前田利長(まえだ としなが 1562~1614)とは、戦国時代~江戸時代の武将・大名である。加賀百万石を築いた前田利家の長男。
前田利家とまつ(芳春院)の長男。妻は永姫(織田信長の娘)。
豊臣秀吉に従い、秀吉没後は徳川家康と対立したが、関ヶ原の戦いでは家康が率いる東軍に味方した。
江戸幕府と駆け引きを行って父から受け継いだ加賀百万石を守り抜き、善政を敷いて繁栄の基礎を築いた。
石川県や富山県高岡市では名君として人気が高い。
ちなみに加賀百万石の初代は正確には利長で、加賀前田家の初代が利家である。ややこしい。
尾張前田家の分家筋だった利家が北陸に赴任して能登加賀の大名となり、利長が前田家の領地に越中と加賀南部を加えて百万石越えの前田家が成立した。
ただし江戸時代の武家が家祖を大いに顕彰したことや、知名度は現代でも父利家の方が遥かに上であることから、加賀百万石といえば前田利家というイメージが強い。
初代 二代 三代
加賀前田家 利家 利長 利常 ……
加賀百万石 利長 利常 光高 ……
(加賀藩)
当時の政界の 中心人物 |
前田利長の略歴 |
織田信長 | 織田信長の娘を妻に迎えて、エリートコースを歩む。 父親である前田利家の後任として越前国府中(福井県)に赴任。 新婚旅行中に?本能寺の変が勃発。 |
豊臣秀吉 | 前田家は一家揃って秀吉から厚遇を受けた。 九州征伐・小田原征伐等に参加して活躍し、秀吉の天下統一に貢献。 加賀国松任(石川県)の大名から越中国(富山県)の大半を支配する有力大名へ、更に 秀吉の相談役を務めた父親に代わって加賀と能登国(石川県)の支配も代行。 |
徳川家康 | 父親の領地も継承。加賀百万石の前田家が成立。 秀吉没後に家康と対立したが、政争に負けて徳川家に従った。 関ヶ原の戦いで東軍に味方し、加賀南部を併合。130万石超えの、徳川家に次ぐ日本第2位の大大名となった。 戦後に越中国の割譲を要求されたが、圧力を撥ねつけて領地を維持した。 |
徳川秀忠 | 徳川家は方針転換し、利長が後継者に選んだ弟の前田利常を徹底的に厚遇した。 しかし利長の晩年には前田家に圧力を掛けて越中の割譲を要求した。 晩年の前田利長は、高山右近らを起用して高岡の開発事業を推進した。 |
父親の前田利家が織田信長の直属軍団を率いた名将だったため、利家の息子である前田利長は将来を約束された期待の星だった。
前田利長は織田信長に見込まれて信長の娘永姫を妻に迎えた。信長の娘婿となった利長は、織田政権期には父が管理した越前国(福井県)府中の代官の一人になった。
前田利家は同僚の佐々成政や上司の柴田勝家と組んで越前国の劔神社を迫害した疑いがあり、激怒した信長は彼の側近に調査を命じたことがあった。
織田家の先祖は劔神社に勤務したという歴史があった。
そして前田利家、佐々成政がそれぞれ能登国(石川県)、越中国(富山国)に転任した後、前田利長が越前府中に送り込まれた。
府中の代官となった前田利長は、織田家北陸方面軍の主な戦いである加賀国平定戦や越後国(新潟県)の上杉家との抗争に参加した形跡は見つかっていない。
利長の主任務は劔神社をはじめ織田家発祥の地とも言われる現地の諸勢力との友好的な交流だったのかもしれない。
<賤ヶ岳の戦い>
日本史の教科書に載っているこの戦いに、前田利長も父利家と共に参戦。
前田軍は最前線の天神山砦に入って羽柴軍を脅かし、柴田軍の奇襲部隊と連動して羽柴軍を窮地に追い込んだ。
しかし戦そのものは柴田軍の大敗となり、前田勢は敵の重囲を突破して多数の死傷者を出したが撤退に成功した。
但しこの戦いで前田軍は逆に戦線離脱することで味方だった柴田軍を敗北させ、秀吉を勝利させた疑いがある。
