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佐久間盛政単語

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「佐久間盛政」さくま・もりまさ 1554~1583)は、戦国時代の武将。織田信長に仕えて活躍した。金沢の初代。後に賤ヶ岳の戦い羽柴秀吉と戦って敗北、処刑された。

概要

織田臣・柴田勝家の甥。玄蕃允を自称した。
佐久間盛政は各地の戦に参加して功績を挙げ、その勇猛さから玄蕃と呼ばれた。

叔父柴田勝家越前になると、盛政は寄騎として柴田勝家を支えた。
その後は加賀一向一上杉との戦いで活躍し、信長から加賀の統治を任された

本能寺の変織田信長が横死、織田中の閥争いが始まると、盛政は引き続き柴田勝家に協
賤ヶ岳の戦いでは羽軍の地を急襲する作戦を進言。
柴田勝家の反対を押し切り作戦を実行した盛政は、羽軍の中川清秀を敗死させて地を制圧した。
しかしく撤退しろと柴田勝家に催促されても視した盛政は、美濃から神速で駆け戻った羽柴秀吉の攻撃を受け敗走してしまう。
こうして武者の佐久間盛政は、柴田軍の敗因を作ってしまった・・・というのが世間一般のイメージとされる。

敗北後、囚われた盛政を秀吉臣に取り立てようとしたが、盛政は降伏を拒否して処刑された。

出自

織田臣・佐久間盛次の長男柴田勝家だが、異説もある。
柴田勝政(勝安)〔1〕、保田安政、佐々勝之がいる。
妻は佐久間盛重の

佐久間相模三浦を祖とする鎌倉以来の名門武
佐久間は尾・三河周辺に所領を有し、熱田神宮と結びつきを強めて伊勢湾の流通にも関わっていた可性が摘されており、その利関係から織田に仕えて今川や三河の人衆としく争った。
また織田信長の尾統一戦では一貫して信長に味方したので、信長から厚い信頼を寄せられた。〔2〕
織田重臣の佐久間信盛盛次の従兄弟)や、桶狭間の戦いで玉砕した佐久間盛重(叔父)らを輩出した。

君の信頼厚い名門のに生まれた盛政は、武人としての誇りと、身の丈六尺=180cm以上という巨を備えていた。ら顔で豊かな傑らしい容貌だったとされる。

初陣~元亀年間

1568年、織田信長将軍補・足利義昭を奉じて上作戦を開始。
佐久間盛政はに従い近江攻めで武功を挙げて初陣を飾った。

1570年4月越前攻めではくも兵を率いて手筒山攻めで活躍した。〔3〕

同年6月織田軍の美濃へ引き揚げた隙に、南近江六角起。
柴田勝家佐久間信盛は出して野州河原六角軍に決戦を挑んだ。
盛政は、この戦いが初陣となったの保田安政(佐久間安政)と共に先駆けして敵へ攻め込み、大活躍した。
当時の盛政は、近江南部人衆を率いた柴田勝家の与だったとされる。
河内畠山臣・保田婿入りした安政は同年8月三好との合戦にも参加して一番の手柄を立てた。

1571年の比叡山攻めでは、盛政の柴田勝家の養子になっていた柴田勝政が初陣で参戦。

1572年4月織田から離反した三好義継松永久秀河内畠山昭高を攻撃。
佐久間信盛織田軍を率いて救援に向かい、保田安政も参戦した。
佐久間信盛と保田安政は同年11月三方ヶ原の合戦にも参戦した。

1573年、将軍足利義昭が挙兵して織田と対決した槇合戦が始まった。
盛政は柴田勝家に従い参戦して柴田勝政と先争いをした。
同じく保田安政は佐久間信盛・信勝子に従い、先にを渡って佐久間勢を先導した。
さらに敗北した足利義昭を匿った三好義継佐久間信盛が攻撃。
保田安政は佐久間信盛に従い河内若江へ攻め込み、三好義継自害に追い込んだ。

年間は信長朝倉浅井六角三好武田延暦寺・本願寺・将軍と敵対して存亡の危機に立たされた時期であり、窮地の中で獅子奮の働きをした佐久間兄弟信長賞した。

天正元年~一向一揆との戦い

信長包囲網が消滅した後も、織田佐久間兄弟の苦難は続いた。

1574年1月越前一向一が挙兵。
加賀から援軍を得た一向一越前織田軍を駆逐し、5月までには越前のほぼ全域を握した。
続いて3月には甲斐武田勝頼美濃へ侵攻。織田武田軍への対策に追われて越前を奪還できなかった。

同年4月、畿内の反織田波・讃岐三好党が結集して攝津和泉河内織田方のを攻撃。
河内では前年、保田安政の君だった守護の畠山昭高信長)が守護代・遊佐信教(将軍)に謀殺されていた。
保田信長に救援をめ、佐久間信盛派遣された。
保田安政は佐久間勢の先鋒として高屋攻めに参加。この時は織田方が劣勢のまま決着はつかなかった。

しかし1575年4月に入ると織田軍は反撃して三好軍に勝利し、 三好一門は相次いで信長に降伏した。
5月には長篠の戦い織田・徳軍が武田軍を打ち破り、続いて美濃東部を武田から奪還した。
後顧の憂いを絶った織田軍は同年9月越前一向一を攻撃して勝。加賀にも攻め込み南部の江沼能美を征した。
佐久間盛政も越前攻めに参加した。
戦後柴田勝家越前の統治を任されると、盛政は引き続き柴田勝家の寄騎として配属された。
同僚は前田利家佐々成政不破光治金森長近・簗田広正・武藤秀たちで、彼らはいずれも信長に重用された武将だった。

1576年5月越前で本願寺教団と対立していた浄土真宗高田の専修寺に対し、盛政は門徒の武装を勧める書状を送った。〔4〕
また前年には柴田勝家も専修寺に武装を示した。他方で徴税の一環として武器を納めるよう神社に命した。
当時の越前は、滅亡した朝倉を慕う領民たちが反織田の活動を行うために宗して一向一に参加するなど不穏な情勢が続いていた。
朝倉の残党は加賀一向一に合流し、柴田勝家が率いる北陸方面軍と戦い続けることになる。

、畿内では保田安政が石山本願寺攻めに参加。苦戦の末に強敵・雑賀衆を敗走させた。

11月加賀越前の一向一が挙兵。織田の梁田広正が守る加賀大聖などを攻撃した。
梁田は善戦して敵を撃退したが、すぐに加賀中の一が挙兵して大軍で押し寄せた。
盛政は柴田勝家示で援軍として駆けつけ、一に奪われた砦を奪還。
この戦いでは柴田勝政とその軍勢も奮闘して敵を多数討ち取った。

戦後加賀の旗頭だった梁田とその寄騎たちは尾に呼び戻された。
一方、佐久間盛政は大聖の支である日に駐留し、次いで大聖に移った。
この異動により盛政は梁田の後任として加賀の旗頭に据えられたとみられる。〔5〕

加賀平定戦

加賀へ移った佐久間盛政は織田方の砦を修して守りを固める一方、諸将と協して一向一砦を攻略していった。
この頃には旧富樫の遺臣や彼らを支持した寺社、一向一から離れた人衆や僧侶が合流し、能登を治める畠山との同盟交渉も進展するなど織田が優勢になっていた。

当時の北陸地方では一向一と越後の上杉謙信が抗争を続けていたが、1576年に一向一上杉の同盟が成立。上杉謙信は、一向一の背後を脅かす越中能登の親織田への攻撃を開始した。〔6〕
上杉軍は加賀にも攻め込み、敵対していた現地の人衆にずくで同盟を認めさせた。
1577年、畠山上杉軍の攻撃を受け、能登七尾に籠して織田へ救援を要請した。
しかし加賀北部は一向一の勢圏だったので、織田軍が通行できる状況ではなかった。〔7〕
七尾も陥落し、畠山中の親織田は殺された。

当時の佐久間盛政は、織田軍と一向一が争奪を繰り返した御幸塚砦を確保して大規模な修を行った。
御幸塚砦は加賀小松の近くにあり、北街道を押さえる加賀中部の重要拠点だった。 上杉軍や一の軍勢が南下したら必ず襲撃しただろう拠点である。
盛政はこの砦に駐留して、加賀一向一大将格だった若林長門守と対峙した。
その間に織田北陸方面軍は加賀南部全制圧をして行動した。

1577年頃、加賀南部柴田勝家の一門衆・柴田義宣が包囲。
柴田義宣が戦死すると、養子の柴田勝安(佐久間盛政の)が領地と任務を引き継ぎ、翌年攻略した。
柴田勝安は以降2年に渡り現地の一と戦い続けて、ついに彼らを屈させた。その後は善政を敷いたので、現地の情勢は落ち着いた。〔8〕

1578年、上杉謙信が死去して越後で内乱が勃発。(御館の乱)
濃尾地方織田軍は越中に攻め込み、上杉軍を撃破して越中に拠点を確保し、北陸の友軍を支援した。
越前加賀織田軍は加賀北部への侵攻を開始。佐久間盛政、拝郷嘉、徳山則秀らが活躍した。

1580年を迎えた頃には近畿中国地方でも織田が優勢になっていた。
同年3月柴田勝家加賀北部を制圧するために1万5千人の大軍を編成し、佐久間盛政と柴田勝政が先鋒を務めた。
盛政は畠山の遺臣・長連と協して、一の拠点だった加賀徳寺などを攻め落とした。
佐久間盛政、柴田勝政、拝郷嘉、徳山則秀、長連が各々兵を率いて北上。各部隊は連携して途上の一側の施設を襲撃、焼き討ちした。〔9〕
佐久間勢は能登まで進撃して南西部の末〔10〕を攻撃。敗走した敵将を追いかけて加賀へ戻り、加賀の霊峰・白山近くにあった願寺〔11〕を包囲した。
盛政は寺に織田への協めたが、拒否された。〔12〕
佐久間勢は願寺を焼き討ちした。
 
