元王朝 単語

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ゲンオウチョウ

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元王朝とは、中国史上の時代区分の一つである。

ちなみに「元」とは後世の中国人による呼称であり、正確には大元大ダイウォン・イェケ・モンゴルウルス)という号の略称である。ここから、最近では大元ウルスとも呼称される。

概要

チンギス=ハンの作ったモンゴル帝国を前身としてフビライハン1271年に号を変えたことからはじまり、1368年に明の洪武帝に滅ぼされるまで続いた王

中国の伝統に理解な従来のハーンに代わって、文明を尊重したフビライによって建てられた中華風」…と従来は語られてきたが、最近の研究によってそうでもないことがわかりつつある。良くも悪くも。

中国史上においても異質な時代であり、その評価は一定ではない。日本においては「元寇」が有名ではあるが、東南アジアの各地にも遠征軍を送っており、各地の歴史に多大なを与えた。

ちなみに、歴代の中国では地名を王名前にしていたが、「大元」は抽的な概念である点で大きく異なる。また、「大」が単なる尊称ではなく「大元」で一つの意味を成す点でも異なり、この点は後の「大明」・「大清(ダイチン)」に受け継がれた。

モンゴル民族による征であり、フビライの即位時点で歴史上19世紀のイギリスに次ぐ最大領土を誇った。

はじまり

12世紀後半、時の中国の南下に苦しんでおり、またモンゴル高原ではモンゴル系の諸部族が、金に対抗しながら互いに勢力を競っていた。そんな中13世紀の初め、後のモンゴル帝国を打ち立てるテムジン、後のチンギス=ハンが誕生した。テムジンモンゴル部族の中でも有力な首長であったイェスゲイと妻ホエルンの間に産まれた。イェスゲイは、タタール中国名で韃靼)の武将テムジンを捕虜にした日に産まれた子だったので、その子にテムジンと名付けた。

当時のモンゴル族はモンゴル高原原地帯での放牧をして生活をしていた。牧めて常に移動するため、住居には「ゲル(包・パオ)」という移動式テントを用いており、普段は家族単位で暮らしていたが、季節によっては類などが一緒に行動していた。製品や毛皮、を農耕民に売り穀物などを買い入れており、10世紀頃にはを飲む習慣が広まり、は重要は交易品になっていた。

モンゴル高原ではいくつかの部族が存在し、中でもタタールメルキト族モンゴル族の宿敵であった。テムジンイェスゲイは政略結婚のためにテムジンオングート族のボルテという少女を婚約させるも、その移動中にタタール族からを盛られて死亡してしまう。首長を殺されたテムジンの部族は崩壊し、テムジンは過酷な生活を10年ほど送ることになる。その後、テムジンは幼い頃の婚約に従ってボルテ結婚するも、メルキト族の襲撃にあい、ボルテは連れ去られてしまう。テムジンはケレイト族族長のトオリルハンと、戚であり盟友のジャムの力を借りてメルキト族へ出し、見事これを打ち破ってボルテを救出する。この時ボルテ子供を身ごもっており、やがて産まれたジュチはメルキト族の子ではないかと疑われた。

この戦いで名を馳せたテムジンのもとには多くの人々が身を寄せてきたが、テムジンメルキト族との関係を巡ってジャムハと対立してしまい、1189年にはジャムハは3万の軍勢でテムジンに侵攻を開始した。この時、ジャムハは形を13に分けて戦ったために、この戦いを十三の戦いと呼ぶ。テムジンジャムハに破れオノン川上流に逃れるも、冷酷な性格のジャムハを見限った者たちがテムジンのもとに集まりつづけていた。そんな時、テムジンのもとに金からタタール討伐のために兵を出すように要請が届く。テムジンはこれに応じ、ケレイト族のトオリルハンモンゴル族のテムジンは金軍に協力して三方からタタール領内に攻め込み、1196年にモンゴル高原に強大な勢力を誇ったタタール族を滅ぼした。

この軍功により金から将軍称号を与えられ、更に威名をかすテムジンモンゴルの族長会議クリタイにて大ハン大王)に推挙される。テムジンの台頭を脅威に感じたトオリルハンジャムハは連合し、テムジンを攻撃した。最初は連敗していたテムジンであるが、やがて反撃に転じ、1203年トオリルハンのケレイト族を滅ぼした。1206年にはジャムハも倒し、テムジンモンゴル高原の王者となった。

進撃

モンゴルを統一したチンギス=ハンの次の標は周辺にある金、西西であった。チンギス=ハンは4人の息子長男ジュチ、次男チャガタイ、三男オゴタイ、四男トゥル将軍にして各に戦いに挑んだ。

