八雲(装甲巡洋艦) 単語


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八雲(装甲巡洋艦)とは、大日本帝國海軍の装甲巡洋艦である。1900年6月20日工。日露戦争第一次世界大戦大東亜戦争を経験した長寿の艦であり、戦後は復員輸送まで務めた。1947年4月1日解体了。

概要

日露戦争ロシア帝国との戦争読み段階に入っていた大日本帝國海軍力を強化しようと1895年に六六艦隊計画を策定し、戦艦4隻と装甲巡洋艦4隻の建造を決定。しかしロシア海軍増強計画の調してみたところそれだけでは戦力が足りず、更に予算の都合で戦艦の追加建造も出来ないという絶望的な状況に陥ってしまった。そこで帝國海軍戦艦の数を1隻に減らし、お手頃価格な装甲巡洋艦を6隻に増やす形で六六艦隊計画を改定。本来であれば世界の最先端をゆく海軍イギリス発注するのだが、ドイツ皇帝ヴィルヘル2世禍論を唱えて日本を敵視するとともに中国大陸で勢力を伸ばしていた背景もあり、安全保障と日独関係改善を期待して装甲巡洋艦1隻のみドイツのヴルガン・シュテッティン社に発注。この艦こそ後の八雲である。当時ドイツ仮想敵ロシアと同盟の関係であったが、それほど強固なものではなかったので契約は成立。こうしてドイツで建造される事となった。八雲大日本帝國海軍の艦ドイツで造られた艦のため同艦は存在しない。建造費はイギリスより一割高かったと言われる。

体形状は体を採用、波性を向上させる的で舷を高く取り、また当時の観点でも古いと見なされていた敵艦への体当たり攻撃用の衝(ラム)を艦首面下に装備している。一方での20.3cm二連装は新であり高い火力を発揮出来た他、帝國海軍は列強に先駆けて1万トン級装甲巡洋艦6隻の火を統一していたため新兵の教育や給弾に有利だった。副エルスウィック兵器会社の15cmを採用。それぞれ150発の弾が装填されている。接近してくる魚雷艇への防御として76mm機も備えていた。当時最高性を誇ったフランスベルヴィール式石炭専焼を搭載した事で三笠を上回る出力を持ち、桁外れの航続距離をも獲得しているなどパワフルな艦に仕上がっている。弱点は装甲がやや薄い事が挙げられる。六六艦隊計画で建造された艦は共通の装甲を持っていたが、各艦ごとに若干の差異があり、八雲の側面防御は127mm装甲隔1枚だけだった。それでも高度な性と設計は日本側を満足させるものだった。戦列にした八雲日本重な戦力となって第一線で戦う事になる。艦名の八雲は、「幾重にも重なる」を意味する。

排水量9735トン、全長124.7m、全幅19.6m、出力1万5500力、速力20ノット。武装として20cm二連装2基、15cm12門、457mm魚雷発射管4門を備える。

戦歴

誕生

1896年度計画にて一等巡洋艦として発注が決定。1897年10月18日軍艦八雲と命名されてドイツのヴルガン社に建造が発注される。帝國海軍イギリスで建造される装甲巡洋艦4隻との弾薬の互換性を確保するためヴルカン社にイギリス製の火を使うよう要し、それと並行して準拠すべき設計と仕様を提出。それ以外は自由に建造して良いと注文を付けた。艦隊決戦を重視していた帝國海軍側の意向により通商保護及び破壊、または植民地への輸送任務に重点を置いていた当時の装甲艦とは大きく異なった攻撃的な艦として造られる事に。

1898年9月1日、シュテッティン造所でヤード番号240番の仮称を与えられて起工し、1889年3月23日に回航委員長の東郷正路大佐が着任して訪独、7月8日進水式を迎え、12月25日に東郷大佐が艦長に就任、そして1900年6月20日工した。代金を支払うとともに日本人回航員によって2日後に同造所を出発。石炭を積み込むためキールへ寄港した際に便乗の閑院宮殿下ヴィルヘル2世と会見を行っている。バルト東部、カイザーヴィルヘルム運河、北海イギリス峡、北大西洋、地中海スエズ、インド洋、シンガポール、南シナを通って8月30日横須賀へ到着。連合艦隊に加わった。1901年島根婦人会よりクシナダヒメの神像が寄贈されており艦内に安置されている。