願寺を焼き払った佐久間勢は南下して他の織田軍と合流し、各地を制圧。そして加賀一向一最大の拠点、金沢御堂(金沢御坊、御山)の攻略に取り掛かった。
佐久間勢は御堂の周辺にあった砦を全て攻め落とし、御堂を孤立させた。〔13〕
1580年4月、盛政は調略で現地の領民を味方につけて、籠揮した僧侶たちを開に追い込んだ。
僧侶たちは御堂を佐久間勢に引き渡し、各々が所属する寺へ帰った。
戦が終わると盛政は御堂に留まり、軍事要塞となっていた金沢御堂を金沢名して修工事を行った。〔14〕

加賀定は畿内の織田軍が行った石山本願寺の包囲戦にも影を及ぼし、本願寺の法顕如は交渉の末に石山本願寺から退去した。
しかし後継者の教如は石山本願寺で籠継続し、織田に対する徹底抗戦して各地の門徒に文を送った。
加賀では白山周辺の一織田軍と戦い続けた。

1580年6月、佐久間盛政は白山麓の攻略するために出した。加賀能登を結ぶ重要拠点であり、佐久間勢が焼いた願寺の近くにあった。
迎撃した一の軍勢と佐久間勢は二度の野戦を行い、佐久間勢は惨敗した上に多数の死傷者を出してしまった。〔15〕
見かねた柴田勝家は一側に和を持ち掛けた。

越攻めの失敗は盛政にとって大きな痛手となったが、加賀一向一織田軍を加賀から駆逐できるだけの軍事をすでに失っていた。
には北陸方面軍が能登越中にも攻め込み、越中織田軍と合流して順調に勢を拡大した。

1580年8月石山本願寺から教如たちも退去した。
その直後に、佐久間の出世頭だった佐久間信盛、信栄子が織田信長から書状で非難されたすぐ後に出奔した。
佐久間出身で信盛の与だった保田安政は、信長の仕打ちに落胆して居から退去し、紀州根来に引き籠った。安政は後に北陸方面軍に加わった。
佐久間信盛の失脚は遠く加賀にいた佐久間盛政にも衝撃を与えたようで、盛政は自ら進んで屋敷で謹慎した。 だが信長はすぐに盛政を復帰させた。

同年10月上杉の内紛を制した上杉景勝加賀一向一への支援を再開した。
このため織田に従っていた加賀人衆の一部が挙兵して織田に敵対した。
現地へ派遣された佐久間盛政と柴田勝政は、勝利して反乱を鎮圧した。

11月白山周辺の一は和交渉の為に代表者を加賀へ送り出した。
ここで柴田勝家は一側の代表者たちを皆殺しにして、彼らの首を近江安土の信長へ送った。〔16〕
事件のすぐ後に佐久間盛政はを攻撃し、導者を失った一の軍勢を攻め崩してを奪った。 そして捕まえた敵兵を磔にして見せしめとした。
同時期、加賀一向一導者だった若林長門守も織田によって殺された。〔17〕
盛政は白山周辺の他の砦も攻め落として加賀の征事業を成し遂げた。
 
攻略後、同には柴田勝家麾下の吉原次郎兵衛が、隣の二曲には同じく毛利九郎兵衛と三戸田久次郎が駐留した。〔18〕

戦後加賀定の一番の功労者だった盛政は、織田信長から加賀北部の石川と河北に13万石の領地を与えられた。〔19〕
加賀の諸将は盛政の与となった。盛政は20代若さ持ち大名となり、その軍勢は以後も北陸方面軍のを担い続けた。

上杉家との戦い


1581年2月柴田勝家北陸定の経過報告と京都で開催されるえの行事に参加するために、養子の柴田勝豊を連れて上した。
他には柴田勝政、前田利家佐々成政不破光治金森長近、原長頼、神保長住らが参加した。
北陸方面軍の要な武将たちが離れたため、北陸方面は手薄になっていた。〔20〕

一方、北陸織田と対峙する上杉は、密かに反撃の準備を進めていた。
3月上杉重臣の河田長親越中加賀人衆を扇動し、両織田拠点を同時攻撃させた。
河田の挙兵から僅か三日後、加賀白山では各地から一の軍勢が集結してと二曲を包囲した。

佐久間盛政は兵を集めて現地へ急行したが、間に合わず両は陥落。将たちは戦死し、守備兵も尽く討ち取られるか捕虜にされてしまった。
盛政は悔んだが、落の後だったので一旦は撤退の示を出した。
しかし盛政は悔恨の念が強すぎたのか、引き返して一の軍勢と戦い、結果として大勝利を収めた。
この時の佐久間勢の戦いぶりは凄まじく、以後盛政は玄蕃と呼ばれて恐れられた。

前年の1581年には加賀能登越中の親上杉や一向一人衆が集結して能登の荒山に籠し、荒山合戦が始まった。〔21〕
能登を治めた前田利家は救援を要請し、柴田勝家は佐久間盛政たちを派遣した。
盛政は諸将と協して荒山を猛攻撃したのではすぐに陥落し、救援に駆けつけた上杉軍は何もできず撤退した。

1582年も白山の一は挙兵したが、事前に調略を進めていた盛政は一を鎮圧した。
さらに底的な残党狩りを行い、一方の集落を襲撃して焼き払ったという。
この苛作戦により、遂に加賀一向一は解体消滅した。
白山との戦いでは、盛政の柴田一門の養子になった柴田勝之が初陣で参戦して奮闘し、織田信長から賞賛された。

1582年1月佐久間信盛が死去した。
2月織田信忠が大軍を動員して武田を滅ぼした。柴田勝之も従軍して戦功を挙げた。

同年5月本能寺の変織田信長信忠子が死去。
本能寺の変の後、柴田勝之は越中に赴いて佐々成政に仕えた。時期は不明だが成政の婿になり佐々の名字を名乗った。
保田安政はすでに柴田勝家に仕えていたので、佐久間兄弟って北陸で再会した。

荒山合戦~賤ヶ岳の戦い直前

本能寺の変が起きた時、北陸織田軍は上杉を攻撃中で、越中に展開していた。
佐久間盛政は別働隊を率いて越中を攻撃し、の救援に向かう上杉軍を足止めした。
を攻め落とした直後に上方の異変を知った柴田勝家は撤退を決断。盛政も攻めを止めて従い、加賀へ引き揚げた。
能登では情勢が不穏になっていたので、前田利家は舟を使って急いで能登へ戻った。

柴田勝家は速やかに越前へ戻り、明智光秀と戦う準備を進めた。
柴田勝豊柴田勝政、保田安政の軍勢を近江派遣し、前田利家にも出を要請した。
しかし前田利家能登の情勢を理由に挙げて、出を断った。〔22〕
結局、北陸方面軍は柴田勝豊たちが近江北東部を制圧しただけで、織田信長の弔い合戦には参加できなかった。〔23〕

山崎の戦い羽柴秀吉明智光秀を倒した後、尾清須で織田の今後を決める清須会議が行われた。
柴田勝家柴田勝政を伴い出席した。
会議の結果、柴田勝家は勝豊たちが明智方から奪還した近江北東部を手に入れた。だが秀吉京都がある山を含めてかに多くの地域を治めることになり、その勢は著しく強大化した。〔24〕

清須会議の後、能登では有寺院寺が織田に敵対し、越後へ亡命していた人衆を呼び戻して挙兵した。
上杉景勝能登へ戻る人衆に兵を貸し、さらに後詰の軍勢を派遣する準備を進めた。〔25〕
織田の軍勢は能登越中にある石動山と荒山に籠り、荒山では既存の砦の修工事を始めた。

寺が挙兵すると、前田利家柴田勝家と佐久間盛政に援軍を要請した。
要請を受けた盛政からも柴田勝家に事態を報告すると共に、情勢が逼迫していたため直ちに出した。
盛政と拝郷嘉は、僅か二日で兵を集めて荒山の近くの高という土地に入った。〔26〕
この時点で荒山の砦の工事はほとんど進んでいなかった。

盛政と拝郷は現地の人々の協を取り付け、荒山の砦修の情報を知ると、直ちに出して荒山へ向かった。
盛政は先ず斥を出して状況を把握することに努めた。
そこで前田勢と寺僧兵団の遭遇戦が行われ、敗れた僧兵団が荒山へ向かっていることを知ると、直ちに反乱軍数千人が籠る荒山を猛攻撃した。
佐久間勢の猛攻を受けて敵軍の導者は尽く戦死。
指揮官を失った敵軍は敗走して石動山へ向かったが、退路に回り込んだ拝郷勢に捕捉されて壊滅した。〔27〕

友軍を失い孤立した石動山は前田利家が制圧して反乱を鎮圧。
上杉軍が送った援軍は間に合わず撤退した。
その後は佐々成政下の越中人衆が独上杉軍を抑え込み、北陸の情勢は安定した。

その頃、中央では羽柴秀吉が清須会議約束違反の築を行ったり、織田信雄滝川一益の対立を煽るなど内紛の火種を作っていた。
柴田勝家近江長浜を統治する養子の柴田勝豊を通じて秀吉と交渉の機会を設けて、前田利家金森長近、不破勝派遣した。
一方で柴田勝家近江越前を結ぶ兵站基地としてヶ瀬という土地(の中尾山)に玄蕃尾を築かせた。〔28〕