前田利家の動向 | ・本能寺の変の直後、管轄地の能登国の政情不安で急いで帰国。柴田勝家からの出陣要請に応えられず。 結果、北陸方面軍全体が信長の弔い合戦を行えず、利家は負い目を抱えることになった。 ・一ヶ月後の荒山合戦では、北陸諸将からの援軍を得て大勝利。 ・賤ヶ岳の戦いでは北陸方面軍の最前線の砦を預かり、同軍が秀吉軍に対して仕掛けた奇襲作戦でも、敵の砦に近い場所を占拠して友軍の背後を守る重要な役割を担った。 |
前田利長の動向 | ・北陸諸将との縁は薄く、信長の側近衆との交流の方が深かったと考えられる。 信長の右腕的存在だった丹羽長秀は、織田家の婿としても利長の大先輩。 丹羽長秀が筆頭の側近衆は秀吉と協力した。 つまり先輩も同僚も友人たちも皆、秀吉派。 ・能登の治安維持、越前の方が近江に近いなどの事情から、前田父子が動員した軍勢は、利家に仕え続けた古参や能登国衆よりも、利長に従う越前衆や急募した傭兵が多数を占めた可能性。 ・戦後は秀吉から一貫して厚遇を受け続けた。 やがて宇喜多秀家と並ぶ次世代のトップとなった。 |
柴田勝家に味方した前田利家は、戦後に秀吉から加賀北部を任された。
一方、前田利長は父親とは別に秀吉から加賀国松任城を与えられた。松任は、加賀北部まで支配地を広げた父利家と、戦後に加賀南部・越前を支配した丹羽長秀の支配地の狭間に位置する。
前田利長は前田家・丹羽家の連絡役と、利家のお目付け役を秀吉から任されたのかもしれない。
そして利長の側近達(越前衆)は急速に台頭し、利家に仕え続ける古参武将と肩を並べるようになった。
<秀吉包囲網>
「秀吉包囲網」の記事を参照のこと。
連動して北陸で起きた前田利家VS佐々成政の戦いにおいて、前田利長は古参の将兵に加えて元柴田軍の将兵も率いて戦った。
ということくらいしか分かっていない。
当初前田軍は佐々軍の猛攻を受けて防戦一方で、その状況が半年に渡り続いた。
利家は要地防衛に奔走する一方、佐々軍を分散させる為に別動隊を越中へ侵攻させる作戦も実行した。利長もこうした作戦に参加して、劣勢からの挽回に貢献したのかもしれない。
一方、前田利家は開戦前に佐々成政の不穏な動きを秀吉に報告したが、取り上げられないどころか利家が秀吉から咎められた。
やがて秀吉が大軍を率いて北陸に出陣し、佐々成政は秀吉に降伏。
秀吉は佐々成政から取り上げた支配地(越中国の大半)を前田利長に任せた。
大抜擢である。
その後、秀吉はそれまで友好的な同盟関係だった越後の上杉景勝に圧力を掛けて服従させた。
そして秀吉は東国諸大名に対し、前田家を介した連絡網を広げて東国へ影響を及ぼしていく。
織田家の勢力を統一した秀吉政権において、前田家は重要な役割を与えられたのだった。
<九州征伐>
秀吉が行った九州征伐に前田利長も参戦。
利長は彼と同様に織田信長の娘婿である蒲生氏郷や、信長から期待された若手仲間の細川忠興と組んで活躍した。
三者とも信長から期待され、秀吉からも期待されて活躍を続けている武将だった。
なお蒲生家も細川家も、信長没後の抗争では一貫して秀吉を支持した。
<小田原征伐>
関東の北条家を討伐するために秀吉が起こしたこの戦にも、前田利長は参戦。
前田利家は北陸地方・信濃国の軍勢(以後北陸軍とする)の総大将となり、前田利長は父と共に前田軍を率いて関東へ攻め込んだ。
北陸軍は上野国・武蔵国の各地で損害を顧みない強襲を繰り返し、北条方の多数の城砦を短期間で制圧。兵糧不足に悩んだ豊臣軍の勝利に大きく貢献した。
北陸軍の総大将として大功を挙げた前田利家だったが、しかし戦役の最中に突然秀吉から罷免され謹慎させられた。
そして秀吉は後任に前田利長を任命した。
……この頃まで秀吉から信頼されていたのは、前田利家ではなく前田利長だった。
二人は親子であり、秀吉と寧々が愛情を注いで育てた豪姫の血の繋がった家族である。
なのに父子に対する秀吉の扱いの違いはどういうことか。何か原因があったのだろうか……?
