元号(元號)とは、古代中国を起源とする年の数え方(紀年法という)である。年号(年號、ねんごう)とも言い、中国ではこちらの呼び方が一般的である。
“天の代理人たる天子(皇帝)が、時間と空間を超えて世界を支配する”という思想のもとに生み出された紀年法である。
世界最初の元号は、紀元前に存在した中国の王朝・前漢の武帝が定めた「建元」である。彼は、在位中の紀元前115年頃になって、自らの即位年(紀元前140年)に遡って、この年を建元元年として定めた。武帝はその生涯中に、幾度も元号を改元(元号を改める事)を行っている。やがて武帝が崩じた後も、これに倣って中国の歴代皇帝や王朝は元号を使用し続けた。
また、中国王朝の冊封(さくほう。中国に対し、周辺国や民族が中国皇帝を天子と仰ぐ君臣関係を結ぶ事)をうけた周辺諸王朝は、中国王朝の元号や暦を自国においての公式な元号・暦として使い続けた。これを「正朔を奉ずる」、という。
元号を定めるという事は、東アジアにおいて重要な意味を持つ。元号を定める事は、すなわち「自らの国は天子(皇帝)が治める国である」という事であり、内政においては国民に「天子を戴く国」であることを印象付け、王朝の権威高揚の役割を果たす。そして外交においては、「独自の元号を使用する我が国こそが真の天子(皇帝)を戴く国である」という正統性を主張する事で、周辺国家への牽制と威光を見せつける役割を果たしたのである。
こうしたことから、各時代においての元号は1つではなく、複数の国家による複数の元号が同時に存在するのが常であった。例えば有名な三国志の時代は、魏・呉・蜀それぞれが独自の元号を使用している。日本においても、南北朝時代に朝廷が2つの系統に分裂していた時期があり、このとき南朝と北朝でそれぞれが独自に元号を制定していた。
元号の数え方は、最初の年を「元年(がんねん)」とし、それ以降を2年、3年…と数えていく。昭和50年代生まれまでの世代には、1989年の平成改元による「平成元年」が記憶に残っている方も多いだろう。
元号を新しいものに改める事を「改元(かいげん)」と言い、天子(皇帝、天皇)の代替わり以外にも、慶事や災厄があった時、干支で革命が起き得るとされる年などに改めていた。しかしこれは短期間に何度も改元が起きる可能性があり、不便であった。そこで明王朝の時代になって、皇帝の在位中は元号を変えないものとする「一世一元の制」が作られた。この一世一元制は、明の次代である清王朝や、ベトナムの阮朝などがこれに倣って取り入れた。日本でも明治に入って以降は、一世一元の制を採用した。
元号は前漢の時代に生み出されて以降、2000年近くに渡って使われ続けたが、近代に入って元号を使用する各王朝が革命で倒されたり(清国→中華民国)、あるいは社会主義化したり(ベトナムの阮朝)、あるいは併合されたり(朝鮮)することで減って行き、現在では元号を使い続けているのは天皇制を維持する日本ただ一国のみとなっている。
ちなみに台湾で使われている中華民国暦(民国紀元)や、北朝鮮で使われている主体(チュチェ)暦といった、紀年法があるが、これは西暦や戦前日本の皇紀、タイの仏教暦などと同じく、紀元であるので、元号ではない。とはいえ日本の元号のように西暦と併記されるなど、使われ方としては元号とあまり変わらないようである。
日本最初の元号は、飛鳥時代の大化の改新の際に定められた「大化(たいか、645年-650年)」である。次に、「白雉(はくち、650年-654年)」が定められたが、654年以降は1年だけ「朱鳥(しゅちょう/すちょう/あかみどり、686年)」が定められたのを除けば、701年に「大宝/大寶(たいほう/だいほう、701年-704年)」が定められるまでの約50年近くの間、長い中断期間があった。大宝の元号制定以降は、南北に朝廷が分裂していた時代も含めて一度も中断されることなく使用され続け、現代の令和(れいわ、2019年5月1日-)にまで至っている。
情報化社会、印刷技術が発達した現代において、改元による混乱を避けるため、前日では無く1ヶ月前に公表された。
元号の発祥は前漢である。前漢で制定された「建元」が世界初の元号である。この元号は西暦の紀元前140年から紀元前135年まで続いた。その後、中華圏に成立した王朝・国家は入れ替わるが、元号は続いた。
共和制国家の中華民国の建国により君主制国家は清国で一度途絶えたため、元号も西暦1909年から西暦1911年まで用いられた清国の「宣統」で途絶えた。
中華民国では元号ではなく、中華民国の建国年である西暦1912年を紀元とする「民国紀元」が用いられた。
中華民国の建国以後に中華圏で成立した君主制国家の中華帝国及び満州国でも元号は用いられた。
現在のベトナムにおいては漢字は使用されないが、1945年以前は漢字が使用されていた。
東アジア諸国と同様に元号制度も存在した。しかし、西暦1926から西暦1945年まで用いられた最後の元号である保大をもって阮朝の崩壊と共和制国家の建国により元号制度は廃止された。
掲示板
460 ななしのよっしん
2023/12/31(日) 23:01:18 ID: ZPstjtuLa2
気にしすぎ
461 ななしのよっしん
2024/01/03(水) 18:42:19 ID: lLvQTr77/t
普段使うのは西暦で、西暦優先でいいと思う。
令和は正直、慶応までの「悪いことあったら同じ天皇の治世でも即改元」だったら令和2年で終わってた(2020年1月~2月に改元)だろうなぁとか思った。
ただ完全に「元号なんてクソ。教育も含めて完全に西暦だけ使え」って言ってる連中って度が過ぎると「大化の改新」、「明治維新」、「大正デモクラシー」、「応永の乱」、「観応の擾乱」、「明暦の大火」、「天明の飢饉」、「応仁の乱」、「建武の新政」、
「昭和恐慌」、「平成の米騒動」その他日本史事項まで「何年に起きたかわかりにくいから全部西暦表記に変えろ」って言いだしそう。(元号由来でも慶應義塾みたいな私的機関は除く)
ぶっちゃけこういう過去の歴史系の出来事が西洋史でよく使われる「1×××年革命」とか「1×××年事件」「〇〇年戦争」みたいなのばっかだと逆に覚えるのがわかりにくすぎる。
462 ななしのよっしん
2024/02/09(金) 21:41:05 ID: mm4CDu2XWm
明治6年より前はそもそも暦が違って変換すると年だけじゃなく月日も変わるから
まあ暦自体も何度か改暦されてるけど
急上昇ワード改
最終更新:2024/09/12(木) 22:00
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