11月柴田勝家は軍勢を近江派遣した。
12月秀吉は5万の大軍を率いて長浜を包囲。長浜柴田勝豊は降伏し、臣団と軍勢は羽軍に組み込まれた。
さらに羽軍は江北で砦群の構築を始めた。

1583年3月秀吉の専横を憂慮した柴田勝家解けを待たず挙兵。諸将を従えて南下した。
対する秀吉も大軍をえて北上した。
近江に集結した柴田軍の兵数は2万~4万5千、羽軍は5万~12万ほどだったとされる。〔29〕
佐久間兄弟は盛政、勝政、(勝安)、安政が賤ヶ岳の戦いに参戦した。佐々勝之は越中に留まった。

賤ヶ岳の戦い

※以後の項では佐久間盛政の行動と戦闘の経過を中心に記述しています。
日本史における位置づけ、政治的な経緯と戦後に及ぼした影を含む大局的な視点からの記事内容は「賤ヶ岳の戦い」の記事を参照のこと。

佐久間盛政の軍勢は先発隊としてヶ瀬に入り、西の山々に砦を築いて友軍を迎える準備を整えた。
到着した柴田軍は北街道の要所であるヶ瀬に本を置き、各砦に諸将が入り、羽軍を迎え撃つ構えを見せた。
南の天神山砦は柴田勝豊の部下たちが守っていたので、柴田軍はまず天神山砦に圧を掛けた。

柴田軍の強固な守備を見た羽軍は短期決戦を諦めて天神山を放棄。
街道に土塁を築いて封鎖し、土塁の後ろと東西の山々に砦を築き、守りを固めた。 さらに後方の山々にも砦を築き、柴田軍の側面攻撃に備えた。〔30〕
さらに秀吉に味方した丹羽長秀細川忠興軍が越前沿を襲撃し、若狭から近江西部までの要所を丹羽の軍勢1万人が分散して守備した。
秀吉自身は2万の軍勢と共に木ノ本に留まり、田上山では羽柴秀長が1万5千の大軍を統率した。〔31〕

                          ヶ瀬方面(柴田勝家
                                │
山(佐久間盛政、柴田勝政)                  |

集福寺坂

↓                               │
  ↓       天神山(前田利家)                │
 ↓        ↓                       │
  ↓        ↓                       │
  ↓                  ↓                               ┃  ☓  左山(堀秀政
 ↓        ↓                      ☓ ☓ ☓
         ↓       明山    堂木山 ☓  ☓  ×
 権現坂       茂山     (木村定重) (木下一元)    │
                                 │
  ↘            ━━━━━              │  
    ↘         ┃      ┃    岩崎山         |
          ↘               ┃               ┃    (高山右近)     │  北街道
      ↘       ┃ 余    ┃ ↑            │
       ↓      ┃     ┃ ↑  大岩山      │
        ↘     ┃     ┃ ↑ (中川清秀)    │
――――   ↘              ━━━━  ↑    ↑       │
      \  飯坂 ↘ → → → → → ↗ → →          │
                  \  ↘                      │    田上
            \    → 賤ヶ岳(桑山重)         │  (羽柴秀長
  琵琶湖        \   ↗                     \
                             ↗                         \
              ↗       \                             \
            ↗        \                                                
        ↗                                                  木ノ本方面
坂本方面                                         (羽柴秀吉
丹羽長秀
  
  
 
決戦は両軍の地構築から始まり、その後は睨み合いが続いて両軍ともすぐに本格的な攻撃を仕掛けなかった。柴田勝豊臣団(山路正木下一元)や木村定重が柴田軍に寝返るという噂が流れたため、羽軍は地替えを行ったが隙を見せず、柴田軍に南進の機会を与えなかった。
を築いた秀吉は総揮を羽柴秀長に委ねて長浜へ戻った。〔32〕

秀吉3月30日付けの文書で羽柴秀長に対し、長期戦の構想を伝えた上で賤ヶ岳砦周辺の小屋を秀吉心の武将たちに破壊させることを命じた。
また賤ヶ岳方面に軍勢を送り込むことを伝えた上で、現地にいる軍勢が撤退することを禁止した。 

4月2日頃、羽方で参戦していた大和筒井順慶たちが軍勢を連れて帰した。〔33〕
江北から離れた羽軍は、筒井勢だけでも4千人の大部隊だった。
軍の減少を知った柴田軍は街道を南下して正面から羽軍の砦を攻撃したが、堅固な地に篭り防衛にした羽軍に隙はなく、攻撃は失敗してしまう。
防衛成功の報告を受けた秀吉は喜ぶと共に重ねて出撃をめる手紙羽柴秀長へ送り、秀吉自身は他の戦線へ出する準備を進めた。

睨み合いが続く中、4月13日に佐久間盛政は柴田勝豊家老・山路正を寝返らせることに成功した。〔34〕
しかし羽軍に厳しく監視されていた山路は同僚や軍勢を連れて行けず、戦況に変化は生じなかった。

江北の戦況が着している間に美濃国織田信孝が挙兵し、秀吉に味方した人衆を攻撃して彼らの下町を焼き討ちする勢いを示した。
秀吉織田信孝を討つために自ら兵を率いて美濃へ入った。
秀吉軍が来ると知った信孝軍は撤収して岐阜に籠
秀吉岐阜を攻め落とすための準備を進めたが、大による長良川の増で足止めされたので大垣に留まった。

秀吉織田信孝討伐のために美濃へ向かったという情報を掴んだ柴田軍は、織田信孝を救援するために作戦を立てた。
作戦の内容は、柴田勝家が率いる柴田軍本隊が北街道の敵を牽制し、その間に諸将の軍勢も加えて6千人をえる奇襲部隊〔35〕が山間のを越えて余を西から回、南を通過して余東方の敵を急襲して占拠するというものだった。〔36〕

  

奇襲作戦における両軍の行動
盛政ほか柴田
16日 織田信孝が挙兵し、美濃西部秀吉に味方した稲葉一鉄らの領地を襲撃
17 江北の戦況に変化なし 秀吉、1万5千~2万の軍勢を率いて美濃国大垣へ移動
18日 柴田軍は動かず 稲葉一鉄氏家行広が岐阜周辺を放火
19日 日中 柴田軍は動かず 秀吉岐阜総攻撃の準備を
23時 奇襲部隊と柴田勝政勢、総勢9千~1万5千が南下を開始。翌日の攻撃に合わせて、前田利家勢3千と柴田勝家が率いる柴田軍本隊7千~1万も動く
20 6時 奇襲部隊が余の南東を通過し、大岩山砦への攻撃を開始(攻撃開始時刻には8時説などもあり) 中川清秀、奇襲部隊の襲来を知り将兵に防戦を示。岩崎山と賤ヶ岳に救援要請の伝派遣
10時 奇襲部隊が大岩山砦を攻略。続いて岩崎山砦を攻撃 中川清秀が戦死。高山右近岩崎山砦を捨て、羽柴秀長軍に合流
12時 奇襲部隊は正午頃に大岩山砦を攻略したという説あり 秀吉美濃国大垣近くで柴田軍襲撃の報告を受ける
14時 勝政勢、賤ヶ岳砦の接収に失敗。引き続き賤ヶ岳の麓に布 丹羽長秀から呼び寄せた二千の兵を待たず賤ヶ岳砦を救援。
秀吉力部隊の行軍手を整えた後、数名の供を連れて大垣から出発
16時17時 岩崎山砦を攻略後、奇襲部隊が何をしていたのか不明 軍の大垣から出発。その大半が歩兵
19時 野営の準備を済ませていた部隊が秀吉の帰還を報告。盛政、物見を派遣して事実と判断する 秀吉木之本へ到着
23時 奇襲部隊が撤退を開始 秀吉田上山に移動し、力部隊の到着を待っていた?
21 2時 撤退作業を継続 秀吉が山を降りて追撃戦を開始
深夜~払 奇襲部隊と羽軍が交戦。勝政勢が奇襲部隊を掩護 丹羽・桑山勢も参戦して勝政勢との戦闘を始めた?
6時 奇襲部隊、羽軍を撃退して権現坂まで移動し布
坂の東で戦っていた勝政勢が、盛政の示で撤退を開始。
軍が勝政勢を攻撃。
8時 勝政勢、羽軍の追撃を受け苦戦。
奇襲部隊が地から出し、羽軍を攻撃して勝政勢の救援に成功
軍、勝政勢を追い詰めるも奇襲部隊の横撃を受け失敗。更なる攻撃の準備を始める
8時? 茂山の前田利家勢が西へ逃走。続いて金森長近らも離脱 秀吉柴田軍の動揺を捉えて奇襲部隊を猛攻
12時 奇襲部隊が壊滅 秀吉、集福寺坂まで追撃戦を

(『第九師管古戦史』等を基に作成。時刻や軍勢の規模には異説もあり)

4月19日、奇襲部隊は行動を開始。砦群から出発し、羽軍に察知されないよう山間部を南進した。
20日未明、奇襲部隊は山路正の先導で余回して南東で敵兵2名をり、北上して明けと共に大岩山砦を攻撃した。
柴田軍はさらに柴田勝家が自ら力部隊を率いて街道を南下し、羽軍の地に近い塚という土地に布(史料によっては、左山を襲撃)。
前田利家の軍勢も南下して茂山に進出。
奇襲部隊に途中まで同行した柴田勝政の軍勢は賤ヶ岳の麓に布し、広範囲に渡り羽軍を牽制した。

大岩山砦を守る中川清秀とその軍勢は奮戦したが、田上山の軍勢は救援に動かず、砦は陥落して中川清秀は戦死した。
奇襲部隊は隣の岩崎山にも攻め掛かり、守将の高山右近岩崎山を放棄して羽柴秀長軍に合流した。