豊臣政権による天下一統の後も、前田利長は秀吉から厚遇された。年の近い弟の前田利政も同様だった。
一方、父利家も、小田原征伐やその前後の時期の諸侯取次で実績を挙げて秀吉からの信頼を得ると、以後は相談役として重用された。
元々前田家は秀吉、寧々と織田家時代から深い繋がりがあり、前田父子の功績も加えたことで、豊臣の天下で栄華を誇る名門となった。
また秀吉の御はなし衆に、父利家や友人の細川忠興らと共に加わった。大名は基本的に取次を通じて秀吉と交流したが、利長たちは直に秀吉に会って親しく交流できる立場であった。
続柄 | ||
前田利家 | 父 | 豊臣秀吉の親友。 秀吉の相談役を務めて上方勤務が長く、唐入り(文禄慶長の役)でも九州名護屋まで秀吉に同行した。 豊臣政権では家康に次ぐ地位を秀吉から与えられた。 |
まつ | 母 | 寧々(秀吉の正妻)の親友。秀吉夫人たちの諍いを仲裁した話があり、社交界で活躍。 |
前田利長 | 本人 | 秀吉から厚遇され、父親とは別枠で有力大名となった。 唐入り中に京都に長期滞在した時期があり、豊臣政権の公務の一部を担った可能性がある。 利家没後は父親の地位を継ぎ、宇喜多秀家達と組んで徳川家康に対抗した。 |
前田利政 | 弟 | 秀吉に見込まれ、厚遇と官位を得た。 |
摩阿姫 | 妹 | 秀吉の夫人。側室ではなく正室扱いを受けた説がある。 |
豪姫 | 妹 | 秀吉と寧々の養女。二歳で羽柴家の養女に迎えられて、養父母から大変可愛がられた。夫と共に地位はとても高かった。 関ヶ原合戦後は寧々に仕える等、生涯豊臣の絆を大切にした。 |
宇喜多秀家 | 妹婿 | 秀吉の猶子(家名を継がない養子)、豊臣政権の五大老。豪姫の夫。 関ヶ原の戦いにおいて、西軍結成の主導者は石田三成ではなく宇喜多夫妻という説がある。 |
大局 | 叔父 の妻 |
前田利家の弟佐脇良之の妻で、浅井三姉妹の乳母。または賤ヶ岳の戦いの後で姉妹に仕えた。 柴田勝家の滅亡で実家を失った淀の方は、寧々の後ろ盾を得て秀吉夫人となり地位を得たが、そこには前田家からの働きかけがあったのかもしれない。 |
秀吉は前田家、宇喜多家、徳川家などを羽柴「家」に加えた巨大な親族グループを形成し、彼らに政権の重責を担わせることで安定を図った。
順風満帆な前田家だったが、しかし秀吉の晩年から彼の徳川家に対する一層の重用が進んだことで、後の諍いの種も育ち始めていた。
世代交代が進み、秀吉は次代の重鎮として有力大名家の中から、徳川秀忠と毛利秀元に格別の厚遇を与えた。
一方、前田利長と永姫は子宝に恵まれず、後継者問題が生じた。
とはいえ当時は同母弟の利政も健在で栄達していたし、秀吉の計らいで前田家は他家との婚姻を進めるなどしていて、この時点では前田家は安泰だった。
前田利長は家康と仲が良かったが、秀吉没後の政争では父利家の方針を継いで家康に対抗した。
というより家康との対立に乗り気ではなかった節もある利家と違い、利長はやる気だったようで、両派閥の対立は後述の加賀征伐を引き起こすことになった。
豊臣政権の貴公子である宇喜多秀家が引き続き協力したことから、前田・宇喜多・徳川も取り込んだ羽柴家の中での主導権争いの一面もあったかもしれない。
前田・宇喜多両家と縁が深い寧々の当時の動向も気になるところである。
※そもそも伏見の家康・利家らとは別枠の権力者である寧々が前田利家を大坂に呼び、彼女が使っていた仕事場を利家に譲ったことが政権分裂の始まりである。
大坂の前田利長、宇喜多秀家は利家存命時から協力者である加藤清正、細川忠興らの支持を維持して伏見の家康と睨み合いを続けた。
しかしここで利長が急遽加賀へ帰国し、前田家家臣の粛清を行った。
その後の展開を考えれば迂闊な行動だが、前田利家の存在が重石となっていた家中の統制が、利家の死により混乱したのかもしれない。
一方、家康は前田利長不在の好機を逃さず、急ぎ兵を呼び寄せて軍事クーデターを決行。前田利長と彼の協力者たちを分断し、利長を孤立させた。
窮地に追い込まれた前田利長は家康との武力対決に踏み切ろうとして、豊臣氏と諸大名に協力を求めた。
