平治の乱で敗れ、近江を逃れ相模の渋谷重国のもとに居候していた父親に従い、家族そろって同地にいた。そこで源頼朝挙兵を知り、初戦で堤信遠、山木兼隆らの攻略に加わった。ただし、石橋山の戦いで敗走したのちは、再度渋谷荘でかくまわれている。
以後源頼朝の再起に伴い側近に近い立場にあり、奥州合戦で鎌倉の留守を任されるなどの信頼から淡路・阿波・土佐の守護を任される。さらに、中務丞を任じられ、かつての京武者の家系にある存在として、洛中の警護なども担っていった。
ところが、正治2年(1200年)に淡路の国務を妨げ大和の反乱鎮圧のために軍勢を京都に集めて騒動を起こしたとして、院庁から守護を取り上げられる。建仁2年(1201年)に息子の佐々木高重を幕府に派遣し、冤罪を訴えたため許され、元の鞘に収ったのだが、承久の乱で後鳥羽上皇に与し、息子・佐々木高重は敗死。自身も投降を拒み、自害した。
おそらく、佐々木四兄弟の中では、最後に死ぬこととなり、それも反乱側という立場であった。
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最終更新:2025/03/21(金) 14:00
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