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冲鷹単語

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冲鷹とは、大日本帝國海軍が運用した商船改造空母である。

概要

冲鷹の前身は新田丸と呼ばれる客船であった。しかし戦争の足音が迫り、帝國海軍に徴用されて空母へと改造大東亜戦争に投入された。同じく空母へと装された大雲鷹とともに航空機輸送の任務に従事していたが、194312月潜水艦イルフィッシュ撃されて沈没した。

排水量1万7830トン、全長198m、全幅22.5m、喫8m、最大速21ノット、出2万5200、重油搭載量2250トン。艦載機は艦戦9機、艦攻14機。武装は12.7cm連装機8門、2.5cm三連装機10丁。

艦歴

新田丸時代

1940年に東京オリンピックが開催される事が決定し、多数の来日客が訪れる事を想定した日本郵船は新たに3隻の客船を建造しようと考えた。船名の新田丸は東京都新田神社から取られており、姉妹春日丸、八幡丸ともども日本郵船期待の新鋭船舶として誕生した。建造には「優秀船舶建造助成施設」を適用していた。これは建造費を助成する代わりに有事の際は軍に徴用される条件を課すものだった。

1937年9月三菱重工長崎造船所に発注1938年5月9日、第750番船として起工。1939年5月20日に進し、1940年3月23日工した。船日本郵船株式会社、船籍港は東京となった。当時の最高の技術と設計で造られており、内装はの一に尽きた。社交室、読書室、美容室、理容室、一等食堂、二等食堂等があり、冷暖房も備。開閉式の温プールまであったのだから驚きである。船内の装飾もこだわっており、産高級資材を内の一級建築家及び職人が巧みに使って和風に仕立て上げられた。そのやかさは世界最高のさと言われたアメリカクイーンメリー号に肩するものだった。

本来は欧州路線に就役するはずだったが、既に第二次世界大戦が勃発して戦場と化していたため、やむなく北航路(桑港線)に就役する。1940年4月1日長崎を出港し、神戸横浜を経由して本籍地の東京へ回航。4月6日から14日まで芝で披露された。秩父宮、高松宮、三笠宮、賀陽宮、久爾宮、梨本宮各殿下が来訪し、披露航の時には著名人が招かれた。4月17日から客船として航を開始。7次に渡って物資と客を運んだ。ちなみにオアフに向かった際、珠湾の調を行うため外務省職員に変装した吉川猛夫予備少尉が乗り込んでいる。

1941年8月4日横浜に入港。この頃にはもう日関係は深刻なまでに悪化しており、ついに軍によって徴用される。9月12日横須賀鎮守府所管となり、軍省に配属される。横浜港の大桟係留され、通信機器の強化が施されたが理由は船長にも知らされなかった。外洋に繰り出される他の徴用船とは対照的に船内の整備や塗装が連日続いた。実は、日本10月に日会談の開催をしており、新田丸は外交使節団を運ぶ船に定されていたのである。しかしハルノートを突きつけられたため交渉決裂となり、軍隊輸送船の任務を請け負った。開戦前東京横浜から落下部隊を高雄に運んでいる。

1941年12月8日大東亜戦争が勃発。内地から上海へ物資を輸送した。1942年1月12日日本軍が占領したウェーキに向かい、アメリカ軍の捕虜70名を収容。上海の収容所に送る事になったが、横浜に寄港した際に30名の軍特別部隊が乗船。彼らはウェーキ守備隊から密命を受けており、残虐行為を働いた5名の捕虜を航中に殺した。1月23日上海へ到着し、捕虜を降ろした。2月4日には釜山に入港している。3月17日に徴用解除が発され、5月1日に徴用解除となった。

そして直後の5月27日から装工事が始まり、8月1日には軍が船体を購入した。爛な賓室やサロン残に破壊されたが、代わりに空母に必要な設備が次々に取り付けられ、威容を誇るようになった。装は兼行の突貫工事だったという。最も装着手が遅かったため、戦訓から対兵装が強化された。航空機の発着を容易なものにすべく飛行甲も予定の長さより約10m延伸した。

大鷹型空母冲鷹

1942年8月20日軍艦冲鷹と命名されて航空母艦に艦種をめる。初代艦長に石井大佐が着任。11月25日装工事が了し、横須賀鎮守府に編入。艦首に菊の御紋を取り付け、マストに軍艦旗が掲げられた。翌26日にを出港し、横須賀で入渠整備を受けた。

20ノットという較的高速な足を持っていたので、航空機輸送船にはおあつらえ向きの性だった。護衛する駆逐艦の方も快足という事で歓迎されたという。既に工していた姉妹艦大雲鷹とともに3隻体制で輸送任務に臨む。

冲鷹最初の任務は、龍鳳とともに九九式双発軽爆撃機23機と乗員203名をトラックまで輸送する事だった。出港予定日は12月11日だったが、タービンの故障で翌日にズレこんだ。駆逐艦の護衛を受けてトラックしていたが、八丈島潜水艦ドラム撃を受けて龍鳳が脱落。難を逃れた冲鷹は輸送任務を続行し、12月18日に到着。基地に積荷を降ろした。帰り道駆逐艦朝雲時雨、途中で合流した巡洋艦長良に護衛されて26日に横須賀へ帰港した。

19431月2日15時30分、横須賀を出港。駆逐艦朝雲に護衛されてトラックに進出し、艦爆16機と零戦24機を積載。カビエン方面へと向かった。1月8日午前7時28分、カビエン100里の地点から航空機を洋上発進させて基地に着陸させた。しかし1機のみ搭乗員の発熱で発進できず、トラックに返却している。続いてラバウル航空機を輸送した。帰りは駆逐艦村雨に護衛され、1月20日横須賀へ帰投。2月7日横須賀を出港し、前回同様トラックを経由してラバウルカビエンに零戦20機を輸送した。2月20日横須賀帰着。8日後に横須賀を出発し、トラックへと向かっている。