しかし彼らからの協力は得られなかった。
秀吉からの評価は高く人望もあった前田利長だが、生ける伝説だった前田利家や徳川家康の名声には及ばなかった。
前田利長は家康に屈服し、母おまつ(芳春院)を江戸に送り付けて、前田家が徳川家に従うことを世間に示した。
前田利長が家康に屈服した後、中央政界では大きな変化が生じた。
人物 | 立場 | 結果 | 備考 |
寧々 | 豊臣の母 秀吉に次ぐ権力者 |
大坂城から離れた 政界から一応引退 |
大蔵卿局を復帰させようとしたりと、その後も精力的に活動 |
浅野長政 | 寧々の兄弟 豊臣政権の重鎮 |
失脚 徳川領へ流刑 |
息子の浅野幸長は家康派の急先鋒。 |
大蔵卿局 | 淀の方の乳母 公務に従事 |
息子共々失脚 | 息子の大野治長は後に関ヶ原合戦で東軍に参加し、戦後は家康のお気に入りとなり厚遇された。 |
土方雄久 | 前田利長の従兄弟 豊臣氏に仕えた |
失脚 | 武勇の人で、大野治長と共に家康暗殺を計画したとされる。冤罪っぽいが… 関ヶ原合戦では前田利長を説得して東軍を支持させた。 |
宇喜多秀家 | 五大老 西国の有力大名 |
家康に屈服 | その後に起きた宇喜多騒動(御家騒動)の調停を大谷吉継と榊原康政(家康の重臣)に依頼。 後に家康からの信用を得て留守を任されたが…。 |
毛利輝元 | 五大老 西国最大の大名 |
家康に同調 | 家康に次ぐ有力大名。前田利家や石田三成の影に回って暗躍。 家康は輝元を信頼して上杉征伐に向かったが… |
上杉景勝 | 五大老 東国の有力大名 |
家康に同調 | 後に越後の堀家とトラブルを起こし、それが家康の上杉征伐の原因となった。 |
※前田利長は家康と対立したのではなく、家康を支持しその態度表明として加賀へ帰国したという説も近年出ている。
実際に融和策を利長が選んだとすれば、その後の展開は家康の利長に対する裏切りであり、江戸時代に入ってからも続く利長と徳川家の暗闘の原因はそれだったのかもしれない。
前田利長は関ヶ原の戦いでは、家康が率いる東軍に味方した。
北陸において前田軍の規模は圧倒的、さらに隣国越後と飛騨も東軍方で背後の守りも万全だった。
ところが西軍に味方した大名が多い越前国に攻め込むことで東軍を助けようとはしなかった。
前田軍は加賀南部の大聖寺城を攻略、同地域を征服した後、すぐに引き揚げた。
その帰路で丹羽長重の軍勢から奇襲を受けて敗北した。
(浅井畷の戦い)
金沢へ引き揚げた後は一月近く動きを見せず、家康から催促されてようやく出陣した。
そして前田の主力軍が向かった先は、またしても越前ではなく加賀の丹羽領だった。
前田の大軍が丹羽軍と対峙している間に、美濃国で東西両軍の主力が激突、東軍が勝利した。
関ヶ原の本戦には関与しなかった前田利長だったが、北陸最大の大名が東軍に味方しただけでも勝利への大きな貢献であり、戦後の論功行賞で丹羽領も含む加賀中部・南部を領有。
丹羽長重は元々家康の支持者だったが、前田利長への対抗から西軍に味方し、最後は改易される羽目になった。
(浅井畷で前田利長の輝かしい戦歴に大きな傷を付けたが)
ちなみに家康は前田家と丹羽家に停戦を働きかけてこれを実現したが、その際前田利長に送った書状の中には、「戦うなら美濃まで来て戦ってよ」という内容の一文があった。
前田利長は加賀で引き起こした局地戦に専念することで日和見をしたのではないか、と家康は疑ったのだ。
利長は格下の丹羽長重に負けたのが悔しすぎて本気で丹羽家を潰そうとするも丹羽長重の奮戦で最後まで勝てなかっただけかもしれないが……。
ともあれ前田家は徳川本家に次ぐ日本第二位の大大名となった。
しかし豊臣政権で享受した特権を失い、前田家に友好的で強力な親族だった義弟の宇喜多秀家が失脚。
前田家は独力で、天下人となった徳川家に向き合うこととなった。
徳川家康が事実上の天下人となり、江戸幕府の支配が始まると、前田利長は大人しく徳川家に従った。
弟の前田利常と、徳川秀忠の娘珠姫の婚姻話も進めて実現し、前田家の立場を強化した。
しかし徳川家は前田家と縁を結ぶ一方で、関ヶ原の戦いの後始末が終わった頃から前田家へ圧力を掛け始めた。
