性が示唆されている。11月18日正午、トラックに入港。敵潜水艦を撃沈した伊176の乗組員は英雄として歓迎され、第6艦隊は全将校を集めて祝宴を開いた。
11月20日にトラック出発し、11月26日に呉へ帰投。11月30日、神戸に回航されて入渠修理を受ける。
1944年1月5日、ギルバート作戦により潜水艦の喪失数が激増し、ニューギニア方面へ作戦輸送する潜水艦が足りなくなり、同方面への潜水艦補充を優先するよう決定が下された。1月8日午前8時、第11潜水戦隊参謀より水雷術及び機雷術の講座を1月10日から16日にかけて行うとの布告があり、講習員1名を派遣するよう要請があった。1月31日に高木清吾大尉が水雷長に、2月1日に岡田英雄少佐が艦長に着任。2月27日、神戸を出港して呉に回航。以降は瀬戸内海西部で訓練に従事する。3月19日、第12潜水隊へ転属。
3月20日、アメリカ軍の手に落ちたマーシャル諸島東方への進出を下令されて呉を出撃し、マーシャル諸島東方海域に向かう。3月27日にミレ東方への配備を命じられ、後にヤルート島東方に移動。3月30日、西カロリン諸島で空襲が相次いだ事から連合艦司令部は丙作戦第六法及び丁作戦警戒を発令し、マーシャル諸島近海で活動中の潜水艦は引き続き索敵に当たるよう命じられる。4月12日、トラックへの帰投命令を受領して帰路に就くが、4月17日に南東方面への輸送任務に従事していた潜水艦が内地帰投や撃沈などの理由で皆無となり、伊176と伊16に輸送任務が下令された。4月18日、トラック南方430海里に米機動部隊が発見され、確認のため現場に向かうも敵情を得られず、4月20日にトラックへ帰投。夏島と春島の間にある潜水艦用の泊地へ停泊した。
かつて連合艦隊が停泊していた広大な泊地には水上艦艇の姿が見受けられず、空襲で撃沈されたタンカーや船舶があちこちで転覆して赤い船腹を見せていたり、マストだけが水上に出ていた。4月下旬、伊176の岡田艦長は偶然出会った同期のクラスメート2名と殺風景な士官食堂で会食。飲酒する傍ら思い出話に花を咲かせた。
4月30日、敵艦上機によるトラック空襲に遭遇、潜航してやり過ごす。第7潜水戦隊はトラック在泊の伊176、伊16、呂45、呂106、呂108、呂115に迎撃を命じ、同日中に出撃。A散開線に進出する。5月1日、A散開線配備の潜水艦で甲潜水部隊を編制。その後、B散開線へ移動するも、会敵できず5月3日に帰還。呂45が未帰還となった。
5月10日、トラックを出港。南東方面輸送任務のためブーゲンビル島ブカに向かったが、以降は消息不明になる。どうやら潜水戦隊と現地守備隊が連絡を取ろうとした際、守備隊が持っている古い暗号を使ったらしく、それを敵に解析されて待ち伏せを受けたようだった。5月12日、ブカ島北方にて敵哨戒機に発見され、通報を受けた対潜掃討部隊が出撃。
1944年5月16日朝、ブカ島南東で米駆逐艦フランシス、ハガード、ジョンストンからの包囲を受けて身動きが取れなくなる。海中で息を殺す伊176だったが、21時45分にハガードが右舷側をソナー探知した事で位置を特定されてしまう。22時13分にハガードとフランシスが対潜攻撃を開始。翌17日午前0時15分、フランシスのヘッジホッグ攻撃でトドメを刺され、撃沈された。朝、伊176の残骸と油膜が海面に漂っていた。伊176が攻撃されている様子は地上の守備隊からも確認でき、敵艦の詳細な動きが報告されている。
到着予定日の5月18日になっても現れなかった事から、帝國海軍は6月11日に亡失と判断。7月10日に除籍した。総合戦果は1隻撃沈(1526トン)、1隻撃破(9300トン)。
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