六角義弼 単語

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六角義弼(1544~1612)とは、戦国時代に活躍した武将である。
名前を六角義弼→六角義治→六角義堯→玄雄と何度も変えている。後述する通り六角義堯に関してはごく一部で別人説が唱えられてはいるが…うん…まあ…

概要

近江守護六角氏の当主で六角義賢(六角承禎)の息子。一般的には躍進華々しかった祖父・六角定頼を引き継ぎ、浅井氏の離反などに何とか対処していた父・六角義賢と対立した末に「観音寺騒動」を引き起こし、六角氏を崩壊させ、その後の織田信長のかませ化に導いたダメ君主として名高い。

しかし、長きにわたる織田信長への抵抗の末に豊臣家に流れ着き、最終的に子孫を絶やすことなく細々と近世に突入する。

ここまでのあらすじ

室町時代の六角氏

六角氏とは平安時代以来の宇多源氏佐々木氏の嫡流であり、鎌倉時代から近江守護の座にあった名門である。しかし、南北朝時代の佐々木道誉の躍進によって北部は事実上傍流の京極氏に占拠され(なお、京極氏を半国守護とするのは事実ではないが、当時からそのように誤解されていた)、以来ややパッとしない存在となってしまった。

六角氏頼は、貞治4年(1365年)に後継ぎの六角義信を失い、京極高秀の息子・京極高経を養子として迎え入れる。ところが、応安2年(1369年)に実子・六角満高が誕生し、高経は追い出されてしまった。応永17年(1410年)に飛騨国司姉小路氏の追討に兵を出さなかった理由で一度守護を更迭され、青木持通が守護を変わるが、結局六角氏が取り戻したようだ。

永享6年(1436年)の永享の山門騒乱以後、延暦寺への介入を強めていった六角氏。しかし、この結果嘉吉の乱を経て反守護闘争につながり、嘉吉元年(1441年)に六角満綱は更迭され、息子の六角持綱が新たに守護となる。ところがこの結果、家臣との間に亀裂が生じ、家督争いが生じる。六角持綱、六角時綱、六角久頼らが争った末に、康正2年(1456年)の六角久頼の自害によって、久頼の子・六角高頼、幕府が推す六角時綱の子・六角政堯が争う次のフェーズに移る。

六角政堯は、伊庭氏の子を殺害して長禄2年(1458年)に家督を追われるも、応仁の乱で西軍に就き山内政綱、某政勝、伊庭貞隆らが率いた六角氏軍に対し、京極氏と共に東軍につく。結果幕府からは六角政堯の方が守護とされたのだが、京極持清没後の京極氏の分裂を受け、六角高頼が最終的に当主となったのであった。

以後、六角高頼は、足利義尚、足利義材らから追討されるも、何とか抵抗していき、明応2年(1493年)の明応の政変で一躍復権。この背景には国内の領主層からの一定の支持と、土岐氏など近隣との軍事同盟があったからとも。

しかしこのことが逆に、土岐氏の家督をめぐり土岐政房を推す斎藤利国、土岐元頼を推す石丸利光の間の抗争で、六角高頼は石丸に味方した結果、石丸の敗死によって京極高清が味方する斎藤利国の逆侵攻を招き、何とか斎藤利国を敗死させるといった事態を招いたりもした。

六角氏の戦国時代

文亀2年(1502年)に伊庭氏の乱がおこる。この戦いは従来は強大化した家臣と当主の矛盾・対立、という図式で語られることが多かったが、実際は馬淵氏と伊庭氏の争い、明応の政変以後の足利将軍家の分裂に対する路線の対立、といった複雑な要因が絡み合ったものだったようだ。

六角氏の当主・六角氏綱は永正10年(1513年)頃から体調を崩し、弟・六角定頼が当主を実質代行する。定頼は蒲生氏を取り込み、また北近江で京極氏の支配から脱しつつあった浅井氏を牽制していった。さらに六角定頼は足利義晴のもとで幕政に関与。天文法華の乱などに関わっていった他、細川晴元や畠山義総らと縁戚となり、また定頼の弟たちも、大原氏、梅戸氏といった国内外の奉公衆家に養子入りしている。

