別所長治 単語

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ベッショナガハル

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別所長治(べっしょ・ながはる 1558 ~ 1580)とは、日本戦国大名であり、若くして散った反プリンスである。

概要

別所赤松の流れをむ名で、播磨では当時最大級の大名である。別所安治の頃には短命に定評のある一族三好と争っており、織田信長が畿内に進出するとこれと誼を結び、播磨を巡って三好と抗争を続けていた。・安治が1570年に39歳の若さで病死すると、僅か13歳で督を継ぎ、叔父である別所賀相・別所重棟らに支えられ、別所を保ってきた。

その頃の播磨はどこそこのが支配していたという事はなく、多数の大小名が割拠しており、西の毛利と東の織田に挟まれた、緩衝地帯的な意味合いが強かった(別所は旗頭的存在だったとも)。しかし織田の勢が拡大し、1577年頃に羽柴秀吉が対毛利官として赴任すると、別所は旗幟を鮮明にし、織田に付く事となる。(小寺小寺兵衛(後の黒田孝高)の説得により織田に付いたのもこの頃である)

しかし1578年、長治は突如として織田に反旗を翻し、三木に一族・人衆と共に篭する。その数およそ7500とも言われ、所謂『諸篭り(一族妻子、時には領民丸ごとに篭る事)』だったらしい。この反旗を翻した理由は今も判然としないが、下賤の出である羽柴秀吉への反感説・織田信長への反感説・浄土真宗一向宗)による突き上げ説・毛利の謀略説(別所は元々毛利とも友好関係を結んでいた)・叔父である別所賀相(反織田)・別所重棟織田)の対立説など、多くの説があり、これらのいずれか又は複数が原因であると思われる。

この篭戦は後に三木合戦』三木の干殺しと呼ばれ、この後も羽柴秀吉が多用する、『兵糧攻め』の端緒となった合戦である。当時は秀吉軍団が動員できる兵もそれほど多くはなく、多数の人員が篭る三木攻めするのは事実不可能だった。むしろ播磨の押さえや対毛利(この時点では絶望ティータイム宇喜多直家毛利方)への備え、それに荒木村重謀反も加わり、秀吉軍団はこの時点で事実上寸断されて大いに不利だった(この間に竹中重治は病死、黒田孝高荒木村重の説得に赴き捕虜となる)。しかし荒木村重の反乱が々とすぼみになった事、毛利が補給支援ばかりで積極的な侵攻策を採らない事などが重なり、今度は逆に長治の側が三木に封じ込められてしまった。最大の問題は多数の兵やその家族を抱えていたため、食料をかなりのスピードで消費してしまった事である。篭時にはそれなりに蓄えていたらしいが、それも篭が長期に及ぶと足りなくなるのは自明の理である。また、篭しているので領民からの年貢も当然徴収できない。毛利も陸路から兵糧の補給支援をしていたが、包囲を密にする秀吉軍団に阻まれて徐々に失敗が多くなり、ついには補給が全に途絶えてしまう。それでも三木では頑強に抵抗を続け、この篭戦は実に2年に及んだのである。

ついに尽きた長治は、自身の切腹と引き換えに兵を助命する事を条件として降秀吉がその条件を了承すると、長治は自ら妻子を刺し殺し、達と共に自害した。享年23。ここに戦国大名としての別所は滅亡する。だが別所氏叔父別所重棟織田方についていたため、断絶はしなかった。

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掲示板

  • 11 ななしのよっしん

    2019/04/30(火) 18:48:52 ID: DE8TIsgck5

    なんというか長治がこんな行動とって
    しまったのって播磨にこもりっきりで中央への
    ひがみ全開の賀相に流されてしまったから
    という感じにも見える

    センゴクではひとかどの人物として
    描かれてた別所賀相だけど安治や
    重棟が割と空気や情勢を読める分余計に
    DQNに見えてしょうがない
    (最後の降条件拒んで徹底抗戦
    しようとしたら結局部下に見限られて
    殺されたくだりも)

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  • 12 ななしのよっしん

    2022/01/19(水) 16:31:55 ID: RBos9zaJA1

    言うほど意味不明な離反じゃないと思うぞ

    まず前提として毛利が前から上を攻め始めたのに対して織田は大した援軍を送れなかったから、これでは実際には頼みにならんと国衆らも含めて判断したのは仕方ない

    2年籠できたのも結局、織田が本気の軍勢を中国に送るだけの余がまだなかったから

    毛利が調略したのはあるだろうが、石山合戦はまだ着状態だったし、その間にもっと織田に近い荒木村重も裏切ってるし、そういう現実があるから国衆も従って戦ってるわけだし

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  • 13 ななしのよっしん

    2022/04/19(火) 08:30:22 ID: XsT8yD5RiK

    織田毛利間の戦争はほぼ緩衝地帯の代理戦争・周辺国衆の切り崩しあいだからね
    宇喜多南条を味方に回してやっと毛利本隊と本格的に接敵できたし

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