伊33とは、大日本帝國海軍が運用した伊15型/巡潜乙型潜水艦14番艦である。1942年6月20日竣工。二度の沈没を経験するという不吉かつ不運な艦歴が異彩を放つ。
1939年に策定された海軍軍備充実計画(通称マル四)において乙型一等潜水艦第146号艦の仮称で建造が決定。1940年2月21日に三菱重工神戸造船所で起工、1941年3月25日に伊41と命名され、5月1日に進水式を迎える。開戦直前の11月1日に伊33に改名し、そして1942年6月20日に竣工を果たした。初代艦長に小川綱嘉中佐が着任するとともに呉鎮守府に編入され、第6艦隊第1潜水戦隊第15潜水隊の旗艦となる。伊33は瀬戸内海西部で慣熟訓練に従事。何事も無ければインド洋方面の作戦に投入されるはずだったが…。
1942年8月7日早朝、アメリカ軍がガダルカナル島と対岸のツラギに来襲して予想より早い反攻作戦が始まり、連合艦隊と大本営が協議を行ってソロモン戦線に潜水艦を集中投入する事を決定。内地にて整備を行っていた第1潜水戦隊にも急速出撃準備の命が下った。8月15日、第1潜水戦隊所属の潜水艦7隻は一斉に呉を出撃し、ソロモン諸島へ急行。サンクリストバル島南方で東から伊26、伊19、伊17、伊15、伊31、伊33、伊9の順に並んでA散開線を形成する。敵機動部隊発見の報に伴って8月24日16時50分に「A散開線から100海里南方へ移動せよ」との命令が下り、新たにE散開線を形成。8月28日21時、伊15が敵機動部隊を発見するも敵駆逐艦から対潜制圧を受けて見失ってしまったため、伊15、伊17、伊33に積極的な前進を命じて索敵に当たらせたが結局発見には至らず。8月30日午後12時20分、ガ島方面に展開中の潜水艦に極力泊地内の敵艦船を攻撃するよう指示が下り、同日中、伊33は敵機動部隊を発見して位置情報を通報。8月31日にH散開線を形成。
9月8日午前0時、東から伊24、伊21、伊26、伊19、伊15、伊17、伊33、伊31の順にI散開線を形成。9月13日16時32分、索敵機が敵機動部隊を発見したとの報が入り、今度はK散開線へ移動するが、9月15日午前9時10分に敵輸送船団が発見されたため、伊33、伊17、伊15の3隻はインディスペンサブル水道南口に急行。9月20日にトラックへの帰投命令を受け、9月25日に入港するが…。
1942年9月26日午前9時23分、リーフに衝突して艦首の六番魚雷発射管維持針装置が損傷。修理のため艦尾を夏島の埠頭に係留し、右舷側に特設工作艦浦上丸が右舷に横付け、艦長と先任将校は打ち合わせの目的で浦上丸に移乗するとともに伊33には浦上丸の工員と技術者が移乗してきた。しかし海面にはうねりがあり、艦首に波がかぶって作業が難航した事から技術者はアップトリムにして艦首を持ち上げるよう依頼、掌水雷長は後部メインタンクに注水して艦首を0.3m持ち上げた。ところがこの行動は将校に無断で行ったものだった。後ろに自重をかけすぎたせいで舫い索が切断、開きっぱなしだった後部兵員室のハッチ5つから瞬く間に海水が流入し、艦尾側から水深36mの皆底へ沈んでしまった。同日中に第15潜水隊から除かれる。
直ちに乗組員の救助が試みられ、ダイバーが潜水して海底に沈む伊33を確認、乗組員の一部がまだ生存していると報告したが引き揚げるための必要な設備がトラックには無かったため第6艦隊は9月27日に救助は断念、艦内にいた工員と乗組員33名全員溺死してしまう。不幸中の幸いだったのは休暇のため乗組員の半数が上陸していたため人的被害が抑えられた事だった。9月30日、事態を知った海軍省は引き揚げを命じ、10月2日に乗員の死亡を認定するとともに救難作業の主導を連合艦隊から現地の第4艦隊に移管。11月10日に作戦用潜水艦から第四予備艦に変更される。