1903年4月10日神戸で行われた大演習観艦式に参加。力艦が列する第一列に並び、その威容を臣民に見せ付けた。

日露戦争

1904年2月8日、ついに日露戦争が勃発。八雲は第2艦隊第2戦隊の一員として参戦し、翌日行われた旅順戦に参加。旅順港外に停泊しているロシア太平洋艦隊を攻撃するため夜襲を仕掛けようとしたが、敵の防護巡洋艦ボリヤンに発見された事で奇襲の効果が失われる。それでも東郷平八郎中将揮のもとロシア軍の沿台を撃しながら副ロシア軍艦と交戦。しかし副では敵艦に決定打を与えられず、また敵艦は全火力日本艦にぶつける事が出来たため、離脱するまでに死傷者90名を出した(ロシア側も150名の死傷者を出している)。しい火に曝されたにも関わらず八雲傷で済み、敵巡洋艦ノヴィクに1発の20cm弾を与える事に成功した。

3月初旬、第2戦隊上村中将に率いられてウラジオトクを威力偵察し、3月6日に港と防御施設を撃したが効果はど得られなかった。日本本土へ戻った後、朝鮮に向かう輸送団を護衛したのち旅順港の封鎖任務に加わる。間もなく第3戦隊へ異動となって出羽重少将が座乗する戦隊旗艦に据えられた。6月23日、露太平洋艦隊が旅順包囲網を突破してウラジオトク逃げようとした際、日直前に八雲率いる第3戦隊と遭遇し、ウィルゲルム・ヴィトゲフト少将は突破を断念して旅順へ引き返した。

8月10日、旅順を出港してウラジオトクに向かったロシア第1太平洋艦隊(戦艦6隻、防護巡洋艦4隻、駆逐艦14隻)を、東郷平八郎提督率いる上封鎖部隊(戦艦4隻、装甲巡洋艦2隻、防護巡洋艦8隻、駆逐艦18隻、魚雷艇30隻)が迎撃して戦が生起。八雲と第3戦隊は東郷中将の第1戦隊から南方28kmを航行していた。東郷中将からの示で第3戦隊力に襲い掛かる敵巡洋艦を迎え撃つ任を帯びていたが、突如ロシア戦艦の襲撃を受け、交戦状態に入る。午後、出羽少将は敵巡洋艦への攻撃を企図し、太平洋艦隊に薄。ところが15時40分に30.5cm弾が八雲の艦体中央部に直撃してしまい、乗組員12名が死亡、11名が負傷するダメージを負った。しかしここから八雲の反撃が始まる。出羽少将戦隊に分散を示するとともに突撃を開始。17時45分、手負いのロシア戦艦ポルタヴァに8000~9000mの距離まで近づいて撃を浴びせ、18時40分にヴィトゲフト少将戦死に伴う敵の壊走が始まるまで食い下がった。続いて第1戦隊と歩調を合わせながら敗走する敵艦隊の追撃に移行。敵巡洋艦撃するが大した損は与えられず、19時44分に東郷中将から駆逐艦を攻撃するよう命じられるが、出羽少将は命無視して20時に南へ舳先を向け、孤立した駆逐艦戦隊魚雷艇と合流される前に防備な敵巡洋艦数隻を攻撃する。追跡は20時25分頃に中断。一晩中南東に向かって敗残兵狩りを行ったが戦果は挙げられなかった。戦後、旅順の封鎖を再開。痛手を負ったロシア艦隊は二度と外洋へ出る事はかった。

9月中旬、対馬峡を守る第2戦隊へ戻り、末から体の修理を開始。11月15日に第3戦隊へと復帰して再度旗艦となる。12月13日、旅順港外で防護巡洋艦が触雷沈没してしまったため、音羽とともに生存者の救助を試みるも既に生存者はいなくなっていた。その後は佐世保に入渠して修理を受ける。

1905年2月1日八雲はウラジオトク上封鎖している第2戦隊へ加わるよう命じられたが、数週間後にでの修理を命じられてすぐさま戦線離脱。2月中旬から整備に入った。これはバルトから回航中のバルチック艦隊との決戦を見越した措置だった。やがて台湾南方バルチック艦隊が三井物産の商を臨検したとの報告を受け、連合艦隊朝鮮半島南端の鎮湾で待機。刻々と迫る決戦に備えた。しかし臨検以降バルチック艦隊の動向は一切読めず、敵が対馬峡を通過するか、太平洋回してウラジオトクに向かうかまるで予測出来なかった。5月26日未明、バルチック艦隊の給炭上海へ寄港したとの緊急電が入り、戦闘準備を開始。その中には八雲の姿もあった。