一方、余の南では賤ヶ岳砦が孤立。羽軍はこちらにも救援軍を送らなかったので、桑山重は砦からの退去を始めた。
しかし桑山勢の退去中に、琵琶湖を渡った丹羽長秀が少数の兵を率いて駆けつけた。
丹羽勢と桑山勢は退去を見守っていた柴田勝政の軍勢を挟撃し、勝政勢は後退。その隙に丹羽・桑山勢は賤ヶ岳砦に入り守りを固めた。〔37〕〔38〕

  そしてに入り、羽柴秀吉美濃大垣から木ノ本へ戻ってきた。〔39〕

盛政は秀吉帰還の報告を受けると斥を出して確認を行い、事実と判断して撤退を決めた。〔40〕〔41〕 

20深夜、奇襲部隊は大岩山とその周辺から撤退を開始。数時間後に秀吉が自ら軍勢を率いて追撃戦を始めた。
奇襲部隊は山を進みながら、幾度も引き返して羽軍を撃退。明け頃に権現坂まで戻り布した。
追撃に失敗した秀吉は、賤ヶ岳に留まり奇襲部隊を支援していた柴田勝政の軍勢に矛先を向けた。〔42〕

の大軍に対し僅か三千の勝政勢は苦戦したが、負傷者を置き去りにせずいながら戦い、賤ヶ岳の西にある飯坂を進んだ。
軍の猛な追撃を受けた勝政勢は追い詰められたが、友軍の危機を見た奇襲部隊が出して羽軍を横撃し、勝政勢を救援した。

追撃どころか多大な損を受けた羽軍だったが、秀吉は諦めず更なる攻撃の準備を進めた。
盛政も勝政勢を迎え入れると、撤退どころか地に留まる構えを示した。
そして両軍の本当の決戦が始まるのだと諸将が注したその時、東の茂山から前田利家が出した。

ところが前田利家は総勢を連れて茂山を放棄し、奇襲部隊と合流せずっ直ぐ西へ逃げてしまった。
味方の逃走を見た柴田軍は全軍に動揺が走り、金森長近ら諸将が相次いで戦場から離脱。
その機を秀吉は見逃さず、奇襲部隊に猛攻撃を仕掛けた。
裏切りに動揺した奇襲部隊はそれでも戦い続けたが、遂に崩れて敗走した。
秀吉は自ら追撃戦を揮して集福寺坂まで進撃。
奇襲部隊は砦に入って立て直しを図ることができず、壊滅した。

明山方面を牽制していた前田勢が退却し、奇襲部隊が瓦解したことにより、羽軍は総攻撃が可となった。
諸将の離脱で大軍を失った柴田勝家にその攻撃を食い止める術はなく、犠牲の殿軍を残して越前へ撤退した。

盛政は羽軍の追撃から逃れて北へ向かった。
柴田勝政は退却する前田勢を引き留めようとしたが断られた。勝政は地に踏み止まって羽軍と戦い、その後の消息は不明。
保田安政は乱戦の中で秀吉の首を狙ったが果たせず、敵の包囲を突破して逃走。
佐々勝之は越中で敗戦の報せを受けるとすぐに金沢へ向かい兵を集めようとした。しかし敗戦の報せは加賀中に伝わっていたため兵が集まらず、越中へ戻った。

金沢佐久間臣団が守っていたが、前田利家が羽軍の先鋒として加賀へ侵攻。
は遂に戻らず、守備軍は翌日を明け渡した。
盛政の家族加賀から去って、親戚を頼り尾へ移った。

最期

戦に破れた佐久間盛政は再起を図るため供回りと柴田勝家息子を連れて自領の加賀した。
しかし中で落ち武者狩りに遭う。
抵抗は駄だと悟った盛政は最後に秀吉との対面を望み、囚われの身となった。
柴田勝家の子は盛政と引き離された後に処刑されてしまい、盛政は連れて行かれた秀吉ではなく秀吉の側近の浅野長政と対面させられた。
浅野から「玄蕃ほどの武人が大戦に負けて、自害を選ばなかったのは何故か」と質問されると、盛政は源頼朝など大負けして身を隠し再起を図って成功した武将の例を挙げて、諸将を唸らせた。

京都へ護送された盛政に対し、秀吉は盛政が織田に尽くした功績を惜しみ、助命と肥後一を与えることを約束して仕官をめた。

「確かにが征けば一年で九州定できる。だがその後、上して秀吉に対面したらは怒りのあまり秀吉るに違いない。討ち損じたら肥後に戻り謀反を起こすだろう。命を救われ、にまで引き立てられた恩を、で返すことになる」

盛政は自身に対する秀吉の高い評価を喜びながらも、上記の言葉を告げて降伏を拒否。
返答を聞いた秀吉は自分の言葉を盛政が信じていないと考え、約束を守ることを再度伝えた。
盛政は秀吉悪意がないことは承知していると返答した上で、勇者は言葉を覆さないと告げた。
秀吉も遂に諦め、盛政の意志を尊重した上で死装束を贈った。

翌日、世に名高い玄蕃を見物しようと京都中の人々が押し寄せた。
敗者の盛政は全く気弱な素振りを見せず、彼らを傲然と睨みつけた。
京都引き回しの後、宇治河原で刑死、し首となった。
盛政の亡骸は、臣の鈴木八郎治が密かに運び去って鈴木の故郷の三河に葬ったと伝わる。



生き延びた安政と勝之は、諸勢を渡り歩いて秀吉に抗い続けた。
しかし1590年の小田原征伐で、二人の恩人だった北条氏政が亡くなったと知ると、死を覚悟して出頭した。
秀吉佐久間兄弟の武勇を高く評価して、二人を助命した。
兄弟は知己を頼って蒲生氏郷に仕えた後、秀吉の直臣大名に取り立てられた。
関ヶ原の戦いでは安政も勝之も東軍に味方し、江戸時代に入ると将軍徳川秀忠に重用された。〔43〕

安政は後に盛政や叔父お市の方を弔うために近江の自領に丘寺を建てさせた。

盛政の幼い・虎伯母いだ新庄の養女に迎えられ、後に秀吉示で中川秀成の正室となった。
中川秀成は、賤ヶ岳の戦い佐久間勢に討たれた中川清秀の息子だった。
中川清秀の妻や臣たちから憎まれた虎は彼らと距離を置いたが、夫婦仲は良かった。
長男中川久盛は祖の佐久間盛政を供養するために英雄寺という寺を建てさせた。

安政と勝之は、虎いだ中川家と協して盛政の佐久間を再するために尽した。
公家衆や幕閣も含めて多くの人々が協したこの活動は、安政たちの死後に実を結んだ。

こうして勇将の誇りと血脈は後世に受け継がれた。

後世の評価

佐久間盛政は、賤ヶ岳の戦い柴田軍を敗北させた愚将の烙印を押された。
相手の秀吉戦国三英傑の一人なので、賤ヶ岳の戦いは取り上げられることが多い。
日本史の教科書に書かれている戦であり、秀吉が登場する大河ドラマの見せ場になったりもしたので、戦国時代にあまり興味を持たない人でも、盛政が慢心して敗北する場面を見た人は多いかもしれない。

しかし江戸時代初期までの史料では、佐久間盛政は名将として評価されていた。
後世の評価に特に影を与えた『柴田合戦記』(『正記』の内、賤ヶ岳の戦いについて記された史料)と『太記』は、盛政を高く評価している。

柴田合戦記』
賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己(秀吉筆)
柴田勝豊秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。
・羽軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。
・奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという意気込みである。
秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将柴田勝家は立な人物だったので将兵は必死に戦い、柴田軍・羽軍ともに多数の戦死者が出た。
『太記』
・成立は江戸時代初期。著者は小瀬前田臣)
秀吉と関係ない、前田が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。
柴田勝豊秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』にも記された佐久間盛政の傲慢に加えて、柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし『太記』では降伏した柴田勝豊を厳しく批判している。
・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉近江へ帰還した。
・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。
茂山に前田利家が布していることを頼みにして、盛政は羽軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽の大軍を見て北勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽軍が総攻撃を行って勝利した。
・羽軍に囚われた盛政の発言「勝様の示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ~~」
・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。

『太記』では盛政の慢心敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。
敵前逃亡があったことについて、『太記』と同時期に成立したとみられる史料の記述を並べてみる。

渡辺勘兵衛記』
・撤退戦で奇襲部隊は善戦した
柴田勝政の軍勢は羽軍の撃を受けて負傷者多数、そこへ羽軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根の高みに2千ばかりの友軍が布していたので、勝政勢は(友軍を頼みにして)そこで踏みとどまった。
・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽軍が追撃して勝利した。
奇襲作戦柴田軍の敗因とは記されていない
・『太記』には渡辺勘兵衛の活躍も記されており、『渡辺勘兵衛記』の方が先に成立していて小瀬が参考にしたか、渡辺勘兵衛に取材した可性が考えられる。
『一記』
秀吉通しで近江へ帰還。羽軍は翌日の午前3時頃に大岩山へ攻めかかる。
・その時盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前4時頃まで掛かった。それでも奇襲部隊の撤退は速かった。
・北軍(奇襲部隊か勝政勢)がのように矢を放ち羽軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽軍と戦うことを繰り返しながら撤退。軍にとって厳しい戦いだったことが記されている。
・やがて盛政勢(勝政勢?)は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。
・盛政は敗北した軍勢を収容し、1万5千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に取り、決戦の構えを見せた。
・羽軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽軍は大軍になった。
決戦が始まり、まず羽軍から攻撃を仕掛けたが、北軍のの射撃により軍に多数の死傷者が出た
・次に藤堂高虎の手勢が北軍と銃撃戦を行い、さらに(北軍と羽軍が)接近戦をしばらく行っていると、盛政の地に何らかの異変があって北軍は敗北した。
・その異変とは、が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。
・羽軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた
『江州余合戦覚書』
・撤退戦における奇襲部隊と勝政勢の善戦振りは、他の史料とほぼ同じ。
・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ〔44〕〔45〕〔46〕
・ところが(撤退を支援するために配置された)後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。
佐久間軍記』
秀吉柴田軍の地を見て、防戦に努めることを決めた。
 ・柴田勝家は佐久間盛政に、中川の砦を攻め落としたらすぐに戻れと命じた。
 ・大岩山を占拠した後、盛政は羽柴秀長を攻めるために現地に留まった。
 ・柴田勝政の軍勢が羽軍と戦ったとき、何人かが北陸方面へ逃走した。柴田勝家はその様子を見て、盛政に味方の逃走を阻止するよう示を伝えた。
 ・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「の軍勢は苦戦したので、が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家柴田勝政の兵が喧を起こした。
 ・佐久間七右衛門という人物が兵の逃亡を阻止しようとしたところ、騒動になった。〔47〕