1602年、徳川家は前田家への糾弾を開始。そして同時期に家康が越前に送り込んだ息子松平秀康が、過剰な牢人の登用による性急な軍勢の強化を始めたのである。
松平秀康は家康、秀忠と仲が良く、明らかに連動していた。
徳川家による前田家討伐もあり得る危機に前田利長は立ち向かうこととなった。
前田利長は関ヶ原の敗者を登用して前田家の戦力を強化しつつ併合したばかりの加賀南部の支配を確実に進めながら、前田家と農村部・都市部の一方通行ではない連絡相談体制の確立、職工を招き前田領に移住させて技術を根付かせる殖産、父利家らが焼き討ちした寺社の復興等を推進して善政を敷き、支持者を増やして領国支配を盤石なものとした。
前田利長は徳川家からの圧力を撥ねつけ、家臣団は利長の意向を受けて粘り強く交渉した。
天下を取った徳川家も、遂には引き下がるしかなかった。
ちなみに松平家の方は、秀康の死後に跡を継いだ松平忠直が寺社との関係修復に努めるなど領国支配を頑張ったが、秀康が方々から雇用して遺した家臣団の統制に大変苦労した。
越前松平家の家臣間の抗争には江戸幕府も手を焼き、最終的に越前松平家と家臣団を分割することで問題を解決した。
前田利長の死後の出来事ではあるが、利長は徳川家に一矢報いたのだった。
同じ問題を前田家は既に抱えていたが…
<弟の失脚>
同時期、利長は弟の前田利政の粛清も行った。
利政の領地は、土方雄久が手に入れた。土方は先の政争で失脚し、その後は家康に厚遇された人物である。
利長は土方と仲が良かったが、土方は家康とも仲良くなっていた。
利政の失脚にどのような事情があったかは、未だに謎が多い。
利長は本当に徳川家に負けなかったのか、それとも徳川に屈して弟を犠牲にしたのか…。
なお近年見つかった書状から、前田利長は徳川家からの圧力を利用して別の弟(前田利常)への家督と権力移譲を上手く進めた可能性も指摘されている。
利政粛清は、徳川家の婿となった利常の政権を有力親族として将来脅かしかねない利政を排除した事件だったのかもしれない。
<晩年>
その後の利長は、友人であり前田家に客分として登用した高山右近らを引き連れて越中国高岡に隠居し、現地の開発と金沢に残した利常の後見を行った。
高岡は利長一代の治世で大いに発展した。
利長は現代まで高岡の名君として敬意と賞賛を受け続けている。
晩年の利長は重病を患い苦しんだ。
利長が衰えると、江戸幕府は前田利長に謀反の疑いありと因縁を付けて圧力を掛け、領地の割譲を要求した。
利長は幕府の脅しに屈しなかった。
最晩年は前田家の中で権力を失い、高山右近らの追放を止められなかったが、加賀百万石は損なわれなかった。
1614年、前田利長病没。
加賀前田家は明治維新を迎えるまで繁栄を続けた。
父と共に加賀百万石を築き、善政を敷いて繁栄の礎を築いた前田利長は、同時に災いの種も遺した。
<家臣間の諍い>
一つは統制に苦労する巨大な家臣団と、家臣同士の対立である。
この争いは前田利長が直面した数々の危機に際して前田家を脅かした疑いがある。しかも利長の死後は前田利常を悩ませた。
家臣の統制は幕末に至るまで歴代当主を苦しませることになった。
原因は前田利長が父利家とは別枠で有力大名となり独自の家臣団を形成し、後に父利家の家臣団と統合したことにある。
この問題を前田父子は認識していて、利家は前田一門を越中に派遣して利長を補佐させたり遺言を残し、利長は粛清を行ったのだが…。
その後も前田家は利長の舵取りで増々大きくなり、領地の拡大と徳川家から圧力を受ける度に利長は更に外部から人員を雇用して重用したため、家臣間の対立は一層深刻になった。
終いには諍いの中で利長の股肱の臣だった横山長知が失脚。当時既に高山右近らは前田家を離れていた。
利長は最晩年には権力を失い高山や横山たちを庇うことができなかったとみられる。
加賀百万石の偉大な二代目の最晩年は寂しいものだったのかもしれない。
<家族のすれ違い>
前田利長は数々の危機を乗り越えた勝利者だが、選択の度に家族とのすれ違いが生じた。
・母との諍い
芳春院(母)は関ヶ原合戦後、宇喜多秀家の助命に尽力した。