モンゴル兵の強さは何といってもにある。モンゴル兵は各自が数頭のを引き連れて移動し、乗っているが疲れると次の乗り換え速度を落とさずに攻めたり退いたりできた。現在でこそ車両兵器航空兵器流であるが、当時としては騎速度はあらゆる戦場において相手の脅威だったのである。逆にいえば騎が使えない戦いではモンゴル兵はいまいち活躍することが出来なかった。最初に攻めた金の属である西軍は(カラホト)に立て篭り、兵戦に応じなかった。攻めあぐねたモンゴル軍はの前で宴会をはじめ、西軍をおびき出す作戦に出る。この作戦は上手くいき、1207年と1209年に二度にわたって西を攻めた結果ついに西の都の慶を包囲した。西は降的和議を申し入れ、チンギス=ハンはこれを迎えいれる。

1211年には金の都、に向かってモンゴル軍は進軍した。しい戦いの末に1214モンゴル軍はを包囲し、降させるも金が約束を破って貢ぎ物をださなかったために、1215モンゴル軍はを占領し、河から北の華北平原を手に入れた。この時モンゴル軍が手にいれた捕虜の中には耶律楚材(やりつそざい)がいた。耶律楚材はかつて金に滅ぼされたの末裔であったが、金滅亡後はチンギス=ハンに仕えてモンゴル帝国政治経済の基礎を固める人材となった。

1218チンギス=ハン中央アジア現在トルクメニスタンあたり)にあるホラズムに交易をめる450人の使節団を送るも、ホラズムの入り口であるオトラルで使節団はスパイとして処刑されてしまった。これに怒ったチンギス=ハンは1219年20万の大軍を率いてホラズムに遠征を開始した。モンゴル軍は西や金との戦いから学んだ攻めのテクニックを生かしてサマルカンドやブハラを次々と攻め落とした。モンゴル軍は占領した地域で残虐な行為を行ったため、敵国モンゴル軍に恐れをなして降する都市も続出した。ホラズム国王ムハンマドは逃亡し、カスピ海ほとりにたどりついた所で病に倒れて亡くなった。ムハンマド長男ジェラール王子も果敢に戦うもインダスに追いつめられ、以後行方ました。最後に残った首都ウルゲンチも陥落し、1220年ホラズムは征されてしまった。

勢いにのったモンゴル軍は中東から東ヨーロッパや南ロシアにまで攻め入り、大帝国モンゴル帝国を築き上げた。

1225年チンギス=ハンは7年ぶりにモンゴル平原に帰ってくるも、1227年西攻撃中に病に倒れて死亡する。同じ年、西は三男のオゴタイによって滅ぼされた。

1229クリタイにより大ハンを継いだオゴタイ三方から金の都の開封をした。モンゴル軍は数倍近い兵力を誇る金軍に苦戦を強いられるも、1232年開封に迫った。金の皇帝哀宗は開封を脱出して南とのに近い蔡州に逃れたが、南モンゴルの挟み撃ちにあい1234年に自殺119年続いた金王朝は滅んだ。

元王朝

1235年オゴタイハンモンゴル高原カラコルムを都と定めて急ピッチで建設を進めた。またオゴタイは全幹線道路り巡らせ、駅伝制度を整備し中央と広大地方情報伝達を速かつ的確に保った。幹線ジャムとよばれ、カラコルムを中心に約1日の行程ごとに設置され、そこには食料が整備されていた。この制度を利用するときは政府の発行する許可符)とハンの勅許状が必要であった。

1236年にはジュチの次男バトゥを総とする西征軍がカラコルムから欧州へ、オゴタイの三男クチュを最高官とする東征軍も同じくカラコルムから南へと出撃した。しかしクチュはまもなく病に倒れ、東征軍は苦戦を強いられる。他方バトゥ軍は快進撃をつづけ、あっという間にロシアを征し、東ヨーロッパポーランド王国ハンガリーにまでつきすすんだ。1241年ドイツポーランド諸侯とバトゥの戦いは、その凄まじい惨状からワールシュタット(死体の多い町)の戦いとまで呼ばれた。しかし1242年バトゥの西征軍に前年にオゴタイが死んでいたことが伝わり、撤退したことで欧州は命拾いをする。

オゴタイの死後1246年再びクリタイがひらかれ、オゴタイの妻ドレゲネ皇后は自分の子でオゴタイ長男グユクを三代目ハンと宣言した。しかしこれには多くの部族長が不満を持ち、特にチンギス=ハンの四男のトルゥ兄弟長男モンケ、次男フビライ、三男フラグ、四男アリクブケたちの怒りは収まることはなかった。