沈没した伊33を引き揚げるため横須賀工廠から救難隊を派遣。12月19日午前4時30分、浦上丸と補助母船立山丸が前部の排水作業を行い、15時頃には前部が水面に出てきたが、艦橋ハッチカバーが吹き飛んで再び沈没してしまう。12月25日、今度は救難船みえ丸とタンカー日本丸が空気排水作業を開始。
四苦八苦のすえ1943年1月29日17時にようやく引き揚げ成功。内地で本格的な修理を受けるべく3月2日、日豊丸に曳航されてトラックを出発、護衛には特設砲艦長雲丸と平城丸がつき、3月9日からは駆逐艦夕凪が加わる。3月18日に呉工廠へ入渠して修理を行う。
1944年4月1日に呉防備戦隊に編入、修理と並行して22号水上電探とE-27電波探知機の搭載工事を行い、5月初旬まで作業が続いた。5月4日に二代目艦長である和田睦雄少佐が着任。そして5月31日に修理完了、6月1日から第6艦隊第11潜水戦隊に所属して伊予灘で慣熟訓練を行い、これまでの遅れを取り戻すかのように乗員の錬度はメキメキと上がっていった。
1944年6月13日午前7時に愛媛県郡中沖を抜錨し、午前8時40分より由利島南方で和田艦長が急速潜航を命じるが、右舷機械室吸気筒より突如浸水。制御室後方が全て満水になってしまう。そして水深61mの海底へ沈んでしまったが、伊33の全長は103mなので艦首は水上に出ていた。発令所には和田艦長を含む10名の士官が、前部乗組員室には13名の乗組員が閉じ込められていたが、すぐにハッチを閉めて自ら司令塔と発令所を隔絶。乗組員による決死の応急修理も艤装不良により手の施しようが無かった。浸水被害が止められなかったため司令塔を通って総員退艦するよう命じ、自身は艦内に留まった。前部乗組員室に閉じ込められた乗組員たちは脱出に失敗して大半が窒息死、残りも希望を見いだせず自殺した。
発令所にいた15名は決死の覚悟でハッチを開けて艦外に脱出。海面に出た生存者は2つのグループに分かれ、それぞれ由利島と青島に向かったが、助かったのは偶然通りがかった漁船に救われた3名だけだった。このうちの1名はすぐに息を引き取ってしまう。生存者の1名が松山海軍航空隊に通報し、呉鎮守府に取り次いだ事で沈没が明らかになり、潜水母艦長鯨と伊361が救難に出動。翌14日早朝、捜索機が海面に広がる油膜を発見して長鯨を誘導。6月15日にダイバーが乗組員2名の遺体を発見して引き上げた。
6月16日に呉からクレーンを装備した起重機船が到着。しかし同日夕刻、接近してきた台風に作業を阻まれて救難作業を断念。調査に関わった将校がすぐにサイパンへ送られたため原因究明の調査も中止された。この事故で乗組員102名が死亡。
1952年に残骸が売却され、翌1953年6月28日から北星船舶が引き揚げ作業を開始。報道陣が見守る中、7月23日に引き揚げられた。魚雷発射管のハッチから中に進入すると、ホルマリン臭のガスが猛烈に噴き出した。中には窒息死した乗組員の遺体が倒れ伏していた。不思議な事に遺体は非常に綺麗で、まるで生きているかのようだった。13名の遺体を収容し、船体は興居島に接岸。
8月9日に尾道の日立造船因島工場に回航され、8月12日に元海軍技術大佐1名と元少佐2名が調査のため艦内に進入。この時、1ヶ月間しっかり換気されていたにも関わらず3名ともガス中毒で死亡した。ホラーかな?ともあれ8月18日から解体作業が始まり、伊33は姿を消した。
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