各史料の記述で合戦の様子には多少の差異があるものの、奇襲部隊の敗北は羽軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは味方の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。
そこに戦後事実として、

秀吉前田加賀北部の2(佐久間盛政が治めた土地)を加増した〔48〕

ことも併せて考えると、逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。
そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。
また逃亡したのが別の軍勢だったなら、小瀬は『太記』で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは 逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。

こうしてみると『太記』や後の時代の史料の「柴田勝家が盛政にく撤退するよう示した」、「盛政の慢心敗北を招いた」という記述の信憑性も疑わしくなってくる。

ただし『太記』を読んだ当時の前田の人々や著者の小瀬にはがあったかもしれない。
『太記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。〔49〕
――加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な祖と二代の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。
もっとも賤ヶ岳の戦い織田中の内紛だったし、前田利家柴田勝家臣ではなく、織田信長の生前の示で勝に協していただけだった。
「合戦当時は前田子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代に入ってから武士価値観の変化で問題視されるようになり、史前田に配慮して曖昧に記述した」という可性も考えられる。

秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ、大身の支持者だった中川清秀(息子織田信長)の軍勢を見殺し。
美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため、岐阜織田信孝とその軍勢が健在。
・奇襲部隊に損を与えないと、美濃近江間の行軍が徒労になってしまう。
・逆襲を受けて羽軍の方に損が出た。
・奇襲部隊が先に高所を押さえて布し、待ち構えている。

この秀吉軍の苦を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走」であり、それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下がった結果として生じた状況が可にした一手だった。〔50〕

賤ヶ岳の戦いは後世言われるような「全てが秀吉計画通り」の戦いではなく、「智謀の秀吉(時代の先駆者)が武勇の柴田脳筋の佐久間盛政(時代遅れの武将たち)に優った」、「羽兄弟の巧妙なに愚かな柴田軍が嵌った」というわけではなかった。
秀吉は自ら織田信孝の封じ込めに向かい、美濃大返しの後に山岳地の追撃戦から休まず柴田殿軍の殲滅戦、さらに越前侵攻と、織田信長譲りの苛な采配で自軍と自身の体を酷使した。
秀吉玄蕃や柴田を上回る猛将振りを発揮して勝利ぎ取ったのである。〔51〕

対して佐久間盛政たち奇襲部隊は、「慢心した武者たちが神速秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなど、よく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことをわせる善戦振りだった。

これが江戸時代初期からさらに時代を下ると、
・奇襲部隊は神速で戻った秀吉軍を見ただけで総崩れして味方を巻き込んだ情けない軍勢
となり、佐久間盛政はどうしようもない愚将にされてしまった。

後世の史料では、秀吉軍帰還から奇襲部隊の敗走に到るまでの幾つかの経緯は省略された。
結果として佐久間盛政の愚かさが強調されてしまった。

秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、奇襲部隊が布
→羽軍との決戦が始まる時に、柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
秀吉軍の攻撃を受けて、奇襲部隊が敗走

経緯が省略されたことに伴い、当然のこととして時間の経過についても記述がかれるようになった。
戦いの決着は翌日の明けから更に数時間経って付いた。秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ、奇襲部隊が大活躍した時間だった。


<盛政の人物評と柴田勝豊との確執>

佐久間盛政の人柄については、柴田勝豊との確執で傲慢な人物だったというのが定着している。
(人柄については他に参考になる記述が乏しい)
だがこの件も、濡れ衣の可性が考えられる。

越前2万石の大名だった柴田勝豊は、近江長浜13万石を治めることになった。当然より多くの人手が必要になったので、柴田勝家柴田臣や与柴田勝豊の下に付けた。
長浜では新任の柴田勝豊が独裁的な権を持てたとは考えにくい。
そして部下には山路正のように秀吉への降伏に不満を抱いた武将たちがいた。
つまり柴田勝豊の部下には他に秀吉への降伏を熱心に勧める人々がいて、彼らは山路たち反対を抑え込んで秀吉への降伏を柴田勝豊に決めさせた、と考えられるのである。
もし降伏が多数を占めたなら、勝豊の意志がどうだったとしても降伏することになっただろう。
また秀吉の立場なら、柴田勝豊の部下たちにも調略を仕掛けていたはずである。

柴田退治記』でも他の史料でも、賤ヶ岳の戦いにおいて大義と正義秀吉の側にある。
賤ヶ岳の戦いは、羽軍の長浜包囲から始まった。 秀吉は同じ織田の武将の居に対して、包囲という攻撃を仕掛けた。さらに織田信孝岐阜も包囲した。
だが秀吉が仕掛けたこれらの攻撃は、どの史料でも批判されていない。批判されているのは、柴田勝豊を追い詰めた佐久間盛政(史料によっては柴田勝政)の傲慢さだけである。


<他の悪評>

一例として、1630年頃に成立した『七志』(北陸歴史をまとめた史料)を挙げる。

『七志』
・著者は京都の儒学者。
・荒山合戦で盛政は、織田信長子が他界したのをいいことに、前田利家に協する振りをして前田勢を背後から攻撃し能登を奪おうと企んだ。前田利家寺の人々を寛大にも許して戦をく終わらせたので、この企ては失敗した〔52〕
・盛政は陰謀などなかったかのように前田利家に接し、佐久間勢が討ち取った敵将の首を贈って戦勝を祝った。前田利家は陰謀に気づいていたが、気付かない振りをして盛政の使者をねぎらった。
賤ヶ岳の戦いの前戦で、佐久間盛政と前田利長の軍勢がそれぞれ焼き働きを行った。
賤ヶ岳の戦いの際、盛政は前田利家を疑い、前田利家の謀殺を柴田勝家に進言した。前田利家は盛政に憎まれていたことを知っていて、側近たちに「盛政は侫人で貪欲、義もなく信もない。利益のためなら兄弟親戚も顧みない禽のごとき輩だ、碌なことにならないだろう」とった。
奇襲作戦の立案実施に盛政の進言があったことは記されていない
・撤退作戦奇襲部隊が善戦したことは一切触れられていない秀吉が戻ってきて、慌てた奇襲部隊は動揺して惨敗し、越前へ向かって敗走した。
・奇襲部隊が敗走したとき、前田子とその軍勢は茂山にいた。周囲をの大軍に囲まれた前田勢は撤退を開始将兵の奮戦により、死傷者を出しながらも撤退に成功

『七志』には佐久間盛政の卑劣な性格が記されている。『太記』には盛政の傲慢さが記されているが、盛政が前田利家を謀殺しようと図ったという記述は一切ない。〔53〕
『七志』に記された前田勢の奮戦と損も、小瀬の『太記』には何故か記されていない。
逆に『太記』に記された奇襲作戦の進言話は、盛政を酷評した『七志』に記されていない。

江戸時代は史学や軍学が盛んで、多くの史料が作成された。 それらの史料は他の史料を参考に作成され、また別の史料作成の参考に活用された。
そうして幾つかの史料に載せられた別々の悪い話が吸い上げられてめられた結果、佐久間盛政の人物像が出来上がった。
『太記』は江戸時代以降のベストセラーであるし、『七志』は江戸時代北陸史研究で幾度も参考史料に採用された。

『七志』が著された頃、前田三代目前田利常が当を務めていた。
前田加賀百万石の大大名であり、前田利常の妻は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠である。
つまり著者たちは前田に(頼まれてもいないのに)配慮して筆を曲げた可性が考えられるのである。

一方で、佐久間も盛政のたちが徳川秀忠の側近を務めたである。
ところが『七志』が著された頃から数年前に佐久間安政は亡くなっていた。
安政は賤ヶ岳の生き人でもあったから、その生前は史も伝記も軍学者も賤ヶ岳の戦いについてあまりな話は書けなかったのだろう。
佐久間勝之も数年後に死去。佐久間兄弟を重用した徳川秀忠はすでに世を去り、時代は変わっていた。


<参考>

『昔日北録』
・『七志』から年以上経ってから成立したとみられる。
賤ヶ岳の戦いでは、前田利家越前府中にいて合戦に参加しなかった
『越登賀三州志』
・成立は1805年。
賤ヶ岳の戦いで羽軍に包囲された前田子は、柴田勝家を助けようと軍の重囲を突破して帰還した。前田勢は多数の戦死者を出した

※ただし後の時代に古い史料の発見や誤りの訂正が行われたかもしれず、「古い時代の史料の方が正しく、新しい時代の史料は間違いが多くなる」が必ずしも成り立つわけではないことに注意する必要はある。