4月4日姉妹艦大とともに横須賀を出港。今までは何事もなく輸送任務を成功させていたが、ここで戦場の恐怖を味わう事になる。ラバウル行きの三式戦闘機20機をトラックに輸送中、サイパン潜水艦ハドックに捕捉される。さらに潜水艦ニイが増援に現れ、冲鷹掛けて撃を仕掛けてきた。幸い魚雷爆し、損傷には至らなかった。敵襲を受けたものの、4月10日トラックへ入港した。16日に出港し、4月21日横須賀へ帰投。そしてすぐに横須賀を出港し、4月30日トラックに入港した。5月8日雲鷹艦長の揮下に入って駆逐艦潮、五月雨、夕暮、長波とともに出港。5月13日横須賀到着。

6月16日戦艦金剛榛名とともに横須賀を出港。トラックしていたが、入港直前で潜水艦スピアフィッシュと遭遇。撃はされなかったが、ヒヤリとする一幕だった。

9月21日姉妹艦大と護衛の駆逐艦3隻とともにトラックを出発。横須賀へ向かった。9月24日で大潜水艦カブリラの襲撃を受け、被。航行不能に陥った。冲鷹は一旦域から離れたが、駆逐艦が爆制圧を終えた4時間後に舞い戻ってきた。航索を渡し、慣れない作業を経て夕刻に航開始。速最微速で大を引っり、少しずつ前進し始めた。敵潜水艦の襲撃を警して乗組員は一睡もせず、8ノットの速横須賀した。第27号掃海艇が合流し、援護を開始。機が敵潜を発見し、第33号掃海艇が対潜掃討に急されるなど緊の一幕もあった。辛くも26日に横須賀まで連れ帰り、横須賀軍工が手配した船に引き渡した。今や日本も安全とは言えない状態となっていた。

10月4日駆逐艦島風等に護衛されて横須賀を出港。同10日にトラックに到着したが、今度は冲鷹がその標的にされた。10月16日トラックの北北西にて潜水艦ミンゴの撃を受ける。次いでサイパン北方フライングフィッシュ撃を受けたが、いずれも命中しなかった。10月20日横須賀事に到着したが、潜水艦の出現率が飛躍的に高まっていた。

最期

194311月30日ソロモンニューギニア方面から後退してきた第一航空戦隊の整備員、計科員、医務科員の転勤交代員、民間映画関係者533名を乗せた。また撃沈されたスカルピンの捕虜20名も分乗していた。彼らを乗せてトラックを出発。瑞鳳重巡摩耶姉妹雲鷹駆逐艦浦風とともに横須賀した。しかし暗号解析で船団の動きを把握していたアメリカ軍潜水艦3隻を中に配置して待ち伏せてきた。

外洋に出ると対潜警形に変え、速20ノットで之字運動を実施。まず最初にスケート雲鷹撃を仕掛けたが失敗。12月2日にガネルで攻撃を仕掛けたが、これも失敗。しかし翌3日にセイルフィッシュレーダーで船団を捕捉し、追跡を受ける。この時、季節はずれの台風が北東に進んでおり、上は大荒れだった。それでも到着時間と予定を遵守するため、船団は台風の中を突っ切る航路を取った。暴風雨の影で船団は18ノットに速を落とした。しいによって船団もセイルフィッシュも互いを視認できなかったが、セイルフィッシュにはレーダーがあった。

12月3日深夜、セイルフィッシュ八丈島東方330kmの地点で4本の魚雷を発射。日付が変わった翌4日午前0時、左舷前部艦橋下魚雷1本が直撃。火災が発生したが、この時は機関事であり自航行か可だった。しかし速低下を招き、船団から落。船団の揮を執る摩耶浦風に冲鷹の救援を命じ、他の艦には現場域からの離脱を命じた。4ノットの速北上する冲鷹だったが、セイルフィッシュの追跡はまだ続いていた。午前4時50分、新たに魚雷3本を発射。午前5時頃、機関室に命中し、機関科要員が全滅。艦内電話も不通となり、ついに航行不能に陥った。対で敵を威嚇したが、荒波の中で足が止まった空母は最前の火だった。艦長の大倉大佐は脱出に備えてイカダを作るよう命じ、各分隊は浮のあるものを集めて即席のイカダを作った。が明けると、少し視界が晴れた。しかも線には救援に来た駆逐艦の姿があった。乗組員が安堵したのも束の間、午前8時40分にトドメの魚雷が発射され、艦橋下に直撃。尽きた冲鷹は艦首から急速に沈み、わずか6分間で逆立ちするように沈没した。艦長と便乗者を含む3000名以上が戦死し、荒だった事もあって助かったのは約170名程度だった。アメリカ軍捕虜も20名中19名が死亡し、生き残ったのはジョージ・ロセック機関兵曹だけだった。味方の撃で死ぬとは何という皮か。彼はどさくさに紛れて飛行甲に脱出し、面に飛び込んだ。数名の日本人4時間漂流したのち浦風に救助され、横須賀に連行された。目隠しと捕縛をされたうえで大船収容所に収監され、そこで雲鷹に分乗していた同僚と再会した。

便乗者のうち、最も多く死亡したのが第一航空戦隊の整備員であった。彼らは精鋭だったゆえに損失も大きく、機動部隊再建の際に支障があったという。

1944年2月5日、除籍。

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最終更新:2020/04/07(火) 17:00

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