彼女は加賀前田家の江戸における窓口の役割を担った、と江戸幕府は認識して対応した。ところが……。
後に徳川秀忠から利長宛てに送られた書状に拠ると、幕府は利長の隠居城築城の件で芳春院に回答済だった。しかしその後この件に関して利長から幕府に対し何も返事がなく、調べてみたら築城を始めてもいないので、急いで利長宛てに書状を認めた。
芳春院を介さない直通回線で利長に問い合わせた、というわけだ。
内容が事実なら、江戸の芳春院から加賀の利長に隠居城許可の件が伝えられていなかった疑いがある。
なおこの件について利長は大人の対応をした。
その後利長が築城に際し高岡で地鎮祭を行わせ、そのことを芳春院に報告すると、芳春院は陰陽師を高岡に寄越して地鎮祭のやり直しを要求したのである。
利長はやって来た陰陽師を邪険にせず厚遇し、話し相手にして重用した。
母からの意地悪を上手く躱し、母の手先を自派に取り込んだのである。
息子のそういう如才が無いところが、芳春院は気に食わなかったのかもしれない。
・妹とのすれ違い
豪姫(妹)は関ヶ原合戦後、高台院に仕えながら、夫不在の宇喜多家を守った。
宇喜多秀家が流刑に処された後に、金沢へ行き前田家を動かして夫への援助を始めさせた。
幼児の時に秀吉・寧々夫妻の養女になった豪姫にとって、金沢は故郷ではなかった。夫を援助させることだけが目的だったかもしれない。
・弟の動向
前田利政(弟)は利長に粛清された後は隠棲した。
後に大坂の陣で豊臣から参戦を打診されたが断った。豊臣から見た彼は、参戦の見込みがある人物だったのだろう。
一方、前田利常(弟)は側室の子でしかも利家に認知された時期が遅く、生母と芳春院の諍いもあり微妙な立場だった。
だが利長のお膳立てで徳川家の婿になり加賀百万石を継いだ(継がされた)
豊臣が亡びた後も金沢で人望があった芳春院と豪姫に利常はかなり気を遣った。後に豪奢な屋敷を建てて二人への贈り物にした。
また利政の息子を重臣に取り立てたり、横山長知を帰参させた。
利常は利長が引き起こした諸問題の解決に取り組み、生涯苦労したのだった。
<圧政>
これは前田利長の死後の出来事で利長に直接関係ない事ではあるが、利長によって加賀前田家の三代目当主に据えられた前田利常は、彼の晩年に高岡周辺の農村部に対し圧政を開始した。
利常あるいは重臣たちがそうした理由は不明である。
圧政は利常の死後も続き、更に前田家は圧政の適用範囲を拡大していった。
本国加賀と重臣たちの領地の繁栄とは対照的に、越中能登のそれ以外の農村部は苛政に耐えかねた農民の一揆と、それに対する前田家の容赦ない鎮圧、一揆の指導者に対する見せしめの酷刑が断続的に繰り返される修羅の国と化してしまった。
前田利長は高岡と周辺の開発で高山右近を重用したが、その事と関係があるのだろうか?
なお高岡の町は参勤交代の中継地でもあり繁栄を続けた。
掲示板
9 ななしのよっしん
2020/01/15(水) 18:26:11 ID: mS7HhFUJ66
記事違いなのを承知で聞くけど、記事にある大野治長が家康に気に入られてたってのは本当なの?
むしろ嫌われてるイメージしかないんだが
10 ななしのよっしん
2023/11/04(土) 19:33:00 ID: HdjsOGch0v
家康暗殺組はなんか裏あるんじゃないかと勘ぐるのもしょうがないくらい普通に家康と盛んに交流してるし何なら関ヶ原あたりには少なくとも万石以上の領地与えられて引き立てられてるからな
自分を
11 ななしのよっしん
2024/06/05(水) 13:51:38 ID: WxPdL0AzI1
家康からすると数少ない、まだ言葉が通じる大阪城シンパだから…→大野治長
他の大阪城の奴らはまず言葉が通じん。ほぼ宗教。
だから片桐は抜け出すしかなかった。
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最終更新:2025/04/22(火) 06:00
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