5月27日未明、五島列島北西を警中の信濃丸がの中を進むバルチック艦隊を発見して通報連合艦隊は甲上に載せていた高品質のカーディフ炭火災防止のためへ捨て、計45隻の艦艇が一斉に抜錨。午前6時に鎮湾を出撃した。バルチック艦隊はいち日本艦を発見する事が出来たが、視界不明瞭かつ線装置は貧弱とチャンスを活かせなかった。午前11時30分、八雲が所属する第2戦隊福岡県北方60kmでジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊を捕捉。距離8000mまで近づき、14時10分に出雲吾妻、浅間、常盤、磐手とともに一斉に火を放った。この時、連合艦隊は新の高性弾を使用しており、甲に着弾した弾は高熱の炎を撒き散らして敵兵を焼却。14時50分、艦隊から脱落したロシア戦艦オスリャスビアと交戦し、6隻の装甲巡洋艦から集中火を浴びたオスリャスビアは大規模な浸被害を受けて20分後に転覆・沈没バルチック艦隊は混乱して統率を失った。15時35分、距離2000m先のの中から戦艦クニャズスボーロフが現れて八雲三笠吾妻は雷撃を仕掛けたが命中しなかった。17時30分から18時3分まで敵巡洋艦を追跡した後、第1戦隊と合流して北上。翌28日午前10時30分、逃走中バルチック艦隊を発見して撃開始。もはやこれまでと悟ったニコライ・ネボガトフ少将は降を決断した。14時10分、本隊から遠く離れた場所にいた敵戦艦アドミラルウシャコフを発見、17時より磐手と協同で降を迫ったが、ウシャコフは攻撃しようと2隻を射程圏内へ収めてきたため反撃。八雲は20.3cm弾6発と15.2mm弾9発を浴びせてたちまち大ダメージを与え、18時10分に自沈へと追いやった。沈没後は救助活動に勤しんで12名の士官と327名の乗組員が救助された。バルチック艦隊は巨大な炎に包まれ、総司令官ロジェストヴェンスキーは重傷を負い、統率を失って散り散りに敗走を始めた。世界最強と謳われたバルチック艦隊が撃沈16隻、自沈5隻、捕獲6隻という大損を受けた事で日本勝利が決定的となる。

6月14日片岡七郎中将率いる第3艦隊の旗艦となる。7月には樺太占領作戦の護衛任務を務めた。10月23日横浜で行われた日露戦争凱旋観艦式に参加して奇跡大勝利に酔いしれ、舞道路に「八雲通り」と名付けられるなど臣民にもしまれる。

第一次世界大戦

1914年8月23日日本ドイツ宣戦布告して第一次世界大戦に参加。度の戦争は極東からドイツの勢力圏を叩き出す絶好の機会であり、八雲は故との戦いに身を投じていく。開戦を見越して既に州湾に進出していた八雲速に上封鎖任務に参加し、8月27日には乗組員で編成された陸戦隊青島の南に浮かぶドイツ灯台を占領。9月28日、上陸部隊援護の一環でイルチス山台に計50発の弾を撃ち込み、八雲からの撃に呼応して陸軍部隊が攻勢に転じるなど心理的効果は抜群と言えた。10月31日ドイツの租借地である青島攻略作戦に参戦して艦砲射撃で上陸部隊支援

11月青島から脱出したドイツ東洋艦隊の軽巡エムデンがインド洋方面に向けて移動中との情報が入り、捜索のため磐手とシンガポール派遣されるが、既にココスオーストラリア海軍軽巡シドニーと交戦して沈没していたため、戦闘は生起しなかった。寄港先のシンガポールではスペイン風邪が流行していたものの幸い八雲の乗組員に感染者は出ず。次に印方面で通商保護任務に従事。

1915年12月4日横浜で挙行された御大礼特別観艦式に参加。第1艦隊第1戦隊での参列となった。

1917年2月より南太平洋インド洋でドイツの襲撃艦対策のパトロールを行う。戦場から遠く離れていた日露戦争時と較して戦闘が全く起こらず、4月5日から8月17日にかけて北米ハワイを巡って練習を行うなど戦時とは思えないのんびりとした空気が流れていた。

戦間期

1921年9月1日に装甲巡洋艦から一等海防艦に類別変更され、9月25日練習艦隊旗艦の座を出雲から継承。大体である八雲は収容スペースに余裕があり、遠洋航や士官学校の訓練に活用されて後進の育成に注力する。

