光孝天皇(830~887、在位:884~887)とは、日本の第58代天皇である。諱は時康。
幼少より和歌や音楽の才能に秀で高い教養を持っていたが、異母兄の文徳天皇、その子・清和天皇、孫の陽成天皇が皇位を引き継ぐ中で、政治的な立場は不遇だった。しかしながら、彼自身は慎み深く謙虚な性格だったことから、陽成天皇が乱行を理由に退位させられると、藤原基経の要請を受けて55歳にして天皇に即位した。
基経が光孝天皇を支持した理由は彼の温厚な人格にあった。基経が若い頃、養父・藤原良房の宴席に出席した際、配膳係が料理のひとつである雉の足を主人である良房に出すのを忘れてしまった。困った配膳係は、この宴会に同席しており、まだ親王だった光孝天皇の御前にある雉の足を取って、良房の御前に移し替えた。普通ならこの無礼な振る舞いに腹を立てるところだが、光孝天皇は照明の燭台の明かりを消して、落ち度のあった配膳係が恥をかかないように気を遣った。また、基経が陽成天皇の後継者を決めるべく、多くの親王を訪れた際、ほとんどの親王が自分が天皇になれるのでないかと色めき立つ中、彼だけは普段通り、落ち着いた態度で泰然としていた。これらの体験から基経は、彼こそ帝の器だと確信したと言う。
即位した天皇は長年政界から遠ざかっていたこともあり、政治のほとんどを基経に委ね、彼を関白に任命した。これが日本史最初の関白だと言われている(異説有り)。光孝天皇は帝の座は自分一代限りと考えていたようで、即位する際に自分の子を男女問わず全員を源氏に臣籍降下させた。しかし、高齢だったこともあってわずか4年後に病の床に伏し、第七皇子の源定省が皇籍に復帰させる。翌日、定省親王を皇太子に指名した直後に58歳で崩御した。
在位期間が短く、基経がほとんど執政していたため、天皇としての功績は少ないが、その誠実な人柄から人望が高かった。また、贅沢を嫌って親王時代から自炊を行い、天皇になってからも続けた他、吉田兼好の随筆「徒然草」にはかつて自分が炊事を行って焦げ目の残った部屋をそのまま残したという逸話も記されている。「伊勢物語」などの記述にある通り、炊事を行うのは身分の卑しい人物が行うことされた時代においては、まさに異例だったと言えるだろう。
百人一首(出典は古今和歌集)で彼が親王の頃に詠んだ「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」が選定されている。この歌に詠まれている若菜とは、現在の春の七草のことである。なお、「君」が誰を示しているのかはわかっていないが、想い人に送った恋の歌とも、親しい友人や家族に宛てた新年の挨拶状とも解釈ができる。
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最終更新:2023/03/21(火) 19:00
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