1248年グユクがペルシア遠征中に亡くなると、次のハン位を巡って争いが起きた。結局トゥルはオゴタイのドレゲネ皇太后とオゴタイの孫シムレンを追放し、モンケが4代ハンとなった。その後フビライは南へ、フラグバグダードへ出征。1252年フビライ成都を経て大理へ至り、そこから南に攻め入るルートで進軍した。翌年には大理フビライに降するも、そこでフビライは体勢を整えるために帰還してしまう。フビライモンゴル高原上都と呼ばれる中国風を作り、そこで華北中国人の軍閥や官僚を調略する作戦に出ていたのだが、業を煮やしたモンケが自ら南に攻め入ったため、フビライも再度兵をあげる。しかし、モンケ軍は中原の暑さと疫病に苦しみ、1259年にはモンケ自身が疫病で死んでしまい、再び後継者争いの火種がついてしまう。フビライは末アリクブケと4年にわたり戦い、最終的に勝利を収める(次男フラグは遠征していたため後継者争いに参加できず)。

5代目ハンになったフビライ1263年カラコルムに戻らず、金の都であった郊外現在北京の地に新しい都を建設することを宣言した。1271年モンゴル帝国フビライ=ハーンは号を大元大ダイウォン・イェケ・モンゴルウルス)と改め、翌年新しい都を大都と名付けた。

フビライ軍を整備し、また回回という大投石機などの新兵器を用いて南に進軍。2年以上続いた呂文煥が守る襄陽・樊(はん)攻略戦を1273年に制して、両兵士元軍に編入した。南力軍を手に入れたフビライにもはや敵はなく、南の勢力は首都の臨安を残すだけになっていた。

一方で、特別精鋭部隊、三別抄を用いて強い抵抗をしていた高麗1258年に滅ぼし、(ちんど)や済州島(ちぇじゅど)を拠点に元が置いた代官(ダルガチ)に抵抗運動をしていた三別抄の残党を1273年を高麗との連合軍によって滅ぼした。更に日本にも2回軍を送ったが失敗した。3回も送ろうとしたが、オゴタイハイドゥが西アジアで起こした反乱がヒートアップしたため頓挫した。

1274年元軍は南首都臨安に向かって出撃する。元軍は投稿してきた兵を全て編入していったため、大軍にふくれあがっていた。1276年には臨安を包囲し、南皇帝、恭は降無血開城が行われた。しかし元に降することを拒んだ文祥と陸秀夫らは恭兄弟、衛王と瑞宗を連れて福州から州、さらに広州へと逃れ、広州湾にある孤崖山にとどまったが元軍に追いつめられ、皇帝を抱いてに身を投げ、ここに趙匡胤以来319年続いた宋王朝1279年に滅んだ。

文化と政治と経済

を滅ぼし中国統一を果たした元であったが、帝国内にはプチャク=ハンオゴタイハンイルハンなどの勢力が各地にあり、内をまとめるのに苦労をしていた。また中国内でも7000万人の人、南人をわずか100万モンゴル人でどう治めるかにも難儀していた。結局元皇帝をはじめとした支配者をモンゴル人で固め、トルコ系などのなどで補佐する統治体制をとった。

元の州は世界最大の港となり、マルコポーロなどが訪れて後に彼の発言をまとめた東方見聞録がルスチアーノによって著された。政府が発行した交鈔という紙幣は全で流通し、交易は盛んになった。西アジアからペルシア絨毯真珠東南アジアの香辛料。バグダードの刺繍日本などが州には集まった。とりわけ徳鎮の染め付けのつぼは西洋で人気を博した。

フビライ宗教に寛容で仏教キリスト教イスラームチベット仏教など多様な宗教が許容された。文字に疎かったモンゴル民族の統治下では学問や文は発達しなかったが、元曲や優しい口語で書かれた小説が大都を中心に流行した。

フビライの三ヶを大都ですごし、狩り宴を楽しみ、には避暑地の上都で暮らしていた。

分裂

安定しているかのように見えた元王朝であったが1287年にオッチギンのナヤンが元に対して反乱を起こす。ナヤンに応じてハイドゥも大都へ侵攻を開始。この時既に73歳になっていたフビライは自ら兵を率いて戦い、ナヤンを打ち破る。ハイドゥも退散したが1294年にフビライは80歳で崩御する。

フビライの死後は孫のテムルが跡を継ぐ。二代皇帝、成宗である。テムルが即位すると、4つのハンで元に対する反乱が起こり、オゴタイハイドゥもモンゴル高原に侵攻してモンゴル帝国は分裂した。1301年ハイドゥはカラコルムに軍を進めたが敗北し、帰還途中で死亡する。こうして35年にわたるハイドゥの乱は終わった。