玄蕃の悪名>

加賀で一向一戦を行い、残党狩りも行った佐久間盛政は、死後も加賀の人々から恐れられたという。
佐久間勢に追い詰められて村人が玉砕あるいは全員自殺して長く人になったという地域もあり、その凄まじさは現地の地名に残っている。
対して前田利家加賀を領有して以降、前田の統治の元で加賀は繁栄した。
これは盛政の時代には先ず敵対勢を掃討する必要があったからで、決して盛政が悪政だったわけではない。
しかし当時を生きた人々からすれば盛政は恐ろしい武将であり、その記憶がり継がれた。

『越登賀三州志』には、
加賀の人民は佐久間盛政の苛政に苦しめられた。前田利家は仁政を敷いたので加賀の人民から慕われた。
と記されている。

ただし・・・『越登賀三州志』には、前田利家越前能登荒山合戦で殺戮を行ったこと、江戸時代前田が領分の特定の地域で苛政を敷いたこと等、前田の負の面は記されていない。
そして対照的に盛政は貶されている。
著者に悪意があったというより、江戸時代中期の北陸ではすでにそれが常識になっていたのだろう。
もちろん『越登賀三州志』も、成立後は北陸史研究の重要な史料として引用されていった。

<佐久間盛政の名

しかしながら佐久間盛政は江戸時代以降、それなりに(脇役として)人気があったようである。
というのも同時代のベストセラーになった『太記』には、盛政の武将としての活躍と壮絶な最期も記されていた。
最後に戦った相手の豊臣秀吉は、徳の世でも庶民に人気があった。その秀吉の見せ場を作る手強い敵として、盛政は歌舞伎などの登場人物になった。
盛政は筋々の傑として浮世絵に描かれた。
物語では純な武辺者、しぶとくも潔い最期は敵ながらという分かりやすいキャラクターが、人々に受け入れられたのかもしれない。

賤ヶ岳の敗因を作った武将という評価は明治時代以降も変わらなかったが、脳筋でも愚か者として嫌悪されたわけではなかったようである。(一部の史書を除く)
武勇の将としては高い評価を受けた。〔54〕

盛政がただの脳筋ではなく愚か者とみなされたり、戦働きしかのない旧世代の武将として秀吉(時代の先駆者)と対されて描かれるようになったのは、戦場勇者を蔑む時代になってからのことなのかもしれない。


・優れた武将だったことは、多くの史料に記されている。
織田最大の敵だった本願寺教団の牙加賀定した功績。
・二十歳そこそこで加賀定戦のを担い、二十代で持大名になった。
・後の下人秀吉からも認められた量。
と名将だったことは間違いない。

織田信長柴田勝家からの信頼は厚く、同僚や部下とよく協し、死後もたちが御に尽した。 等々、人望もあったようである。

他の関係者

柴山長次郎
加賀人で佐久間盛政の寄騎。い時期から織田に味方したので織田信長から賞賛された。
他の人衆の調略を行った。
息子の名前は「柴山盛政」。偶然でなければ長次郎は寄親を尊敬していたのかもしれない。
後藤
加賀守護を務めた富樫の遺児。二人は1574年の越前一向一と戦って討死。俊は逃げ延びて後に佐久間盛政に仕えた。
加賀定を織田軍が輿に担ぐ価値のある人物だったはずだが、一人の武者として一向一と戦った。
その活躍を盛政が讃えた書状が現存している。
壱岐
盛政の寄騎。盛政がを奪還した後、同を務めた。
勢からを守り、白山の再起を阻止した。
近江高島人で初めは浅井に仕えたが、明智光秀の攻撃を受けて没落し織田に従った。
親子二代が壱岐守を称した。あるいは代々の受領名か。
後に村上頼勝という加賀の大名が越後へ転封となった際、村上の重臣として吉壱岐の名前が出てくる。
原長頼
織田直参。武勇に優れ、柴田勝家の寄騎に配属された。しばしば畿内の合戦に動員された。
賤ヶ岳の戦いでは奇襲部隊に参加。撤退戦で殿軍を務め、拝郷嘉(または安井清)と連携して羽軍を撃退。
戦後前田に仕えたが、秀吉の直臣大名に取り立てられた。
拝郷
人、織田直参。越前一向一攻撃に参加し、そのまま柴田勝家の寄騎となった。
盛政が大聖から金沢に移ると、拝郷嘉が後任の大聖となった。
武勇に優れ、加賀定戦から荒山合戦まで盛政と協し、 賤ヶ岳の戦いでも拝郷勢は佐久間勢と行動を共にして奮闘。
撤退戦で殿軍を務めて羽軍を打ち破ったが、ヶ瀬で討たれた。
徳山則秀
美濃人、織田直参。柴田勝家の寄騎となり、盛政と共に北陸定戦に参加。
父親の徳山少左衛門も北陸方面軍の一員で活躍したが、白山の挙兵で戦死した。
徳山則秀はを務めて白山導者の謀殺に加担したか。
賤ヶ岳の戦いでは奇襲部隊の先鋒を務めて奮闘した。
戦後丹羽長秀に仕えた。丹羽が領地の大半を失うと前田に仕えたが、後に出奔して徳に仕えた。
不破勝
美濃人、織田直参。信長に重用された不破光治の孫。
賤ヶ岳の戦いにおいて不破勝の動向は複数の説がある。
・奇襲部隊の先鋒を務めて最後まで戦った後に降伏した。 
金森長近と同じく、柴田勝家を裏切って戦場から離脱した。
いずれにしても前田利家金森長近のように巧く立ち回ったわけではないようで、戦後前田に仕えた。
安井
柴田臣。加賀和田となり、佐久間盛政の家老も務めた。
越前柴田勝豊近江長浜に移った後、清は丸代として赴任。
賤ヶ岳の戦いで戦死。安井清も佐久間勢に同行して撤退戦を戦い、活躍したとされる。
近藤
柴田臣。越前一向一攻撃に参加、後に盛政の寄騎となる。
賤ヶ岳の戦いでは佐久間勢に同行し、中川清秀のを討ち取った。
(後に佐久間中川家が親戚になったので、配慮して討ち取られたのはにした?)
山路正
伊勢人、柴田臣。柴田勝家、勝豊に仕えて勝豊の家老を務めた。
出身地や奇襲作戦の提案から考えると、柴田ではなく織田信孝に仕えた人物だったのかもしれない。
賤ヶ岳の戦いでは病床の柴田勝豊に代わり兵を率いて参加した。
盛政に誘われて柴田軍へ寝返り、奇襲部隊を先導して作戦を成功させた功労者。
しかし戦は柴田軍の敗北に終わり、山路は戦死した。逃げる途中で引き返して奮闘した末の討死だった。
兵衛
奇襲部隊に参加した人物。
大岩山砦の戦いで中川勢の無双ぶりを見た盛政は、部に砦の裏手へ回り放火することを命じた。
部はこの任務を成し遂げ、敵の混乱を突いて佐久間勢は砦に攻め入り中川勢を撃滅した。
よく似た名前の人物が賤ヶ岳の七本槍脇坂安治に討ち取られた。同一人物だとすれば、その首に価値のある勇士だったのかもしれない。
青木法斉、原可永、長井五郎右衛門、豊島兵衛鷲見次郎、鷲見九蔵、毛屋新内
奇襲部隊に参加した猛者たち。撤退戦で隊と連携して羽軍を撃退した。
彼らの凄まじい戦いぶりを見た秀吉は奇襲部隊の捕捉を諦め、柴田勝政勢に狙いを変えたとされる。
青木はその後も戦場を渡り歩いて活躍を続けた。
種村三朗四朗
柴田臣。佐久間盛政の与となり加賀定戦に参加。
荒山合戦では猛者たちを率いて佐久間勢のを担った。
賤ヶ岳の戦い後、前田利家から仕官をめられて一度は断ったが、再度の懇願を受けて前田に仕えた。
前田臣としては佐々成政との抗争で活躍した。
後に訳あって前田から離れたが、前田利長(利の子)との交流を続けた。
新庄直頼
近江人、元は浅井下。妻は佐久間盛重の
賤ヶ岳の戦いでは寄親の羽柴秀吉に味方し、丹羽長秀と共に坂本を守備した。
戦後は虎を養女に迎えた。
清姫
盛政には虎の他にもう一人がいたという説があり、清姫と呼ばれたという。
盛政の家族佐久間の地盤がある尾へ戻って熱田神宮千秋を頼り、清姫佐久間一門の男性いだ。
後に清姫は迫されて家族と共に命を落としたという。
小牧長久手の戦いで保田安政、佐久間佐久間信勝(佐久間信盛息子)が秀吉と敵対した織田信雄を支持して奮戦したことから、秀吉側に睨まれてしまったか。
二曲
白山一向一導者・鈴木出羽守の
父親兄弟は和交渉で赴いた柴田勝家に謀殺され、の陥落時に捕虜にされた。
を攻め落とした佐久間盛政から婚姻を迫られたが拒絶し、故郷で尼になることを願い出た。
盛政はその願いを聞き届けてを解放した。
その後地元の人々が再び挙兵してを奪還したが、佐久間勢に再び攻め落とされた。
佐久間勢が残党狩りを始めたことを知ると、は自分も捕縛されて殺されるだろうと覚悟し自害した。

補足

1. 柴田勝政は初め勝安と名乗っていた。ただし別人説もあり、その場合は両者の事跡を区別する必要がある。^
 
2. ちなみに柴田婚姻や養子縁組を通じて佐久間との関係を積極的に強化したとみられる。
佐久間名字を持つ人物が多数、柴田臣や寄騎として史料に記されており、また盛政の寄騎や臣には柴田臣だった人物もいた。
軍事作戦でも両の将兵は行動を共にすることが多かった。^