1922年8月26日カムチャッカ半島で漁場保護の任務に従事していた防護巡洋艦新高が荒によりオジョールナヤ基地で座礁沈没する事故が発生。翌日正午に偶然海岸へ流れ着いた生存者の報告で沈没が判明し、八雲遭難現場に派遣されて救助活動を実施。8月29日正午までに6名の兵の死体を収容した。横須賀へ一旦帰投した後、防寒具、伝、食糧品などの補給品とを満載して8月31日に出港。9月5日遭難域へと戻って捜索活動を再開している。

1923年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生。未曾有の大災害を前に通信網が壊滅したが、奇跡的に船橋送信所が生き残ったため、15時に旅順近の裏長山泊地にて停泊中の連合艦隊被害を報告。翌2日16時から次々に艦艇が救援に向かった。まず軽快な駆逐艦軽巡被災地先発させ、戦艦は準備出来次第出港。八雲は浅間、磐手とともに煙をモクモク吐き出しながら都をしていたが、四国で全力航行中の長門に追い抜かれている。到着後、品川清水間で被災者の輸送任務に従事した。11月7日から遠洋練習を再開。

1924年4月5日まで遠洋練習に参加した後、QF12ポン4門と魚雷発射管3門、全てのQF2.5ポンが撤去され、代わりに8cm/40 三年式対空砲1門を搭載。後に戦艦榛名から流用した6基のヤローボイラーと換装した事で最大速力が16ノットに低下している。1926年1月14日横須賀で補助給ポンプを、1月20日ライスボイラーの一部修理と換装を、6月下旬に洗濯機の取り付け工事を行う。

1927年4月1日夕刻、輸送任務の命を受けて急ぎ館山沖から佐世保へ寄港。急に悪化し続ける上海治安を維持するべく陸戦隊500名を積載して翌2日に出港、上海へ緊急輸送を行った。8月上海にて運送艦鳴戸より補給を受ける。1928年4月23日出雲とともに横須賀を出港。2万1018里を踏破し、香港シンガポール、バタビア、フリーマントル、アデレード、メルボルンシドニー、ホバート、ウェリントンオークランド、フィジースヴァなど途中20ヶ所の寄港先に立ち寄りながら10月3日横須賀へ帰着。そのまま12月4日御大礼特別観艦式に参列した。ちなみに八雲観艦式に参列するのはこれが最後である。

1931年3月16日、訓練生を乗せて出雲とともに佐世保を出港。中の6月1日に艦種を海防艦に変更する。、基香港スエズ、ポートサイドナポリマルセイユに寄港し、8月15日佐世保へ帰投した。1932年1月13日出雲青島へ寄港して陸戦隊を揚陸し、現地の暴動を鎮圧。8月1日練習艦隊へ編入された。1935年2月20日、磐手とともに横須賀を出発し、練習しつつ太平洋沿を歴訪。7月22日横須賀へ帰還した。

1936年4月20日練習艦隊旗艦の座を磐手に譲渡。6月9日練習艦隊の一員として横須賀を出港。8月5日パナマ運河通過してニューヨークに寄港した後、日本本土への帰路に就く、しかしその中の11月6日サイパン南方155里にて体右舷前部の二重底部に滞留していたガス誘爆を起こし、4名が死亡する事故が発生。爆発の余波で浸被害まで発生してしまい急遽磐手に航、横須賀から修理要員と資材を積んだ駆逐艦急行し、11月8日に合流。翌日サイパンに寄港して応急修理を行った。幸い大事には至らず、11月20日横須賀へ到着。加えて主任導官付として八雲に乗り込んでいた海軍問題児板倉少尉に来客用の食器を全て叩き割られてしまうなど実に散々な航だった。

負傷しても練習艦の役割が途絶えるはずがなく、1937年3月23日卒業した64期生を乗せて出発。相棒の磐手と内地、朝鮮満州を3ヶ巡航。6月7日横須賀を発ち、地中海方面へと向かったが、8月8日第二次上海事変が発生して風雲急を告げる情勢になったため、予定を二週間繰り上げて横須賀に帰港した。ここでも板倉少尉教育参謀に掴みかかる問題を起こして教官不適の烙印を押されている。

1917年から1939年にかけて実に14回もの練習に使われ、兵44期から66期の大多数が八雲に乗艦して知識や技術を学んだ。近代における帝國海軍の礎を作ったと言えよう。磐手ともども長らく訓練航を担っていたが、1939年以降は香取練習巡洋艦が登場した事でお役御免となった。