その後も元とチャガタイハンの争いは続いていたが、ユーシア大陸全体としては平和な時が続いていた。その平和イスラム商人の移動を容易にし、東西交易はさらに盛んになった。

しかし元皇帝平和にあかして贅沢な暮らしをし、テムルはの飲み過ぎて死亡。跡継ぎ争いは戦を極め、三代皇帝、武宗から十一代皇帝、順まで63年間で実に9人の皇帝が即位した。

またフビライチベット仏教の僧パスパを重く用いて以来、代々の皇帝チベット仏教中国仏教宗)のため、大な費を使っていた。それにより苦しくなった財政を補うため、政府は交鈔を乱発するが当然のごとくインフレを引き起こし、民衆の暮らしを大いに苦しめた。更に各地で間伐や蝗(いなご)が発生し、また1342年毎年のように河が氾濫して大洪水が発生した。

崩壊

相次ぐ自然災害と重税に困窮した民衆は白蓮に救いをめ、1351年白蓮教徒の乱が発生。反乱軍い布を巻いていたため巾の乱と呼ばれた。事ここに至っても元の内部抗争は続き、その間に朱元璋(ジュゲ・ノヤン)が現れて江南地方定し、1368年には明王朝をたて、洪武帝として即位した。

同年、洪武帝は大都に侵攻。順トガン・テムルは遂に情勢の覆しがたいことを悟り、明軍の攻撃を受ける前に大都を放棄し北方モンゴリアに逃れた。大都こそはモンゴル帝国中原に築いた富と栄徴であり、後世のモンゴル人は大都の失陥を悲歌として以下のように歌った。

「もろもろもて成れる、宝ある大いなるが大都よ。

率いて避暑し居せる、が上都開コルトゥ・バルガスンよ。

昔の列営地、上都のがシラ・タラよ。

誤ちて大統を失えるぞ、申の年に。

〈略〉

 化現なるセチェン・ハーンの種々に建てたる、福を享けたるが大都よ。

包囲して取られたり、人の朱哥〈ジュゲ〉ノヤンに。

けがれたる悪名、トガン・テムルに来たれり」

岡田訳注『流』、書房、2004年、174-175より。)

大都攻略明朝にとっても大きな意味を持ち、明朝は大都の失陥(1368年)を以て「元の崩壊」とした。しかし、この時点では元拠点中原からモンゴリアに移しただけであり、満州・甘粛方面を押さえるなど未だ強勢であった。中国史上において、これ以降の「元」を「北元」と呼ぶ。

北元とその後

中原を失ったトガン・テムルはその数年後に亡くなり、代わって息子の昭宗アーユシュリーダラが立った。アーユシュリーダラはケルレン河畔において徐達の率いる明の大軍を潰走させることに成功し、明と北元の対峙は一旦着する。アーユシュリーダラの死後にはトクズ・テムルが立ったが、時勢は元に利あらず、次第に明朝によって追い詰められていった。1387年には満州方面の大勢力ナガチュが明朝に降したことによって元の劣勢は決定的となり、同年にトクズ・テムル自身もブイル・ノールの戦いで明軍に大敗を喫した。

これを好機と見たのがかつてのフビライの敵対者、アリク・ブケの一族とその支持体たるオイラト部である。アリク・ブケの末裔イェスデルは敗走の最中のトクズ・テムルを捕捉、これを殺して自らハーン位に即いた。これを以て中国史では「北元」の滅亡とし、以降のモンゴルを「韃靼」と呼ぶこととなる。

しかし、これはあくまで中国における歴史観であってこれ以降も「モンゴルの」「ハーン」は続いてゆく。そもそも「元」「北元」という時代区分そのものが中国を中心とした一方的なものにすぎず、モンゴル人にとっては関わりのないことであった。モンゴルの祖たるバト・モンケ称号ダヤン(大元)・ハーンであり、モンゴル人の意識としてはダイウォン・イェケ・モンゴルウルスは明朝が「元が滅んだ」とした後も長く残った。

モンゴル人の歴史観において、モンゴル帝国(=大元)が滅んだのはリンダン・ハーンが亡くなってその息子ダイチングルン(大清国)のホンタイジに降した時(1635年)であるとされる。「大元」は中国人が僅か年足らずの王である、と見なしたのとは裏にかくも長きにわたって存続したのである。

歴代ハーン

 以下を中国史上において「朝の」皇帝と呼ぶ。
 以下を一般的に「北元の」皇帝と呼ぶ。

論、以上のハーンはモンゴルの歴史書において区別されることなく「イェケ・モンゴルウルス(大)のハーン」として名を記される。

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