天文18年(1549年)の江口の戦いで細川晴元が三好長慶に敗れると、足利義晴、次いで足利義輝を担いで三好氏と戦っていく。しかし天文21年(1552年)に六角定頼が亡くなると、六角氏と三好氏は和議を結び、足利義輝、細川昭元らの入洛がかなった。さらに六角義賢は浅井氏を服属させるなど、北近江に進出。かくして、六角義賢は弘治3年(1555年)頃に出家して六角承禎と名を改め、六角義弼の代に移る。

六角義弼と観音寺騒動

しかしこの六角義弼であるが、永禄3年(1560年)頃から父・六角承禎と不仲になっていった。さらに六角承禎の唯一の自筆書状によると、弟の六角賢永とも仲が悪くなっていたようだ。これを受けて六角承禎が六角義弼を叱責した書状が、かの有名な斎藤道三が父子二代で美濃国を奪取した証拠にもなっている、『春日文書』に入っている「平井定武他六角承禎条書案」であり、六角義弼が勝手に後斎藤氏と縁談をまとめてきたことにカンカンになっている。

このころから浅井長政が台頭し、浅井氏と六角氏は対立していったのだが、一方で永禄4年(1561年)の細川晴元と三好長慶の和睦によって細川晴之を擁立して畠山高政とともに三好氏を挟撃。神楽岡の戦いを起こす。六角氏は京都制圧まで至ったものの、結局、六角承禎・六角義弼父子は特に負けたわけでもないのに撤退していった。

かくして、永禄6年(1563年)10月1日、観音寺騒動が勃発する。事の発端は、六角義弼が重臣・後藤賢豊父子を独断で殺害したことである。六角義弼が独断で行ったこの事件の結果、猜疑心から家臣団が一斉に敵対。進藤・目賀田・三井・馬淵・楢崎・伊庭・平井・永原・池田・横山・木戸・荒井・三雲、といった重臣のほぼすべてが敵に回った上、浅井氏の侵攻も招く。

六角承禎・六角義弼父子はこの事態に対しほとぼりが冷めるまで潜み、蒲生氏等の仲介によって家臣たちは帰参していき、騒動は終息した(なお、このころに六角義弼→六角義治となる)。こうしてある程度回復した六角氏であったが、永禄8年(1565年)の永禄の変直後でさえ、まだ混乱は続いていた。

六角義治と織田信長

こうした困ったおぼっちゃんであった六角義治であったが、足利義輝死後の永禄9年(1566年)頃は浅井長政の侵攻に対処していた。一方で六角氏は、当初足利義昭の矢島滞在を黙認していたにもかかわらず、近年発見された「米田文書」によると、ある時期を境に六角承禎は反義昭派に与し、足利義昭捕縛を命じる。足利義昭一行はこれを察知して若狭に逃亡する一方、六角承禎は本願寺顕如に能登畠山義綱の再入国などを命じていき、ついにかの有名な『六角氏式目』が成立する。

だが、永禄10年(1567年)についに、東方から織田信長の手が伸び始める。かくして9月11日の箕作城・観音寺城攻めによって家臣団は崩壊して、六角承禎・六角義治父子は甲賀に没落。六角氏は滅亡した。

しかし、この後も六角氏はしぶとく織田信長に抵抗する。永禄13年(1570年)の金ヶ崎の退き口では信長包囲網に加わり、南近江で信長を挟撃。さらに家臣団を再編し、織田家にぶつかる。しかし、野州河原(もしくは江州小浜)にて佐久間信盛、柴田勝家らに敗戦。11月には志賀で和睦を行い、事実上の降伏となった。

ところが足利義昭と織田信長の関係が悪化すると、元亀4年(1573年)に六角承禎・六角義堯父子(なお、このころに六角義治→六角義堯となる)は挙兵。六角義堯は鯖江城に籠城した。しかしあっけなく落城させられ、六角義堯は六角承禎のいる石部城に落ち延びていった。

六角氏のその後

以後、甲賀あたりでゲリラ戦を展開した六角承禎・六角義堯父子であったが、没落。六角承禎は甲斐武田氏との関係を深めていったものの(甲斐に滞在したというのはあくまでも一説である)、武田氏滅亡後は京都へ戻り、豊臣秀吉に召し抱えられたらしいが詳細は不明。慶長3年(1598年)3月13日に亡くなったとされる。