1940年1月15日、内第19号により練習艦兼警備艦となる。

大東亜戦争

1941年12月8日大東亜戦争が勃発。開戦時、八雲江田島係留されており警備戦隊の旗艦として内地に留まった。

1942年1月2日警備戦隊の旗艦任務を解かれる。7月1日海防艦定義が大幅に見直された事により航行力と20cmを持っていた旧来の海防艦八雲、磐手、出雲の3隻は一等巡洋艦へ格上げ。同期の装甲巡洋艦練習艦に格下げとなる中、八雲は価値を維持し続けていた訳だが、一等巡洋艦とはいえ既に工から約40年が経過した老朽艦であり、彼女の出番は望むべくもかった。結局のところ兵学校練習艦に定され、他の装甲巡洋艦同様瀬戸内海西部で実習の場を提供するのみに留まる。

1943年9月5日に第1艦隊へ配属されて出撃するかに見えたが結局瀬戸内海から出られず、10月13日、同じく練習艦だった戦艦伊勢軽巡龍田トラックへの輸送任務に抽出される中、八雲だけが掛からなかった(一方でトラックへの輸送任務に従事したとする資料も存在する)。しかし香取練習巡洋艦の最前線投入、戦争化に伴う海軍学校の採用数拡大等が重なって練習艦は引く手数多であり、出雲や磐手ともども多忙な訓練の日々を送った。12月1日呉鎮守府直轄の練習艦兼警備艦に戻される。

1944年7月29日練習巡洋艦鹿島と潜水母作戦輸送抽出により第11潜戦隊の訓練任務を引き継ぐ。7月31日18時長浜錨地でと合流し、訓練任務に必要な物件や人員を八雲へ移転。8月27日19時15分、長浜東錨地へ回航して伊1246、伊367の訓練に協力する。9月19日海軍予備学校出身の海軍少尉を乗艦させて実習させ、10月20日から27日にかけて横須賀海軍砲術学校の予備生徒に実習の場を与え、10月末日に大津回天基地へ艦載艇を派遣して訓練を支援八雲ではガリ版の艦内新聞「行脚(ゆきあし)」が出版されていた。旧式艦ゆえ空調設備の類は一切く、直射日光が当たると熱せられて非常に暑かったという。石炭を使う蒸気機関なので機関科の訓練には適さず彼らの姿はかった。

戦局が挽回不能に陥った末期1945年3月19日機動部隊による軍港襲に遭遇。午前8時4分から午前9時28分まで対戦闘を実施し、残弾数は高146発、機6421発となる。4月、敵機の襲に対応するためを撤去し、武式2m半測距儀1組、九七式2m高測距儀1組を装備して対兵装を強化。八雲の武装は15cm単装4門、12.7cm2門、8cm単装高1門、25mm三連装機2門、同連装機2門、同単装機2門になった。整備状況が悪かったらしく、もはや9ノットしか出せなかったと伝わる。深刻な重不足により多くの艦艇が行動不能になる中、八雲の燃料である石炭内(北海道)で産出出来る一の戦略物資だったため広島湾のあちこちを動き回る事が出来、大変重宝された。

5月4日から9日まで海軍経理学校第38期生が乗艦。5月27日に発された呉鎮守府325号に従って警備戦隊八雲派遣し、磁気圧機雷の性調と掃具の開発に協力。しかし7月14日と15日の函館襲で青森北海道を結ぶ青函連絡船が壊滅した事により石炭の補給が途絶え、八雲行動にも悪を及ぼしたと思われる。7月24日と28日の大規模襲によってに停泊していた残存艦や同期出雲、磐手が次々に大破着底ないし沈没したが、一八だけは傷で生き延びた(中破状態だったとも)。何か憑いていたのかもしれない。

終戦時、航行可な状態で残存。日露戦争時代の董品が未だ現役なのを見てアメリカ軍興味を抱いたとか。

最後の奉公

戦後1945年10月1日に除籍。戦争が終わったとはいえ外地には600万以上に及ぶ軍人と邦人が広範囲に取り残されており、彼らの帰は一大事業であった。八雲機関事だったため12月1日より特別輸送艦定される。しかし旧式艦ゆえ航続距離が短く、本土から近い台湾中国大陸が担当地区となった。12月7日から翌年6月までに9010名の邦人を引き揚げさせた。

1946年6月26日に任務を終え、7月20日日立所で解体工事に着手。1947年4月1日に解体が了して45年以上に及ぶ艦歴を閉じた。艦長室にあったドイツ製の調度品は中国に返還するため鹵獲多田に積載された。日立所には錨や艦長が展示されている。

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