3. それ以前に盛次は死去したか隠居して盛政が跡を継いだと考えられている。^
(盛政の初陣だった攻めで戦死した説あり)

4. 同には府中で一織田に対する反乱を起こしており、盛政たちが挙兵を予測して対策を講じた可性がある。^

5. 尾へ戻った梁田は、織田となった織田信忠信長の嫡男)に仕えた。
梁田は元々信長り衆(親衛隊)だったので、加賀からの退去は左遷ではなかったのかもしれない。
また信長り衆だった前田利家佐々成政たちは、柴田勝家の与となった後も畿内の合戦に頻繁に動員された。
同じ与でも加賀攻略に専念した盛政とは違い、前田利家たちは信長の戦に参加するのが主任務だったのだろう
盛政はりを経験しなかったことから消去法で梁田の後任に選ばれたのかもしれない。
論盛政が信長から期待されたからこその人事だった。^

6. 織田軍が快進撃を続けた1575年、将軍足利義昭武田勝頼石山本願寺が北陸の一向一上杉の仲裁を行った。^

7. 同年9月加賀では手取の戦いが行われた。ただし戦闘の規模や戦闘が実際に行われたかどうかも不明な点が多い。
いずれにしても上杉軍の作戦により織田越中能登の協者を失った。
この合戦が実際にあったとする拠としては石山本願寺の坊官・下間頼廉加賀国衆に宛てた書状と、『歴代古案』(に収録された上杉の書状)がある。
ただし前者から分かるのは織田軍と一の間に戦いがあったことだけであり、上杉軍が本格参戦したかは分からない。
当時の北陸方面軍の動きを伝える他の史料(『信長公記』など)によると織田軍は加賀と戦っていた。
後述のように佐久間盛政が加賀中部の重要拠点である御幸塚砦を確保したこと、大敗した織田軍相手に加賀が勢を盛り返せなかったことから考えると、
織田軍が手取を越えて一の勢圏へ侵攻したが、一の軍勢に撃退された。ただし織田軍の損は少なく、加賀中部の維持に支障はなかった。七尾が陥落したので急いで加賀北部を定する必要はなくなり、織田軍は加賀南部の一鎮圧に矛先を向けた」
というのが実際の出来事だったのかもしれない。^

8. 柴田勝安は義を供養するために、現地に義宣寺という寺を建てさせた。
柴田勝安と柴田勝政を同一人物とする説によると、柴田勝家は養子の勝政(当時の名前は勝安)を戦死した義宣の養子にして督を継がせたという。^

9. この時、佐久間勢は山を進んだ。加賀人衆を加えて、さらに一との戦いを通じて山岳戦に慣れていたのだろう。^

10. 江戸時代の史料によると、末の守備には三河一向一の残党が参加していた。^

11. 願寺は、本願寺教団明期から支えた由緒ある寺院だった。^

12. 寺に逃げ込んだ敵将の引き渡しを要したと思われる。^

13. 一側の抗戦もしいものだったという。信長の元りだった勇士も一軍に参加した。^

14. 現在まで続く金沢下町とは、佐久間盛政が同地を治めた時期に基礎が作られた。
次の領になった前田利家金沢を「尾山(御山)」と名したが定着せず、跡を継いだ前田利長は地名を金沢に戻した。^

15. 一の軍勢のだった山内衆は多数の兵を抱えていた。山内衆は領内での製造を行っていたという説もある。
また一導者には鈴木名字を持つ武将がいた。^

16. 織田石山本願寺の和の条件には、加賀織田軍と一の軍勢が停戦し、織田軍が占領地から撤退することも含まれていた。
白山導者たちが、に出向いたのは、この和も関係していた可性が考えられる。
代表者たちは一に参加した人衆の権益を織田に認めさせ、彼らは上杉と手を切って織田に従う、といった落としどころを考えていたのかもしれない。
柴田勝家が一の代表者たちを初めから殺するつもりで招いたのか、あるいは交渉が決裂したために殺したのかは不明。
ただし柴田勝家はその後も加賀能登人衆を呼び出して殺することがあった。^

17. 若林長門守を謀殺したのは佐久間盛政だとする史料もある。
この時期の謀殺について盛政が実際にどの程度関わっていたかは不明だが、少なくとも上柴田勝家は謀略にも長けていた。^

18. 三将が最前線に配置されたことや佐久間柴田の付き合いを考えると、彼らと佐久間盛政との関係は良好だったと思われる。^

19. 同に領地を与えられた時期や石高には異説がある。^

20. 朝廷に圧を加えるために行われたともいわれるこの時のえだが、当時の織田の関係は良好だった。 さらに後に皇位を継がれたのは、えの当時、織田臣団が信奉した親王の御子だった。
えは威圧よりも政情安定を広く知らせる宣伝を兼ねたお祭りだったようである。
そしてこの晴れがましい催しに、盛政は参加しなかった。北陸を守るための人事だったが、前年の佐久間信盛の失脚が影したのかもしれない。^

21. 『佐久間軍記』に記された合戦だが、本能寺の変後に起きた荒山合戦の年代が間違えて記された疑いあり。^

22. 信長の親衛隊だった前田利家の明智討伐よりも能登に留まることを選んだ事実から、当時の北陸の情勢は織田の武将たちにとって深刻だったと考えられる。^

23. 佐久間盛政も近江に出した形跡が見つかっていない。加賀織田軍は能登の争乱に備えて待機したのかもしれない。^

24. 秀吉の勢が大きくなりすぎることを危惧した柴田勝政は、秀吉を殺するようにと柴田勝家に進言したが、勝は同士討ちをしている場合ではないと答えて却下したという。^

25. 寺は要の石動山を本拠地とし能登のみならず北陸地方全域に強い影を及ぼした強大な宗教だった。北陸で猛威を振るった一向一能登に浸透しなかったのは、寺の存在があったからだった。
織田信長が存命だった頃、織田寺の寺領の大半を没収した。
また能登人衆の温井三宅などは織田に従ったが、七尾の件で彼らに恨みを抱いた長連から攻撃を受けて越後へ亡命し、故郷へ戻る機会をっていた。^

26. 拝郷嘉の居加賀南部大聖で、兵の召集から現地入りまで二日は驚異的な速さになる。
おそらく寺の挙兵に備えて、予め兵を集めていたのだろう。^

27. 荒山合戦における佐久間盛政の働きは、350年後に日本陸軍の戦史研究チームから絶賛された。
第九師団管古戦史』では、参考にした史料群から佐久間盛政の働きについて、
・事態を想定していた
・速やかに出した
・現地の住民を味方につけた
・戦機を見逃さなかった
・友軍とよく協した
佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を前田利家に譲った。(前田利家の名を高めて能登を安定させるために手柄を譲ったか)
等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した。^

28. の名前に「玄蕃」が入っていることから、佐久間盛政が築を行ったという説がある。
柴田方が築を行った時期には異説あり。また昔から重要な土地だったので、砦がすでにあって修工事を行ったか。^

29. 羽軍の兵数は複数の史料で10万人以上の人数が記されているが、当時の情勢でそれほどの大軍を1つの戦場に動員できたのかどうかは疑問視されている。
この人数は羽方の総戦を誇したものと考えられている。^

30. なお遺構の調から、大岩山・岩崎山・賤ヶ岳砦の防衛設備は簡素で脆弱だったことが判明している。
逆に田上山の設備は充実していて、大軍が駐留した可性を示している。
賤ヶ岳や大岩山の砦の修が不十分だったのは、工事の人手が足りなかったからと考えられる。
軍は大軍で近江に入ったので多数の設備が必要となり、工事の人手も資材も不足した。
この点は柴田軍も同様だった。
佐久間盛政は現地の集落の屋を壊して資材の足しにした。盛政は勝利には必ず報いると地元民に約束したが、敗北して処刑されたため約束は果たされなかった。
また両軍への協は地元民にとって稼ぎ時であり、戦後の厚遇を獲得するチャンスでもあった。
一例として本願寺教団の称名寺が挙げられる。称名寺はかつて織田と敵対したが、賤ヶ岳の戦いでは羽軍の砦造りに協した。戦後秀吉は称名寺に手厚い支援をした。^

31. 『柴田退治記』には蜂須賀政)、神子田(正治)、小寺黒田官兵衛)、赤松といった武将たちが、各戦場へ送られる救援部隊として木ノ本にいたことが記されている。
秀吉大村由己が記した『柴田退治記』は、羽軍の布に関する記述については信頼できる)
黒田官兵衛黒田譜や後述する秀吉が送った手紙から、秀吉木ノ本から離れた後も現地に留まっていたことが分かる。
さらに羽柴秀長臣の藤堂高虎木之本に配置した。
以上から賤ヶ岳や大岩山方面の防衛体制は、砦という施設よりも田上山と木ノ本から援軍が送られることを前提に成り立っていたと考えられる。^

32. 羽柴秀長織田信長存命時に持大名にまで出世した歴戦の名将であり、名実共に秀吉軍のNo.2だった。当然柴田軍の面々も羽柴秀長に対する警は怠らなかっただろう。
羽柴秀長が率いた羽軍は、敵奇襲部隊の襲来によって味方の砦を見捨てた上、現地に居座った奇襲部隊の圧されたが、遂に離反者を出さなかった。
(もっとも戦後秀吉が複数の武将を内通容疑で処罰しており、離反の動きはあったのかもしれない。奇襲を成功させた盛政の元には、羽軍の諸将から協約束する文書が殺到したとする史料もある)^

33. 秀吉と敵対した隣紀伊高野山や人衆に対する備えとみられる。
高野山は織田と敵対し、信長が遂に攻め降すことができなかった強大な勢だった。
翌年に起きた小牧長久手の戦いでは、紀伊の寺社・人連合軍が河内和泉秀吉の新しい地盤)をした。^

