倉持明(くらもち あきら、1952年7月20日 - )とは、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(投手)である。現役時代は、ロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)を皮切りに複数球団で活躍した。
ひげをトレードマークとしており、愛称は「ヒゲの倉持」が略された「ヒゲクラ」が定着。
OB | |
---|---|
倉持明 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 神奈川県横浜市 |
生年月日 | 1952年5月20日 |
身長 体重 |
180cm 72kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1971年ドラフト4位 |
引退 | 1983年 |
経歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
横浜第一商業高校(現:横浜商科大学高校)在籍時に夏の県予選決勝まで進むも、甲子園出場はならなかった。その年(1970年)のドラフト会議でヤクルトアトムズ(現:東京ヤクルトスワローズ)から12位で指名されるも拒否し、日本鋼管へ入社した。翌1971年のドラフト会議でロッテオリオンズから4位指名を受け、入団した。
1年目に初勝利を記録するものの、入団から4年間は目立った成績は残せなかった。だが5年目に救援のみで31試合登板(64.2イニング)、防御率2.63の好成績を残し、一躍飛躍する。ところが、その年のオフに太平洋クラブライオンズ(翌シーズンよりクラウンライターライオンズ)へ移籍することになってしまう(倉持・長谷川一夫と白仁天・安木祥二の交換トレード)。
移籍1年目は低迷したが、2年目の1978年は先発も兼任して5勝をあげ、防御率も2.65を記録した。ところがこの年のオフに西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)が誕生すると、チームは資金力に物を言わせた積極補強に大きく路線転換する。西武が目をつけたのがロッテの大物内野手山崎裕之であり、倉持は交換要員としてロッテに復帰することになった(倉持・古賀正明と山崎・成重春生の交換トレード)。
復帰1年目は先発・リリーフで奮闘する。翌1980年はリリーフに専念し、39試合登板(71.1イニング)、防御率2.15の好成績を残し、リーグ最多の18セーブを記録してチームの2位躍進に大きく貢献した。翌1982年は防御率が4点台に悪化したものの、前年を上回る40試合に登板して5勝11セーブを記録した。
しかし1982年には登板試合数が激減(9試合)し、その年のオフにヤクルトスワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)への移籍が決まった。ヤクルトでは17試合にリリーフ登板するものの1勝もあげることが出来ず(3敗)、オフに戦力外通告を受けて引退した。
先発投手として活躍した時期もあったが、主に抑え投手として活躍した。9回裏無死満塁0ストライク3ボールという、自軍にとっては絶体絶命の危機を5度乗り越えたことから、炎のストッパーとも評されている。
現役時代はアートネイチャー社のCMキャラクターとしても知られており、ヤクルト移籍が決まったときには、巨人戦中継で顔を見る機会が増えると喜ばれたほど。
引退後はテレビ東京での解説を経て、千葉テレビでのマリーンズ戦中継で解説を担当。投手視点を主とした理論以上に、地元ひいきの中継だろうと、敵味方を問わずはっきりと称賛と批判ができる解説スタイルを得意としている。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2023/09/30(土) 03:00
最終更新:2023/09/30(土) 03:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。