倉持明単語

クラモチアキラ

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倉持明(くらもち あきら、1952年7月20日 - )とは、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手投手)である。現役時代は、ロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)を皮切りに複数球団で活躍した。

ひげトレードマークとしており、称は「ヒゲ倉持」が略された「ヒゲクラ」が定着。

概要

横浜第一商業高校(現:横浜商科大学高校)在籍時にの県予選決勝まで進むも、甲子園出場はならなかった。その年(1970年)のドラフト会議ヤクルトアトムズ(現:東京ヤクルトスワローズ)から12位名されるも拒否し、日本鋼管へ入社した。翌1971年ドラフト会議ロッテオリオンズから4位名を受け、入団した。

1年に初勝利記録するものの、入団から4年間は立った成績は残せなかった。だが5年に救援のみで31試合登板(64.2イニング)、防御率2.63の好成績を残し、一躍飛躍する。ところが、その年のオフ太平洋クラブライオンズ(翌シーズンよりクラウンライターライオンズ)へ移籍することになってしまう(倉持長谷川一夫と白仁天・安木祥二の交換トレード)。

移籍1年は低迷したが、2年1978年先発も兼任して5勝をあげ、防御率も2.65を記録した。ところがこの年のオフ西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)が誕生すると、チームは資に物を言わせた積極補強に大きく路線転換する。西武をつけたのがロッテ大物内野手山崎裕之であり、倉持は交換要員としてロッテに復帰することになった(倉持古賀正明と山崎・成重生の交換トレード)。

復帰1年先発リリーフで奮闘する。翌1980年リリーフに専念し、39試合登板(71.1イニング)、防御率2.15の好成績を残し、リーグ最多の18セーブ記録してチーム2位躍進に大きく貢献した。翌1982年防御率が4点台に悪化したものの、前年を上回る40試合に登板して5勝11セーブ記録した。

しかし1982年には登板試合数が減(9試合)し、その年のオフヤクルトスワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)への移籍が決まった。ヤクルトでは17試合にリリーフ登板するものの1勝もあげることが出来ず(3敗)、オフ戦力外通告を受けて引退した。

先発投手として活躍した時期もあったが、抑え投手として活躍した。9回裏満塁0ストライク3ボールという、自軍にとっては絶体絶命危機を5度乗り越えたことから、炎のストッパーとも評されている。

現役時代はアートイチャー社のCMキャラクターとしても知られており、ヤクルト移籍が決まったときには、巨人戦中継で顔を見る機会が増えると喜ばれたほど。

引退後はテレビ東京での解説を経て、千葉テレビでのマリーンズ戦中継で解説を担当。投手視点とした理論以上に、地元ひいきの中継だろうと、敵味方を問わずはっきりと称賛と批判ができる解説スタイルを得意としている。

AKB48に所属する倉持明日香は実の

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最終更新:2024/03/28(木) 17:00

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