34. 山路正がその時に柴田軍に価値のある情報を伝えたとしたら、(長期対の間に柴田軍が斥を出して調べただろう)大岩山・岩崎山・賤ヶ岳の各砦の脆弱さよりも、砦の脆弱さを後詰で補う後方の田上山や木ノ本に駐留する軍勢の規模(羽軍の砦群とに阻まれて確認が難しい)だったのかもしれない。
『太記』によると、奇襲作戦を初めに提案したのは山路である。^

35. 盛政が率いた軍勢は、史料によっては1万5千人。
いずれにしても大軍であり、彼らを送り出した柴田勝家には戦局を大きく動かそうとする意図があったことがえる。^

36. 『太記』等によると、柴田勝家はこの作戦を危険と考え、思い留まるよう佐久間盛政を何度も説得したという。
賤ヶ岳の戦いを取り上げた本では羽兄弟柴田軍に敢えて奇襲させ、その部隊を叩き一気に勝敗を決しようと計画していた、とされるものが多い。
そのため作戦の提案・実行者である盛政はまんまと敵のに嵌った愚か者として、脳筋扱いを受けることとなった。^

37. 賤ヶ岳砦を守り抜いた桑山重戦後に加増を受け、その後も順調に栄達した。
後の追撃戦に際して、賤ヶ岳砦を保持していたことは羽軍にとって大きな助けとなった。
兄弟柴田軍を誘い込む策を仕掛けたとする説が正しいとすれば尚さら賤ヶ岳砦は保持すべき拠点だったが、羽柴秀長田上山の軍勢は賤ヶ岳の救援にも動かなかった。
この事実から、秀吉が大軍を連れて美濃へ移動した後の田上山と木ノ本には、奇襲部隊に対抗できる規模の軍勢が残っていなかった可性も考えられる。
その場合、羽軍にとって最悪の展開は「奇襲部隊に劣る戦で砦の救援に出向いたところを、待ち受けていた敵に襲われて負ける」ことになる。^

38. 奇襲部隊は岩崎山制圧後の動向が不明。
後述の『佐久間軍記』に羽柴秀長田上山を攻めるために現地に留まったと記されているだけである。
この辺り、大岩山・岩崎山に居座った奇襲部隊と、街道の反対側にあった田上山砦の羽柴秀長軍との間で、あるいは大岩山襲撃の前から(史書には記されなかった)熾な駆け引きがあったのかもしれない。
当時は「敵の砦を囲み、敵の援軍を誘き出してこれをく」、「自の兵数を敵味方に対して多く見せ掛け、味方の動揺を防ぎ、敵には攻撃をさせる」といった戦術が盛んに行なわれた。^

39. 帰還に際し秀吉は、沿の住民に松明を掲げさせた。街道を照らして行軍を容易にすると共に、大軍を率いて戻ったことを敵味方に伝える手な演出だった。
これにより秀吉の大軍が神速で帰還したと知った奇襲部隊は仰し、逃げ出したせいで柴田軍は敗北してしまった――という話は江戸時代最初期までの史料の記述には見られない。
上記の説は、秀吉帰還後から幾つかの出来事を省略・編集して記されたものである。
後述の通り、奇襲部隊は撤退戦で追撃してくる羽軍相手に善戦した。また秀吉が追撃戦を始めたのは深夜に入ってからだった。
秀吉が行わせた演出は、「大軍を率いて戻ったことを味方や敵に報せるため」ではなく、「大軍を率いて戻ってきたように見せかけて、美濃から軍勢が本当に戻ってくるまで時間稼ぎをして味方の動揺を防ぐこと」が狙いだった可性が考えられる。^

40. ただし秀吉近江帰還を知った後も、奇襲部隊はすぐには撤退しなかった。
撤退の準備に時間を要したのか、神速秀吉軍=強行軍の休息は長時間になると判断したのか、あるいは奇襲作戦的=織田信孝の救援を達成したことを確認するために、秀吉美濃へ連れて行った軍勢の帰還も待ってから撤退を始めたのかもしれない。^

41. この日、が昇ったのは23時半頃とされる。^

42. 戦国時代の野戦は、敵に対して有利に戦える場所を押さえる取りの棋戦が重要だった。
奇襲部隊が後退を止めて布したことは、羽軍に対して有利に戦える場所まで移動した=勝算を立てたことを意味する。^

43. 特に佐久間安政は策謀の相談相手も務めたとされる。^

44. この史料で示された「退路の確保」、他の史料にも記された「追われる奇襲部隊が追う側の羽軍に痛撃を加えた」戦果、加えて『一記』の記述から考えられる奇襲部隊や勝政勢が「大量の矢弾を想定される退路の要所に運び込んだ可性」から、奇襲部隊は初めから撤退戦も想定した入念な準備を行った可性が考えられる。
この戦いは柴田軍が結果的に「羽軍を堅固な地から誘き出して山岳戦に引き摺り込んだ」という見方もできる。^

45. 近江西部にいた丹羽長秀は現代の知名度は今ひとつだが、尾統一戦の頃から大活躍を続けた名将だった。
丹羽勢の襲撃に備えるためにも奇襲部隊は後方の備えが必要だったで、逆に警を怠ったとしたら脳筋と評価されても仕方ないことになる。^

46. 奇襲部隊の善戦はあるいは、こうして退路に配置されただろう部隊=疲労が少ない部隊が奇襲部隊に順次合流し、殿軍を交替で引き受けることで実現したのかもしれない。
対して羽軍の追撃部隊は全員が長距離を移動しなければならず、特に美濃から戻ってきた力部隊の疲労は深刻なものだったと推測される。^

47. 荒山合戦の年代が『太記』などと異なるなど、『佐久間軍記』の記述には注意が必要。
実際は上記の史料群よりも後の時代に作成されたものかもしれない。^

48. 周知の通り、秀吉戦後前田を厚遇し続けた。秀吉前田利家子供たちも大切にした。
最終的に前田百万石える領地と、徳川家康に次ぐ官位・豊臣政権内の地位を得た。
前田利家は上方に詰めて秀吉の相談役を務めることが多く、豊臣政権を支えた。
秀吉の死後、豊臣子飼いの武将たちも支持する徳川家康前田利家は対抗し、死ぬまで豊臣下を守った。^

49. 『太記』には、「前田殿の軍勢が茂山にいてくれるから」と佐久間盛政が後退を止めて布し羽軍に決戦を挑もうとしたところへ、拝郷嘉が盛政を諌めてさらに後退すべきだと進言する場面がある。
拝郷が決戦を諌めた理由は「羽軍があまりに大軍だから」というものだった。
そして羽の大軍に怯えた後方の部隊が逃走し、奇襲部隊は動揺して羽軍に敗北した。
盛政は刑死、拝郷は戦死したので拝郷の諫言の部分は創作かもしれないが、拝郷が本当に懸念したのは敵だったのか味方だったのか考えさせられる場面である。

50. 賤ヶ岳の追撃戦で秀吉は奇襲部隊に何度撃退されても諦めなかった。
最後には前田利家が味方になって勝利をもたらしてくれると信じていたのか、あるいは前田勢の行動次第で羽軍が逆転勝利できる状況=大手柄を立てる機会を作り出すことで前田利家に決断を促したのかもしれない。^

51. 美濃大返しは驚異的な行軍速度ではあったが、織田信長存命時に信長揮した織田軍も似たような強行軍を美濃近江間で行った。
秀吉はその経験を活かしたのかもしれない。^

52. 寺については、前田利家は荒山合戦で焼き討ちし、後に再建を許可したというのが正しい。
寺に対する前田の方針転換は、利ではなく息子前田利長が行った可性が考えられる。^

53. 地図から分かる通り、賤ヶ岳の奇襲作戦は奇襲部隊の後方をかが守る必要があった。
佐久間盛政は(内心は疑いを抱いたとしても)前田勢を信じることが前提の作戦を行った。
そうでなければ明山方面から羽軍が進出して奇襲部隊の退路を脅かす事態を防ぐ大事な役割を、別の武将が行うよう進言したはずである。
北陸で長年共に戦った柴田勝政、拝郷嘉、徳山則秀など)^

54. さらに日本陸軍では北陸地方を管轄した第九師団が北陸地方の合戦を調し、佐久間盛政の智略や協調性の方を絶賛した。
第九師団管古戦史』では賤ヶ岳の戦いについて、「盛政に慢心があった」という通説ではなく、逆に「盛政が慎重すぎたせいで戦機を逃した」ことを敗因の一つに挙げている。^

関連項目

掲示板

  • 24ななしのよっしん

    2019/02/27(水) 22:32:58 ID: rPSIWCoB6T

    戦国最強武将は、玄蕃こと佐久間玄蕃允盛政だと思う。
    なぜなら
    三次の戦いで加賀一向一残党を殲滅。荒山の急襲(約2日で現地
    入りする脅威的な速さ上杉軍を急襲、三人の指揮官全員討ち取り圧勝する。)
    賤ヶ岳の奇襲(約10kmの山岳地帯を行軍して、
    約四時間で砦を陥落させ摂津の大名中川清秀を討ち取る。)
    上記のような素晴らしい活躍したから!

  • 25直輝

    2019/03/31(日) 21:22:36 ID: vCOAuPhsDA

    織田の忠臣中の忠臣だよね佐久間盛政って
    玄蕃と呼ばれて味方からは畏敬されて敵からは畏怖されててカッコいい!

  • 26ななしのよっしん

    2019/04/03(水) 17:10:08 ID: W3Js7e6QX6

    織田の軸を織田信孝にするとそうなるな
    実際は、三法師織田信雄織田のような扱いになってるから織田と敵対した感じだけど

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