一方、六角義堯は足利義昭に付き従い、いわゆる鞆幕府にも与する。とはいえ、足利義昭の豊臣秀吉による帰洛に伴い、豊臣家に仕えることとなる。『鹿苑日録』によると豊臣秀次に召されて弓の師範となり、秀次死後も豊臣秀吉・豊臣秀頼に引き続き仕えた。京都賀茂に住んだ六角義堯は、慶長17年(1612年)10月22日に亡くなったとされる。

以後の六角氏の動向は、2017年に発見された『酬恩庵旧蔵文書』によって『諸家系図纂』収録の「佐々木系譜」との間が埋められ、明らかにされた。これによると、徳川家康によって男子のなかった六角義堯の娘に六角高定(前述の弟・六角賢永のこと)の系統・六角定治が婿養子として嫁ぎ、以後この嫡流が加賀藩士として続いていった一方、同じく六角高定の系統に属する六角高和の子孫が幕府旗本として続いていった、ということらしい。

異説…というか珍説の類

ここからはWikipediaにおける独自研究めいた蛇足なので、特に興味のない人は読み飛ばしてもらいたい。

ここにとある偽書『江源武鑑』がある。近年注目されている偽文書「椿井文書」などと違い、江戸時代から偽書とされてきたいわくつきのものである。

ところが近年佐々木哲(なお、本人も言っている通り哲学畑出身の日曜歴史家ではある)によって、この記述は一定程度の事実を反映しているとネット上で啓蒙活動が行われ、例えば『武功夜話』が偽書とおおむねみなされるようになった昨今ですらかつて史料であると喧伝された残滓が残っているように、ネット上でこの主張に基づいた記載が多々見られるのである。

この『江源武鑑』、およびそれに基づいた史観の主張であるが、要するに本来の嫡流である六角氏綱(上述の通り病弱で弟・六角定頼に代わられた当主)の系統が存在し、六角義久、六角義秀、六角義堯と続いていく、とするものである。

ここで六角義堯と聞いてピンと来た人もいるかもしれないが、この記事の六角義弼と同一人物としてきたあの人名である。つまり、ネット上に流布している六角義弼・六角義堯別人説の大本はこれであるのだ。

さらにこの主張では六角義堯の息子・六角義康が登場するが、これは斯波義銀(津川義近)の息子・津川義康と一般的に主張される人物と混同されてきた別の存在である、ということらしい。

この佐々木哲の主張においては、『江源武鑑』をたたき台にしながら、六角氏の史料集もなかった当時アクセスできた諸史料で肉付けする、という手法がとられ、著書がとっくに絶版して手に入りにくくなってしまっていることもあり、結論だけがネットで拡散され続けているが、まあ…。

なお、他にこの『江源武鑑』史観起源の六角氏にまつわる主張だと、仁木義政、朝倉義景は父子であり、同じく六角氏綱の系統に属する、というものもある(つまり朝倉義景六角氏出身説の出どころもこれ)。

なお、六角氏の文書類を整備し、近年六角氏の研究を進めている村井祐樹の 『江源武鑑』評は、「あえて言おう、カスであると。(原文ママ)」とのことである。

補足

「信長の野望」(PC)シリーズにおける六角義治(何度も名前を変えているが、シリーズではこの名前で登場)の能力一覧。

当初は平凡な能力値であったが、嵐世記あたりから一気に能力が低くなり、下位を争っている。

軍事能力 内政能力
戦国群雄伝(S1) 戦闘 30 政治 41 魅力 87 野望 61
武将風雲録(S1) 戦闘 42 政治 45 魅力 71 野望 56 教養 65
覇王伝 采配 66 戦闘 57 智謀 45 政治 45 野望 56
天翔記 戦才 122(B) 智才 70(C) 政才 110(B) 魅力 71 野望 67
将星録 戦闘 55 智謀 34 政治 52
烈風伝 采配 46 戦闘 39 智謀 18 政治 47
嵐世記 采配 32 智謀 4 政治 31 野望 66
蒼天録 統率 29 知略 9 政治 31
天下創世 統率 32 知略 15 政治 25 教養 59
革新 統率 36 武勇 70 知略 17 政治 28
天道 統率 36 武勇 70 知略 17 政治 28
創造 統率 44 武勇 65 知略 27 政治 37
大志 統率 44 武勇 63 知略 34 内政 38 外政 30

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